第8話:時間保存則 vs 自由意志
ヒロトが消去コードの実行スイッチを押してから、アンカーが完全に停止するまで、わずか十数秒のロード時間が必要だった。その十数秒が、永遠にも感じられた。
時空保存会の工作員たちが放つ時空安定器の光線は、ヒロトとアヤメを直撃寸前で避けていたが、その周波数が部屋全体に充満し、二人の体に強い倦怠感と吐き気を催させた。
「君たちには、わからないのだな」
カシワギが、工作員たちの背後から、静かに、しかし響く声で語りかけた。
「君たちが消そうとしているのは、単なるコードではない。1000年にわたる歴史的事実だ。非線形時空理論では、歴史は一度固定されると、宇宙の構造を支える基礎となる。君たちの個人的な感情のために、この基礎を崩すことは、万物を無に帰す行為だ!」
ヒロトは、アンカーの台座にしがみつきながら、叫び返した。
「万物を無に帰すだと? 我々にとっては、偽りの運命に縛られて繰り返すことこそが、既に無に帰している! 自由意志のない生に、何の意味がある!」
「意味がある! それが**『安定』という絶対的な真理だ! ループを維持することで、他の無数の時空の安定が保たれている。君たちは、その巨大なシステムにおける小さな犠牲**なのだ!」
カシワギの論理は、ヒロトの心を揺さぶった。彼は、愛と自由を求める**「個人的なエゴ」と、世界の安定という「普遍的な大義」**の板挟みに遭っていた。
◆
アヤメは、ヒロトの隣で、消去コードのロード進行バーを見つめながら、静かに、そして確信を持って反論した。
「カシワギ、あなたは根本的に間違っているわ。あなたが守ろうとしているのは、**『情報が過去を決定する』**という、アムネシアが作り出した法則よ」
彼女は、アンカーを指差した。
「本当に安定している時間軸なら、過去からの情報操作を許さないはず。アムネシアが原因で、時間ロープは既に傷つき、不安定になっている。私たちが行う消去コードの実行は、不安定な状態を維持することではなく、本来の安定を取り戻すための修復行為よ!」
カシワギは、アヤメの言葉に動揺を見せた。彼の信じる「安定」の概念そのものが、根底から覆されようとしていた。
「嘘だ……君たちの言葉は、自己正当化に過ぎない! 君たちの愛は、消滅する!」
カシワギは、最後の切り札として、工作員たちに時空安定器の最大出力を指示した。強烈なノイズと周波数が室内に渦巻き、ヒロトとアヤメの体は激しく震え始めた。
◆
「ロード、残り5秒!」アヤメが叫んだ。
ヒロトの視界が霞む。時空安定器のエネルギーが、彼の記憶を強制的にリセットしようと圧力をかけてきた。脳裏から、アヤメと出会った瞬間のこと、愛し合った瞬間のこと、そして平和な過去世の光景までもが、砂のように消え去っていく。
「記憶が……消える!」ヒロトは歯を食いしばった。
「ヒロト、聞いて!」
アヤメは、消えゆく記憶を振り払うように、ヒロトに顔を近づけた。
「私たちの愛は、アムネシアのプログラミングではなかった。だって、今、私たちは初めて、運命に逆らっているから! この消去は、私たち自身の自由意志による、**『存在の証明』**よ!」
ヒロトは、アヤメの瞳に映る自分の姿を見た。記憶は消えかかっているが、彼女を愛し、彼女のために選択するという**『意志』**だけは、鮮明に残っていた。
この意志こそが、1000年のループでは為し得なかった、彼ら自身の真実だった。
◆
「残り1秒!」
時空安定器の光線が、二人に直撃しようとしたその瞬間、ヒロトは最後の力を振り絞り、アヤメを強く抱きしめた。
「たとえ、すべて忘れても……俺は、必ず君を探す!」
アヤメは涙を流しながら、ヒロトの言葉を遮るように、彼の唇に自らの唇を重ねた。
運命の書き換えを前にした、最初で最後の、そして永遠に記憶に残らないであろうキス。
そのキスが終わると同時に、アヤメの瞳から光が消え、彼女の身体は、アンカーの光に飲み込まれていった。
「コード、実行!」
アヤメの最後の声が響き渡った。
アンカーの円盤が、それまで放っていた紫色の光を収束させ、白く、まばゆい閃光を放った。それは、時間ロープの傷を修復するための、純粋なエネルギーの解放だった。
閃光は、ヒロトの視界を焼き尽くした。そして、彼の存在を、1000年の因縁から完全に引き剥がした。
意識が遠のく中、ヒロトの耳に、カシワギの静かな、敗北とも諦めともつかない呟きだけが残った。
「……愚かな。しかし、確かに、彼らは時間保存則に、抗った……」
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