第2話 ロープ状の時間(非線形時空理論)
「――ループの始まりの合図、ですか」
ヒロトは戸惑いを隠せなかった。カフェのざわめきが遠く聞こえる中、目の前のアヤメが語る話は、あまりにも現実離れしていた。
「私はあなたに、一度や二度でなく、何度も出会っている。1000年の間に、私たちの魂は生まれ変わりを繰り返し、その度に特定の状況下で、悲劇的な結末へと向かう運命を辿ってきた」
アヤメは静かに言った。
「悲劇……。あの、崩れた塔の映像と関係があるんですか」
「ええ。あれは、私たちの過去世の一つです。繰り返されてきた、いくつもの結末の記憶の断片。そして、あなたが感じた『懐かしさ』は、脳の錯覚ではない。魂に刻まれた**『過去の周回の記憶の漏れ』**です」
アヤメはそう言うと、テーブルの上に小さなスケッチブックを取り出し、ペンで図を描き始めた。
「聞いてください、ヒロト。この世界の時間は、私たちが学校で習うような一本の直線ではありません」
アヤメが最初に描いたのは、始点から終点へ伸びる直線。その上を、二つの点が並んで進んでいる。
「一般的な時間の概念です。過去から未来へ、一方向に進む。過去を変えると未来が変わる、と」
次にアヤメが描いたのは、その直線を円形にねじり、さらにねじって、ドーナツ型にした図、すなわちトーラスだった。
「ですが、これは古い物理学の研究者たちが提唱した非線形時空理論に基づいた考え方です。宇宙の時間は、巨大な**『ロープ』**のように円環状に連なり、ねじれている。つまり、トーラス構造になっている、と」
彼女はペンで、トーラス構造のロープ上の一点(未来)を指し、そこから別の離れた一点(過去)へ、線で繋がりを描き加えた。
「私たちが体験している『ループ』は、運命や呪いといった曖昧なものではありません。ロープ状の時間の一点、未来である現代において、あなたがある行為をした結果、そのエネルギーがロープを伝って、過去に傷をつけた――これが、私たちの『因縁』の正体です」
ヒロトは茫然とスケッチブックを見つめた。
「つまり……俺が『アムネシア』を起動したことで、その情報が1000年前に届き、俺たちの過去世の行動が歪められて、悲劇的な因縁が作り出された、と?」
「その通りです。だから私たちは、過去を変えるためにループしているのではなく、未来を変えることで、過去の結び目(因縁)を解こうとしているんですよ」
◆
その日から、二人の協力体制は密になった。アヤメはヒロトに、デジャヴュが起きた時の詳細を細かく記録するように求めた。
「過去世の記憶は、アムネシアの影響で歪んでいます。でも、その歪みの中にこそ、ループの法則を破るヒントが隠されている」
アヤメの配信活動も変わった。彼女は人気覆面ライバーとしての地位を利用し、配信のテーマを「失われた古代の周波数」「トーラス理論の謎」といった、一見ファンタジーめいた内容に切り替えた。それは、アムネシアや時空の異常について知識を持つ転生者や、過去の協力者を探るための、暗号めいたメッセージだった。
ある夜、ヒロトは再び強いデジャヴュに見舞われた。今度は、アヤメと二人でいる状況だ。
(……この部屋だ。アヤメが今座っているこのソファで、俺は彼女に……)
過去世の記憶が洪水のように押し寄せる。過去の周回で、この場所、この状況で、ヒロトがアヤメに何を語り、何を選択したのか。それは、必ず悲劇へと繋がる選択だった。
「ヒロト、どうしたの? 顔色が悪いわ」アヤメが心配そうにヒロトの手を取ろうとする。
「触らないで!」
ヒロトは思わず、アヤメの手を振り払った。反射的な行動だった。デジャヴュの記憶の中では、ここでヒロトがアヤメを拒絶することが、次の悲劇の引き金になっていたのだ。
「ごめん、アヤメ……。違うんだ。俺は、この先を知っている。ここで俺が君に優しくすれば、必ず……」
アヤメは静かに手を引っ込め、ヒロトを見つめた。
「ヒロト。それが、**『偽りの運命』**によってあなたに刷り込まれた恐怖です。私たちが惹かれあうと悲劇が起こる。だからこそ、あなたは無意識に私を拒絶する。私たちは1000年間、ずっとこの場面でこの選択を繰り返してきた」
彼女はそっとヒロトに近づき、あえて、デジャヴュの記憶とは真逆の行動をとった。ヒロトの頬に優しく触れ、微笑んだのだ。
「今回は、この感情を逃がさない。悲劇へ導く『因縁』ではなく、私たち自身の意志で、この愛を完遂させてみせる」
この時、ヒロトは初めて、このループが自分たち二人の究極のロマンスなのだと悟った。
◆
その夜、ヒロトのPCに、アヤメの配信のコメント欄にも届いていたのと同じ、謎の警告メッセージが直接届いた。
警 告
アムネシアを直ちに消去せよ。非線形時空の安定には、時間保存則の維持が不可欠である。個人のカルマ解消を理由に、宇宙の法則を乱すことを許容しない
――時空保存会
「時空保存会……。やはり、いましたね」
アヤメはPC画面を覗き込み、冷静に言った。
「カルマって……俺たちの因縁を、彼らは『業』だと捉えているのか?」ヒロトは眉をひそめた。
「彼らにとっては、私たちの悲劇のループこそが、不安定な時間ロープを保つための**『アンカー(錨)』**なのです。私たちがループを破り、過去を書き換えれば、彼らが信じる世界の法則が崩れる」
アヤメは顔の覆面を外し、真剣な瞳をヒロトに向けた。
「ヒロト。彼らの目的は、あなたと私を再び引き離し、悲劇の結末へ押し戻すこと。私たちのデジャヴュを加速させたアムネシアのエネルギー源である**『アンカーの場所』を突き止め、コードを消去する。それが、この千年の業**を終わらせる唯一の方法よ」
アヤメの言葉には、何度も悲劇を繰り返してきた、魂の疲れと、それでも諦めない強い決意が滲んでいた。ヒロトは、彼女のその決意に応えるべく、強く頷いた。
「わかった。アムネシアのアンカーを見つけよう。そして、今度こそ、俺たちの力でこのループを終わらせる」
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