Lamp

せい

第1話 cloudy sky(曇り空)

 ――あのガス灯は、いつか全て、電灯にとって代わられるらしい。

 

 新聞にはそんなような事が書かれている。政治、事件。退屈な話題ばかりの中で、アイザックはその記事だけが、どうにも気になった。しかし、それはほんの少しの間だけだった。

 トントン、と爪先が寒さで結露した窓枠を叩く。規則的だが、いささか乱暴な雰囲気を纏わせたその音に、アイザックは耐えられなくなり声を上げる。

「……それで?今日は何にイラついているんだ?」

 仕方なくといった様子で視線を上げ、ダラダラと読んでいた新聞を折り目など気にせず畳み、テーブルに放った。そして窓辺の椅子に沈む青年、カルロに声をかける。彼は、些細なことにでも感情を閉じ込めたりしない性質だ。今日に関しては、その怒りの理由がアイザックには検討がついていたが……念の為、疑問形で聞くことにした。昨日怒り狂っていた事柄でも次の日には忘れている。そういう所があるのもまた、カルロという人間なのだと、アイザックは共にパブリックスクールに通っている頃学んだ。声をかけると焦げ茶色の短い髪が揺れ、それよりもさらに黒い瞳が、窓の外からアイザックに視線を移す。

「……わかってて聞いてんのか?」

「もし、昨日の件だったら僕は謝罪したと思うけど」

「謝罪なんてなんの意味も持たない。昨日も言っただろ、俺の問題じゃないんだ」

「わかってはいるよ」

「わかってんならなんで傷が増えてるんだよ」

「そこの階段で転んだ。疑うなら妹に聞いたっていい。手当をしてくれたのはあの子だ」

「あんなとこ転ぶような所じゃないだろ……」

「そうは言われても、事実だからな」

 

 ……カルロは溜息をつき、そして考えた。アイザックという男は昔からそうだ。自分に大して興味が無い。金色と言うには、随分くすんだその髪。灰色のロンドンの湿気を含んでうねる、前髪の下のガーゼがその証拠だ。昨日はひとつだったのに、今日の夕方に会った時には増えていた。髪と同じようにくすんだ灰青の目は、ただ静かに次の言葉を待っている。

「昨日も言っただろ。アイザック、お前は――」 

 

 カルロは思い返す。昨日のことだ。夕方、マーケットで買い出しをした帰り。

 この街で貿易商の息子として生まれ、ある程度裕福な暮らしをしているカルロでも、自分の作りたい、食べたいもののためにマーケットに足を運ぶ。彼の家では、全員がそうして平等だった。

 少し幅の広い路地。いつも通りの喧騒の中。カルロは怒号を聞いた。

 それが、アイザックの名前とわかってからの行動は早く、声のする方へ駆ける。今日は、二人に囲まれていた。知らない顔だが、労働者ではないことだけはわかった。階級の差は服に現れる。夕日の差し込まない薄暗い路地裏でも。あの男二人が着ているそのフロックコートは、労働のための物ではないと。その中で、アイザックは壁に背をつけ座り込んでいる。俯いているその光景がいつか見たものだとしても、カルロは頭に血が上るのを感じた。

 前日の雨で湿った路地裏に、素早く身を滑り込ませたカルロは、そのままの勢いで男を壁に押し付ける。ドン、という鈍い音と痛みに男は呻き声をあげる。しかし、もう一人の男はそれを制止するのを、躊躇した。それは、カルロの行動があまりにも素早く迷いのないものであったからだった。しかも、カルロは無言のままだ。無言のまま、男を締め上げている。

「なんだよ、お前……!」

 カルロは返事をしない。一人の男はもう一人を置き去りにして逃げた。締め上げた男の声が怒りから恐怖に変わったころ、ようやくその手を緩める。離した手から抜け出し、青ざめた顔のままバタバタと逃げ去るのを見届けると、路地裏は静かになった。顔を顰めたくなるような排気の匂い、何事かと顔を覗かせる子供たちの囁き声。それらがようやく聞こえてきた。

 アイザックはゆっくりと顔を上げる。額から細く血を垂らしている以外は、さっぱりとした顔だった。まるでさっきまでパブに行って酒を飲んでいました、とでも言わんばかりの顔。

「……大丈夫か」

「ああ」

「怪我は」

「壁に押し付けられた時、額が少し切れたな。傷は浅いと思う。それ以外はない」

「そうか、それならいい。こうなった理由は?」

「いつも通りだ」

 大体の事情はわかっていた。アイザックの家の階級。銀行業という仕事。父親も同様の職業。そうなってくるとアイザックの周りには、人も情報も集まる。良いも悪いも関係なく。アイザック自身の意思に反して。

 アイザックは乱雑に袖で血を拭う。黒いフロックコートに血は染み込み、すぐに見えなくなる。雑に拭ったそれと同じように、言葉も軽かった。

 アイザックのそういう顔は、カルロにはもう見慣れたものだった。心の中で何も思っていないわけはないくせに、顔には一切出さない。出すほどのものではないと、諦めている。

「……で、お前はまた何も言わなかったわけだ」

「まあ、そうだな。……あいつらは見てくれだけで、度胸はないだろ。最悪、三発」

「殴られれば終わるって?」

「わかってるじゃないか」

「褒められても嬉しくないな」

 少しの間沈黙が降りる。カルロには言いたいことがあった。アイザックが、そんなことはとうに理解しているとしても。アイザックは何かを見透かそうとするでもなく、縋ろうとするのでもなく、ただカルロを見ている。相手の言葉を受け取ろうとしているだけの、目。

「……少しくらい言い返したらどうだ。殴られるのは、変わらないとしてもさ」

「殴られるのはいいのか?」

「良くはないだろ。それはお前を鍛え直すしかない」

 アイザックの腕がおもむろに上がり、その指は自身のこめかみに触れる。視線は右上。わかりやすい癖だった。次に何を言うか慎重に考えている時の。そしてぽつりと呟く。

「……もう、何を言えばいいのか分からないんだ」

 今度はカルロが言葉に詰まる番だった。辺りは暗くなり始め、嫌な心地の冷たい風が吹き付ける。

「わかってる……それはわかってる。……変われって、言うのは簡単だけど。それじゃ、なんにもならねえよな」

 カルロは、不当だと思うことにはすぐに怒りを表すことが出来た。それは家族や友人に降りかかったものにしても同様。けれども同時に、この都市で生きるために必要なこともがあるというのも、わかっていた。表面上の対話に、無理に引き上げた口角が作る笑顔。それらのおかげでカルロの父親は財を築き、家族を養ってきた。カルロも同様だ。そのおかげで少なくとも食うものには困らずに、今を生きている。今という時代。それと、アイザックの家が継いで来たものも、ふたりに素直に生きるということを許さない。

「ごめんな、カルロ」

「……アイザック」

 だからこそ、カルロはアイザックの謝罪に返す言葉を戸惑うのだ。簡単には解放されないなにかに、縛られている。けれどもカルロは一人の友人を――共にスクールで話した夢を、叶えようと言った幼さ故の約束を――手放されてはたまらないと思っていた。

「これは、俺の問題じゃない」

 だからこそ、そう切り出す。アイザックの小さな変革を願った。時代という大きなものに抗わずとも、ただ、彼自身の小さな変革を。

「今日みたいなことがあっても、諦めないでくれ。少しでも抵抗しろ。声を上げろ。……お前の問題なんだ。それだけは忘れるな。俺とお前は、違う人間なんだ」

 カルロは、アイザックの全てを変えろとは思っていない。それに、一度の言葉で人生が変わるなんてことも信じてはいなかった。何度でも言ってやると。ただこの言葉をアイザックに投げつけておきたいだけなのだとも、自覚していた。

 アイザックは小さく頷く。そのまま自分の手で、足で立ち上がった。カルロの目の前で起こったことは、それだけだった。

「……カルロ、礼を言うよ。また、こうして助けてくれたこと」

「……ああ」

 アイザックの後ろ、馬車と石畳の音が響く大通りではガス灯が着き始めた頃だった。ロンドンの街は日が落ち暗い。アイザックの表情にも影がかかっている。晴れやかとも、曇っているとも言えなかった。


――風が窓を揺らす音がした。

 昨日のことを思い返すと、カルロは当初とは違う言葉が浮かんできてしまった。トントンと窓枠を爪で鳴らすのを再開してから、アイザックに言う。

「……はあ……せめて怪我するのだけはやめろよ」

「ああ、すまないな……気をつけるよ」

 カルロに虚偽の申告をした場合どうなるか、アイザックはわかっているはずだ。また溜息を付きつつ、冷め始めた紅茶に手をつける。

 昨日のことは、伝わっていることとした。そう、今は信じる。伝わってなかったら、また言ってやればいいのだ。どうせロンドンを離れる予定などないのだし。と紅茶に付けられたクッキーを手に取り、バキ、と歯で割った。カルロの好きなジンジャーブレッドは、相変わらず彼の口角を引き上げる。カルロの今日の怒りは、一応はそれで収まった。



 アイザックはいつものように好物のクッキーをかじり始めた友人を見ながら、外を見つめた。ダークカラーしか存在しないコートを羽織る男たち。馬車に乗りパーティへと出かける婦人たち。その横で無邪気に駆け回る子供たち。思うのは、アイザックの心にひっかかった新聞の記事。ガス灯と電灯。

 もうカルロの方は終わった話だと思っているのはわかっていたが、アイザックは口を開いた。

「君が昨日言ったみたいに、こういう考え方を、止めなければいけないとは思っているけどね。きっとそのうち通用しなくなるだろうし」

「……」

「こういう考え方」がどんなものかは、カルロにはもう知られているのがわかっていた。一言で言うならば、「諦め」だ。それは、何もかものこと。カルロはジンジャーブレッドを持つ手はそのままに、黙って聞いている。

「……あのガス灯がいつか電灯に変わっていくように、さ」

 アイザックの視線の先にはガス灯があった。昨日の夜の帰り道、アイザックがぼんやりと眺めていたガス灯の光。いつか、点灯夫は必要なくなるのだろうか。その者たちはどうなってしまうのだろうか?その時、自分は本当に、何も変わらないのだろうか?アイザックの頭にはそういった疑問が浮かんだ。

「……ああ、そうだ。いつかはな」

カルロは、静かに、けれどもなんの迷いもなくそう言った。そして続ける。

「……すまない、昨日は言いすぎたよな。わかってんだよお前の立場だって」

「いいんだ、もう止めよう。僕こそ……」

 そこまで口にして、アイザックは少しだけ笑い、思う。変われないのを理解しようとしてくれる存在がいる。物質的なものは何一つなくとも、確かなことだ。素晴らしいことじゃないか。煤けて湿気て灰色のこの街で、それだけあれば上等だ。

 カルロは突然笑いだしたアイザックを、不思議そうに眺めている。


「……いや、このままじゃいつもみたいに謝罪の繰り返しだ。もう止めよう。……その代わりに感謝を。こんな時代でも変わらず友人で居てくれる、君に」


「……ああ、そうだな。素直に受けとっておくよ」

 その言葉にカルロは目を細め、笑った。

 すっかり日が落ちた外では、点灯夫がガス灯に火を灯していた。小さく、そして確かなものを。

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