パラドクス・リング〜未来が過去を上書きする。 そして私たちは、愛の記憶ごと消滅する〜
Omote裏misatO
第1話 アムネシアとの再会
ヒロトは、キーボードを叩く指先に妙な違和感を覚えていた。
昼下がりの薄暗い自室。目の前のモニターには、今しがた友人のリュウジから譲り受けた中古PCの中身が表示されている。リュウジは卒業を機にPCを新調したらしく、ヒロトは安く古いモデルを手に入れることができた。
「データ、意外ときれいになってるな」
リュウジは「面倒だから全部消しといたぞ」と言っていたが、ヒロトは隅々まで確認した。ゲーム実況を始めたばかりのヒロトにとって、PCのスペックよりも、中身に前の持ち主の痕跡がないかの方が重要だった。
しかし、PCの最深層、隠しフォルダの中に、一つのファイルが残されていた。
「Amnesia.exe」
「アムネシア? なんだこれ」
ヒロトは眉をひそめた。奇妙な名前だ。「記憶喪失」という意味を持つその実行ファイルは、サイズこそ小さいものの、アイコンは古びた紙切れのような抽象的なデザインをしていた。リュウジが消し忘れた古いゲームか、あるいは悪質なプログラムか。
好奇心には勝てなかった。
ヒロトがダブルクリックした瞬間、室内の蛍光灯が一瞬、紫色に点滅したような気がした。
画面には何も表示されず、エラーメッセージも出ない。ただ、PCの起動直後に聞くような、ごくかすかな「ピィ……」という電子音が、一瞬だけ耳の奥に響いた。
「なんだ、エラーで落ちたのか」
ヒロトは首をかしげ、そのままファイルをゴミ箱に入れた。
その瞬間、強烈なデジャヴュに襲われた。
(……いや、違う。このPCじゃなくて、別の、もっと古い場所で、これを『起動』するのを、俺は見たことがある)
背筋に冷たいものが走った。それは「前にもここで起動した」という単純な既視感ではない。まるで、自分の過去ではない誰かの人生を、今、この瞬間に追体験しているような、遠い記憶の残響だった。
◆
その日の夕方、ヒロトは大学の講義棟へと向かった。
サークル活動のために初めて足を踏み入れた、古い建物だ。薄暗い廊下を進むと、正面に古い石造りの階段が現れた。磨り減った階段の手すりは、何十年もの年月を物語っている。
階段に足をかけようとした、その刹那。
また、あの感覚。
ドクン、と心臓が鳴った。ヒロトの視界が一瞬歪み、眼前の光景が置き換わった。
そこは、階段ではなかった。
ぼろぼろに崩れた石造りの塔の内部。錆びついた手すりは崩れ落ち、周囲は灰と砂埃に満ちている。そして、視界の先には、崩壊した巨大な壁にもたれかかる、一人の女性の姿があった――。
「うっ……!」
ヒロトは思わず手すりに掴まった。冷や汗が吹き出し、呼吸が乱れる。数秒で視界は元に戻ったが、手に残る冷たい感触と、胸の動悸は収まらない。
(今のはなんだ……? 誰だ、あの女性は? 俺はあの場所を知っている。あの荒れ果てた塔を、何度も何度も……)
初めて来た場所なのに、体の奥底が「懐かしい」と叫んでいる。
「Amnesia」のコードを実行したせいだろうか。ヒロトは、不可解な現象に、少しばかりの恐怖を覚えた。
◆
家に帰ったヒロトは、自室の椅子に座るなり、PCを起動させた。配信の準備だ。
気分転換に、最近友人に勧められたゲームの実況を始めようと、配信プラットフォームを開いた時だった。
ヒロトは、無意識に一つのサムネイルをクリックしていた。
【アヤメ】 《覆面ライバー》夜明けを待つ君へ
配信者名は「アヤメ」。フォロワー数は数十万人に上る、人気ライバーだ。ヒロトは彼女の存在を知っていたが、配信を見たことはなかった。
画面には、繊細なデザインの狐のお面をつけた女性の姿が映っている。彼女の透き通るような声がスピーカーから流れ始めた。
「皆さんこんばんは。アヤメです」
ヒロトは、その声を聞いた瞬間、全身の血液が一気に沸騰したような感覚に襲われた。
(知っている。この声だ。塔で、崩壊した壁にもたれていた、あの女性……!)
デジャヴュではない。直感だ。強烈な確信が、ヒロトの理性を突き破った。
指が勝手に動いた。チャット欄に、言葉にならない衝動を込めて、文字を打ち込む。
コメント:この風景、どこかで見たような……
それは、先ほど見た荒廃した塔の光景と、アヤメが配信背景に使っているファンタジー風のイラストが、あまりにも似ていたからだ。
コメントはすぐに、何百もの「初見です」「今日もかわいい」といったコメントの波に飲まれた。だが、アヤメの動きがピタリと止まった。
彼女は画面の向こうで、狐の面の下の表情を変えたように見えた。
数秒の沈黙の後、アヤメはカメラに向かって、まるで画面の外のヒロトと目を合わせるかのように、静かに微笑んだ。
「……フフッ。ええ、そうですね。きっと、あなたは覚えていないでしょうけれど」
そして、マイクに乗らないくらいの微かな声で、しかし、ヒロトの耳には鮮明に届く言葉で、彼女は告げた。
「また、会いましたね」
それは、何百人もの視聴者に向けてではなく、たった一人のヒロトに向けて発せられた、私的な再会の挨拶だった。
◆
翌日、ヒロトはカフェでアヤメと向かい合っていた。
アヤメは配信時と同じ狐の面ではなく、ごく普通の茶髪の女性だった。マスクはしているものの、その目は配信画面と同じく、どこか遠くを見つめているように透き通っていた。
「まさか、本名まで知られているとは思いませんでした」ヒロトはカフェオレのカップを前に緊張していた。
「調べましたから」アヤメは平然と答えた。「あなたの配信のログ、それに、あなたが昨日まで抱えていたあの古いPCの、『アムネシア』というコードについても」
ヒロトは絶句した。
「なぜそれを……。アムネシアは、もう消しました」
「ええ、知っています。でも、遅すぎた。あのコードは、時間軸を遡って情報を送る、いわば**『千年の呪い』**の起動装置のようなもの。あなたにそのコードを実行する運命があった以上、私たちは今、出会うべくして出会ったのです」
アヤメは、静かにマスクをずらし、カップに口をつけた。
「私はあなたをヒロトだと知っている。そして、私はあなたに声をかけた、見ず知らずの人間です。でも、私たちは何度も何度も……」
アヤメはそこで言葉を区切り、真剣な眼差しでヒロトを見つめた。
「私たちは、1000年前の因縁に引かれ、この現代という舞台で、再び巡り合ったんですよ」
その言葉と、その瞳を見た瞬間、ヒロトは確信した。彼女こそが、あの崩壊した塔の中で見た、あの女性だと。そして、ヒロトが抱えるデジャヴュと、この不可解な再会は、単なる偶然ではないのだと。
ヒロトは思わず、アヤメの手を取った。
「教えてください。この懐かしさは、一体、何なんですか?」
アヤメは、ヒロトの手に自分の手を重ねた。
「それは、あなたが過去、私たちが出会う度に、常に感じてきた、繰り返しの予感です。デジャヴュは、あなたにとっての**『ループの始まりの合図』**なんですよ」
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