僕と影と猫娘

水谷なっぱ

僕と影と猫娘

 僕が猫娘に出会ったのは、ある冬の日のことだった。

 その時僕はまだ幼稚園児で、母さんと一緒に、空き地で登園バスを待っていた。


「にー」


 か細い声が空き地から聞こえた。


「なに?」


 振り向いても、何もいない。

 足元で影が揺れた。

 僕と手をつないでいた母さんが不思議そうな顔をする。


「どうしたの?」

「今、なにか聞こえた」

「なにかしら」

「ちょっと見てくる」

「バスが来たら戻ってきてね」


 母さんの手を離して、空き地に入った。

 しばらく探し回ったら、木の裏で女の子が震えていた。

 真っ黒の髪はぼさぼさで、手足が黒く汚れている。


「だいじょうぶ?」

「にー」

『こいつ、にんげんじゃない』


 足元の影が、ぬるっと起き上がって僕と女の子の間に立った。

 女の子は目をぎゅっと細めて、僕と影を睨んだけど、体はぶるぶる震えてるし、むき出しの腕も脚も真っ青で鳥肌が立っていた。


「ふうん。でも寒そうだから、これ貸してあげる」

 着ていた上着を脱いで、その子に被せた。

『なくしたら母ちゃんに怒られるぞ』

「怒られればいいよ」


 影は『そうかよ』とだけ言って、僕の足元に戻っていった。


「ちょっと大きいけど、あったかいよ。またね」


 そう言って僕は、母さんの元に戻った。

 上着は「置いて着ちゃった」と言ったら、母さんは「そうだっけ?」と首を傾げただけだった。たぶん家に置いてきたのだと勘違いしてくれたみたい。

 幼稚園から帰った後も、親戚からもらったお下がりがいっぱいあったから、一枚くらいなくなってもそんなに聞かれなかった。



 次の日。僕はお下がりから、あんまり好きじゃないマフラーと帽子をこっそり持ち出して、登園バスが来る空き地に行った。

 昨日と同じように母さんに声をかけて、木の後ろを見に行く。

 僕の上着を着た女の子が、しゃがみ込んでいた。


「よかった、まだいた」


 僕は屈んで、その子にマフラーを巻いて、帽子を被せた。

 その時に気づいたけど、その子の頭には髪の毛と同じ色の三角の耳が生えていて、僕の耳がある場所には何もなかった。


「きつくない?」

「にゃ、にゃい、じょぶ」

「よかった。お腹は? すいてない?」

「す、すい、にゃ」


 口の中に小さな牙が見えた。

 影がぼそっと『こいつ、猫娘だ』と呟く。

 猫娘?

 なんだろう。


「ねえ、影。猫娘って、何食べるの?」

『知らねえ』

「僕もわかんない。んー、今日の給食がパンだったら、持って帰るね」

「にゃー」


 その子のしゃべり方は、幼稚園の友達と猫を混ぜたみたいだった。猫娘だから?


「またね」


 バスに乗って幼稚園に向かう。

 給食のパンと牛乳をお代わりして、こっそりカバンに隠して持って帰った。

 バスを降りてから、木の後ろに行くと、猫娘がいたからパンを渡す。牛乳もストローを差して渡した。

 その子はちょっと不思議そうな顔をしてから、パッと笑顔になってパンにかぶりついた。

 僕はその笑顔をもっと見たかった。



 次の日はミトン、その次は靴下、それからお下がりに混ざっていた女の子向けのセーター。それから髪をとくブラシと、結ぶためのリボン。

 ……これはおばあちゃんが母さんに


「次は女の子だといいわねえ」


 って言いながら渡していたものだ。そういう女の子用の服や小物が、いくつかあったから、僕はこっそり抜き出して猫娘に着せた。

 幼稚園の帰りには毎日じゃないけどパンと牛乳。たまにデザートのミカンやりんご。

 そうやって僕は、その女の子の世話をしているつもりでいた。

 幼稚園で、年少さんを教室に連れて行ったり、靴の履き替えを手伝うのと同じような気持ちで。



「あなた、木の後ろで何をしているの?」

「おともだちと、お話ししてる」


 冬の終わりのある日、夜ごはんの時に、母さんが不思議そうに僕に聞いた。


「おともだち? でも、誰もいなかったよ?」


 母さんは実はたまに木の後ろにいる僕の様子を、こっそり見ていたらしい。

 でも、何もないところで僕が一人で遊んでいるようにしか見えなかったと。


「母さんには、あの子が見えないの?」


 首を傾げたら、一緒にごはんを食べていた父さんが顔を上げた。


「母さんに見えない相手と遊んじゃダメだ」

「僕には見えたよ」


 言い返したら、父さんは難しい顔で黙ってしまった。


「明日、俺が送っていく」

「そう?」


 母さんは頷いて、登園バスの来る場所を父さんに説明していた。

 影が僕の足元でぎゅっと縮こまった。



 翌朝、父さんと手をつないで空き地に行った。

 木の後ろを覗くと、女の子がぴょんと飛び出してきて、僕のお腹にしがみついた。

 つないでいた手を離して、女の子をぎゅっと抱きしめる。


「おはよう。今日は父さんと来たんだ」

「ふにゃ?」


 女の子は僕の後ろを見上げた。


「……猫娘か」

「なー」

「離れなさい。お前とその子は住む世界が違う」

「やだ!」

「ふにゃー!」


 見上げると、父さんは怖い顔で女の子を睨んでいた。

 僕が何か言う前に、父さんは地面に膝を突いて、女の子を引き剥がした。


「にゃー!」

「ダメだ。この子はただの人間だ。考え方も、生き方も、寿命も、何もかもが違う」

「なー、なー! や、やなー! あた、し、ともらち、と、ともだ、ち、にゃー」

「友達にはなれない」


 父さんがきっぱり言って、女の子が悲しい顔をした。


「人間と、それ以外の生き物は、友達にはなれない」

「やら、やにゃ、やだ……!」

「行こう。もうバスが来る」

「やだ、待ってよ父さん! その子は僕の友達なんだ!!」


 けど父さんはそれ以上何も言わないで、僕の腕を引っ張った。

 そのまま、やってきた登園バスに乗せられてしまった。

 悲しくてバスの中でも、幼稚園に着いた後も一人でしくしく泣いたけど、理由は誰にも言えなかった。



 その日の帰り、母さんが


「明日から違うところからバスに乗るよ」


 と言った。


「やだ!」

「ダメです。もう幼稚園にお願いして、手続きしちゃったし」

「やーだー!」


 でも結局ダメだった。




 ……次に僕が猫娘に会ったのは、小学生になってからだった。

 入学して一月くらい経ってから、通学路の途中をちょっとだけ回り道して空き地に寄ったのだ。

 木の後ろを覗いたら、いた。


「またあえた!」


 その子は僕に気づくなり、前と同じように飛びついた。

 僕はそのまま後ろに倒れたけど、嬉しくて女の子を抱きしめた。


「ごめんね、来られなくて」

「さびしかった!」

「なんか、しゃべるの上手になったね」

「れんしうした! にんげんと、おともだちなれるように」

「ありがとう。嬉しい」


 こうして僕は、また猫娘と遊ぶようになった。

 ほとんど毎日空き地で遊んだ。

 帰りが遅いと心配されるから、家にランドセルを置いて、宿題をしてから空き地に通うようになった。

 小学校の友達も空き地に来たから、母さんが迎えに来ても何も言われなかったし、


「僕の幼稚園からの友達」


 と言えば、他の子も猫娘と一緒に遊ぶようになった。

 ……僕が四年生になったあの日まで。



「もうすぐ僕の誕生日なんだよ」

「何歳になるの?」


 この頃には猫娘はすっかり僕と同じように喋るようになっていた。


「十歳」

「十歳?」


 猫娘はぽかんとした顔で僕を見た。

 この日は、空き地に僕と猫娘の二人きりで、あとは影が足元でゆらゆらしているだけだった。


「十歳になるの?」

「どうしたの?」

「にんげん、十歳になると、あたしたちと遊んでくれなくなるって」

「そうなの? だれに聞いたの?」

「猫集会で、猫夜叉が」

「ねこやしゃ?」

『猫の妖怪だな』


 影が言った。


「ふうん。でも僕は明日も明後日も、君に会いに来るつもりだけど」

「ちょっとずつ、見えなくなっちゃうんだって」

「そんなことないよ。僕の父さんは君が見えてるし」

「でも、でも……!」


 猫娘がバッと僕を見上げた。

 その瞳は涙でいっぱいで、僕は何も言えなかった。


「行かないで」


 小さな手が僕の腕を掴んだ。尖った爪が食い込む。


「あと二時間くらいはここにいるよ」

「ずっと、あたしといてよ。あなたがいないと、さびしいの」

「ずっとってわけには」

「……また、会えなくなっちゃうの?」


 猫娘の耳が、ぺたっと伏せられた。

 影がぶるりと震えて、僕と猫娘の間に入ろうとしたけど、間に合わなかった。


「行かないで、行かないで。あなたがいないと、さびしいの」

「えっ、あ……っ」


 僕は、どろりとした何かに飲み込まれた。


「……ここは」

「ここは、はざま」


 目が覚めたら、薄暗い部屋で、僕は座っていた。

 僕の膝の上には猫娘がしがみついて寝ていた。


「狭間?」

「あのよと、このよの、はざま」

「僕、死ぬの?」

「しなない。あたしとあそんで」

「帰らないと」

「にゃー。あたし、あなたがいないと、さびしいの」


 猫娘の話し方が、昔みたいに子どもと猫を混ぜたような話し方になっていた。

 僕は猫娘の髪を撫でた。

 ……猫娘の髪に、僕の影が落ちなかった。

 猫娘に気づかれないように、目だけ動かすと、彼女には影がある。


「ここ、なに?」

「えっと、おてらって、いうみたい」


 周りを見たら、広い和室みたいだった。

 学校の教室くらいだろうか。襖に囲まれていて、その影が畳に落ちていた。

 僕の影だけがない。ならまあ、大丈夫だろう。

 猫娘を撫でながら、父さんが言っていたことを思い出した。


「人間と、それ以外の生き物は、友達にはなれない」


 本当に、そのとおりだったみたい。

 僕がこの子に優しくしていたのは、結局僕の自己満足でしかなかった。


「僕のこと、好き?」

「うん。すき。ずっとすき」

「……僕も好きだよ。だからこそ、一緒にはいられないんだ。ごめんね。僕が甘えたから」


 猫娘が顔を上げた。

 大きな目をまん丸にして、すぐに悲しいような怒ったような顔で起き上がった。


「なんで」

「きみが猫娘で、僕が人間だから」

「おとなになっちゃったの?」

「そうかも」


 立ち上がったら、猫娘が手を伸ばした。

 その手が僕をつかむ前に、僕らの間に影が立ち塞がった。

 ふすまが開いて、父さんが入ってくる。


「帰るぞ」

「やだ!」


 猫娘が泣きそうな声で叫んだけど、父さんは無視して僕の腕を掴んだ。


「さよなら」

「や、やだ! いかないで!」

「僕は、きみと一緒にはいられない」

「なんで!?」

「きみが猫娘で、僕が人間だから」


 追いすがろうとする猫娘を、影が押しとどめた。

 僕は振り返らずに、父さんと帰った。



 数日後、学校帰りに猫娘を見かけた。

 電信柱の影から僕を見ていた。


「……にゃー」

『ダメだぞ』


 影が呟いた。

 僕は頷いてから歩き出そうとして、勢いよく連れ去られた。

 気づいたら空き地に仰向けに寝かされていた。

 ランドセルごと地面にぶつけた背中がちょっと痛いし、引っ張られた腕は結構痛い。

 猫娘が、僕に覆いかぶさっていた。


「……あたし、あなたを諦めないから」

「うん。いつかまたさらってよ。誰も探しに来られない場所にさ」

「楽しみにしてて」

「してるよ、ずっと」


 猫娘は泣きそうな顔で、僕の首元に顔をこすりつけた。

 僕の下で影が不満そうにしていたけど、仕方ない。

 首が舐められた。

 僕は彼女の髪を梳く。

 耳元でささやいたら、首が噛まれた。

 僕の腕が痺れてきた頃、猫娘は起き上がって、僕をジッと見つめる。

 猫娘は悲しそうに笑って去って行った。


『お前は、ほんっとうにバカだな。親父さんに怒られるぞ』

「いいよ、怒られても」


 どれだけ怒られても、僕は彼女を待ち続けると決めたから。


 起き上がって家に帰った。

 鏡を見たら首に真っ赤な噛み跡があって、思わず指でなぞる。

 これが消えるまでは、僕も寂しくないと思う。

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僕と影と猫娘 水谷なっぱ @nappa_fake

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