パラドクス・リング〜未来が過去を上書きする。 そして私たちは、愛の記憶ごと消滅する〜

Omote裏misatO

第1話 アムネシアとの再会

 ヒロトは、キーボードを叩く指先に妙な違和感を覚えていた。

​ 昼下がりの薄暗い自室。目の前のモニターには、今しがた友人のリュウジから譲り受けた中古PCの中身が表示されている。リュウジは卒業を機にPCを新調したらしく、ヒロトは安く古いモデルを手に入れることができた。

​「データ、意外ときれいになってるな」

 ​リュウジは「面倒だから全部消しといたぞ」と言っていたが、ヒロトは隅々まで確認した。ゲーム実況を始めたばかりのヒロトにとって、PCのスペックよりも、中身に前の持ち主の痕跡がないかの方が重要だった。

 ​しかし、PCの最深層、隠しフォルダの中に、一つのファイルが残されていた。

​「Amnesia.exe」

​「アムネシア? なんだこれ」

 ​ヒロトは眉をひそめた。奇妙な名前だ。「記憶喪失」という意味を持つその実行ファイルは、サイズこそ小さいものの、アイコンは古びた紙切れのような抽象的なデザインをしていた。リュウジが消し忘れた古いゲームか、あるいは悪質なプログラムか。

 ​好奇心には勝てなかった。

 ​ヒロトがダブルクリックした瞬間、室内の蛍光灯が一瞬、紫色に点滅したような気がした。

 ​画面には何も表示されず、エラーメッセージも出ない。ただ、PCの起動直後に聞くような、ごくかすかな「ピィ……」という電子音が、一瞬だけ耳の奥に響いた。

​「なんだ、エラーで落ちたのか」

​ヒロトは首をかしげ、そのままファイルをゴミ箱に入れた。

​その瞬間、強烈なデジャヴュに襲われた。

​(……いや、違う。このPCじゃなくて、別の、もっと古い場所で、これを『起動』するのを、俺は見たことがある)

​背筋に冷たいものが走った。それは「前にもここで起動した」という単純な既視感ではない。まるで、自分の過去ではない誰かの人生を、今、この瞬間に追体験しているような、遠い記憶の残響だった。

 ​その日の夕方、ヒロトは大学の講義棟へと向かった。

 ​サークル活動のために初めて足を踏み入れた、古い建物だ。薄暗い廊下を進むと、正面に古い石造りの階段が現れた。磨り減った階段の手すりは、何十年もの年月を物語っている。

 ​階段に足をかけようとした、その刹那。

​また、あの感覚。

 ​ドクン、と心臓が鳴った。ヒロトの視界が一瞬歪み、眼前の光景が置き換わった。

 ​そこは、階段ではなかった。

​ぼろぼろに崩れた石造りの塔の内部。錆びついた手すりは崩れ落ち、周囲は灰と砂埃に満ちている。そして、視界の先には、崩壊した巨大な壁にもたれかかる、一人の女性の姿があった――。

​「うっ……!」

 ​ヒロトは思わず手すりに掴まった。冷や汗が吹き出し、呼吸が乱れる。数秒で視界は元に戻ったが、手に残る冷たい感触と、胸の動悸は収まらない。

​(今のはなんだ……? 誰だ、あの女性は? 俺はあの場所を知っている。あの荒れ果てた塔を、何度も何度も……)

​初めて来た場所なのに、体の奥底が「懐かしい」と叫んでいる。

​「Amnesia」のコードを実行したせいだろうか。ヒロトは、不可解な現象に、少しばかりの恐怖を覚えた。

 ​家に帰ったヒロトは、自室の椅子に座るなり、PCを起動させた。配信の準備だ。

 ​気分転換に、最近友人に勧められたゲームの実況を始めようと、配信プラットフォームを開いた時だった。

 ​ヒロトは、無意識に一つのサムネイルをクリックしていた。

 

 ​【アヤメ】 《覆面ライバー》夜明けを待つ君へ

​配信者名は「アヤメ」。フォロワー数は数十万人に上る、人気ライバーだ。ヒロトは彼女の存在を知っていたが、配信を見たことはなかった。

​画面には、繊細なデザインの狐のお面をつけた女性の姿が映っている。彼女の透き通るような声がスピーカーから流れ始めた。

​「皆さんこんばんは。アヤメです」

​ヒロトは、その声を聞いた瞬間、全身の血液が一気に沸騰したような感覚に襲われた。

​(知っている。この声だ。塔で、崩壊した壁にもたれていた、あの女性……!)

​デジャヴュではない。直感だ。強烈な確信が、ヒロトの理性を突き破った。

​指が勝手に動いた。チャット欄に、言葉にならない衝動を込めて、文字を打ち込む。

​コメント:この風景、どこかで見たような……

​それは、先ほど見た荒廃した塔の光景と、アヤメが配信背景に使っているファンタジー風のイラストが、あまりにも似ていたからだ。

​コメントはすぐに、何百もの「初見です」「今日もかわいい」といったコメントの波に飲まれた。だが、アヤメの動きがピタリと止まった。

 ​彼女は画面の向こうで、狐の面の下の表情を変えたように見えた。

 ​数秒の沈黙の後、アヤメはカメラに向かって、まるで画面の外のヒロトと目を合わせるかのように、静かに微笑んだ。

​「……フフッ。ええ、そうですね。きっと、あなたは覚えていないでしょうけれど」

 ​そして、マイクに乗らないくらいの微かな声で、しかし、ヒロトの耳には鮮明に届く言葉で、彼女は告げた。

​「また、会いましたね」

 ​それは、何百人もの視聴者に向けてではなく、たった一人のヒロトに向けて発せられた、私的な再会の挨拶だった。

 ​翌日、ヒロトはカフェでアヤメと向かい合っていた。

 ​アヤメは配信時と同じ狐の面ではなく、ごく普通の茶髪の女性だった。マスクはしているものの、その目は配信画面と同じく、どこか遠くを見つめているように透き通っていた。

 ​「まさか、本名まで知られているとは思いませんでした」ヒロトはカフェオレのカップを前に緊張していた。

​「調べましたから」アヤメは平然と答えた。「あなたの配信のログ、それに、あなたが昨日まで抱えていたあの古いPCの、『アムネシア』というコードについても」

​ヒロトは絶句した。

​「なぜそれを……。アムネシアは、もう消しました」

​「ええ、知っています。でも、遅すぎた。あのコードは、時間軸を遡って情報を送る、いわば**『千年の呪い』**の起動装置のようなもの。あなたにそのコードを実行する運命があった以上、私たちは今、出会うべくして出会ったのです」

 ​アヤメは、静かにマスクをずらし、カップに口をつけた。

​「私はあなたをヒロトだと知っている。そして、私はあなたに声をかけた、見ず知らずの人間です。でも、私たちは何度も何度も……」

 ​アヤメはそこで言葉を区切り、真剣な眼差しでヒロトを見つめた。

​「私たちは、1000年前の因縁に引かれ、この現代という舞台で、再び巡り合ったんですよ」

 ​その言葉と、その瞳を見た瞬間、ヒロトは確信した。彼女こそが、あの崩壊した塔の中で見た、あの女性だと。そして、ヒロトが抱えるデジャヴュと、この不可解な再会は、単なる偶然ではないのだと。

 ​ヒロトは思わず、アヤメの手を取った。

​「教えてください。この懐かしさは、一体、何なんですか?」

 ​アヤメは、ヒロトの手に自分の手を重ねた。

​「それは、あなたが過去、私たちが出会う度に、常に感じてきた、繰り返しの予感です。デジャヴュは、あなたにとっての**『ループの始まりの合図』**なんですよ」

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