C型血の少女は、誰も救わないと決めた

くじら

プロローグ:喪失の匂い




血の匂いだけが、現実だった。


甘くもなく、鉄臭いだけでもない。

呼吸をするたび、喉の奥に絡みつく、生き物の匂い。


手のひらが、かすかに震えている。

寒いわけじゃない。

痛みがないわけでもない。


ただ、力が入らなかった。


足元の感覚が曖昧だ。

濡れたアスファルトの冷たさだけが、ぼんやりと伝わってくる。

街灯の光が、水たまりに歪んで滲んでいた。


「……透」


誰かが名前を呼んだ気がした。

けれど、顔を上げられない。


視線を落とすと、制服の袖が赤く濡れている。

どこから付いた血なのか――考えなくても、分かってしまう。


少し離れた場所に、影があった。

横断歩道の白線の上。

不自然な角度で、動かない影。


見てはいけない。

そう思った瞬間には、もう遅かった。


朝霧陽菜が、そこにいた。


ついさっきまで、隣を歩いていたはずなのに。

くだらない話をして、笑って、帰るだけだったのに。


時間の感覚が、壊れている。

クラクションも、悲鳴も、遠い。

全部、水の底から聞こえてくるみたいだった。


そのとき、かすかな音がした。


足元。

すぐそばで、黒い影が動いている。


犬だった。


後ろ脚を引きずり、浅く荒い呼吸を繰り返している。

腹のあたりが、赤く濡れていた。


息を吸おうとして、喉が詰まる。

声にならない音だけが、胸の奥で潰れる。


陽菜のほうへ、手を伸ばそうとして――

指先が、何かに触れた。


ぬるりとした感触。


血だと、すぐに分かった。

自分のものか、陽菜のものか、

考える前に、指が小さく震える。


倒れたままの視界の先。

伸ばした手のすぐそばに、あった

黒い影が....犬が


ゆっくりと顔を上げた。


怯えた目。

それでも、どこか縋るような目。


そのとき。


「大丈夫ですか!!!」


誰かの声。

同時に、肩に手が触れた。


身体は、ぴくりとも動かない。

力が入らず、震えるだけだ。


それでも、触れられている感覚だけは、

はっきりと分かった。

温かくて、必死な手。


その間に――

犬が、こちらへ顔を寄せた。


そして、

私の手に、舌が触れた。


ぬるりとした感触。

舌の温度。

血を舐め取られる、生々しい感覚。


一瞬だった。


次の瞬間、犬は身体を震わせ、

立ち上がったというより、

崩れるように体勢を変えた。


四本の脚で、地面を踏む。


腹の血は、まだそこにある。

けれど、さっきまでの必死さがない。


犬は一度だけ、こちらを見て、

それから――

雨上がりの闇へと消えていった。

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