SCENE#172 衣島(ころもじま)〜服の墓守

魚住 陸

衣島(ころもじま)〜服の墓守

第一章:漂着する繊維の島







地図から抹消されたその島、「衣島(ころもじま)」の夜明けは、波の音ではなく、湿った布が擦れ合う重苦しい音で始まる。海流の吹き溜まりとなっているこの島には、世界中から廃棄された衣類が毎日数トン単位で漂着する。浜辺を埋め尽くすのは、白い砂ではない。








吸水して鉛のように重くなったデニム、色あせた化学繊維のシャツ、片方だけのスニーカー、流行が過ぎ去ったファーストファッションの残骸たちだ。それらは長い年月をかけて堆積し、極彩色の地層となって島そのものを形成していた。








この島に住む唯一の人間、紬(つむぐ)は、今日も悪臭漂う浜辺を歩く。海水と洗剤、そしてカビの混じった独特の臭気が鼻をつく。彼の仕事は、この膨大なゴミの山から、「まだ死にきれていない服」――持ち主の強烈な未練や記憶を吸い込み、成仏できずに呻いている衣類を見つけ出し、供養することだ。







「……苦しい、息ができない……」







布の山の下から、微かだが確かに聞こえる呻き声。紬は足を止め、泥と海藻にまみれた一枚のカシミヤのセーターを掘り出した。かつては高級品だったのだろうが、今は虫食い穴だらけで、縮んで硬直している。







「暗いタンスの中に、君は何十年も閉じ込められていたんだな…」







紬がそっと撫でると、セーターは震えるように水を吐き出した。それはただの服ではない。忘れ去られた時間の塊だった。










第二章:愛されなかったドレスの絶叫







紬の住処は、断崖の洞窟を利用した工房だ。天井からは無数の糸が垂れ下がり、彼が拾い集めた「患者」である服たちが吊るされている。その夜、工房の静寂を切り裂いたのは、女性の悲鳴にも似たヒステリックな叫び声だった。声の主は、昨日拾い上げた真紅のパーティードレスだ。タグには六桁の金額が記され、予備のボタンすら切り離されていない新品同様の品だった。







「どうして! 私の何がいけないの!? あの人は私を見て『綺麗だ!』って言ってくれたわ!」







ドレスは憤っていた。パーティーでたった一度、数時間着られただけで、あとはクリーニングの袋を被せられ、次のシーズンには「過去のもの」として無慈悲に廃棄されたのだ。彼女の生地には、ワインのシミひとつない。傷がないことが、返って彼女の無念を物語っていた。







「君は美しかったよ。その一瞬の輝きのために、君は生まれたんだ。その役目は十分に果たしたんだよ…」







紬は銀のハサミを手に取り、静かに語りかけながら刃を入れる。ジョキリ、という音と共に、ドレスの叫びは止まった。紬は縫い目を丁寧に解き、彼女を一枚の布へ、そして一本の糸へと還していく。それは破壊ではなく、役割という呪縛からの「解放」だ。解かれた赤い糸は、蛍のような柔らかな光を放ちながら、洞窟の天井を抜けて夜空へと昇華していった。











第三章:大量生産の黒い亡霊たち







ある嵐の翌日、島に異変が起きた。空が暗い。いや、空を覆い尽くすほどの「黒い影」が島に押し寄せていたのだ。それは、膨大な数の黒いTシャツの群れだった。同じタグ、同じサイズ、同じ化学繊維の匂い。







大量生産され、誰の袖を通すこともなく、流行の予測ミスという理由だけで在庫処分され、焼却されるはずが海へ流された「新品の死体」たちだ。それらは個別の記憶を持たない。だからこそ、その虚無は恐ろしかった。







「寒い、寒いよ、意味がない、私たちは何?」








何万着もの服が発する低い羽音が、共鳴して島全体を震わせる。それらは物理的な質量を持って紬の工房になだれ込み、彼を飲み込もうとした。







「この世は洋服で溢れすぎている……」








紬は服の波に埋もれながら、絶望的な呟きを漏らす。人間は体を一つしか持たないのに、なぜこれほど多くの皮を生み出し、消費し続けるのか。その業の深さが、黒い布の津波となって紬の呼吸を奪う。彼は不眠不休でハサミを動かし続けた。しかし切っても切っても、虚無の山は高くなるばかりだった。











第四章:油と汗と、ボタンの記憶






服の雪崩に巻き込まれ、意識が遠のきかけた紬を救ったのは、足元に埋もれていた一枚の古びた作業着だった。それは厚手の木綿で作られた、油のシミが染み付いたジャケットだ。肘は擦り切れ、何度もあて布をして繕われている。黒いTシャツたちの虚無とは対照的に、その服は圧倒的な「実在感」と、温かい体温のような熱を発していた。







紬がそのジャケットに触れた瞬間、鮮烈なビジョンが流れ込んできた。家族のために朝から晩まで鉄工所で働いた父親の、大きな背中。休日に子供を抱き上げた時の、タバコと汗が混じった匂い。そして、病に倒れ、痩せ細って袖が余るようになった最期の時。この服はゴミとして捨てられたのではない。持ち主が亡くなり、遺族が涙ながらに手放し、感謝と共に川へ流された「送り物」だった。







「あんたは、幸せだったんだな。最後まで、人の肌と共にあったんだな…」






紬がそう呟くと、作業着の胸ポケットのボタンがカタリと鳴った。それは、消費されるだけの物質の中に宿った、確かな「魂」の肯定音だった。その温もりが結界となり、黒いTシャツの群れを静かに押し返していった。










第五章:解けない結び目と、過去の罪






島での生活が十年を過ぎた頃、紬の元に一枚のマフラーが流れ着いた。浜辺でそれを見た瞬間、紬の全身が凍りついた。既製品ではない。不揃いな網目、少し歪んだ形、そして端の方にある編み間違い。

それは間違いなく、かつて紬自身が本土にいた頃、恋人の紗枝に残して去ったマフラーだった。







紬はかつて、大手アパレル企業のデザイナーだった。「売れる服を作れ!」「ワンシーズンで捨てさせろ!」という至上命令に従い、大量廃棄のサイクルを加速させていた張本人だ。その罪悪感と激務に心を病み、全てを捨てて逃げ出したあの日、紗枝が徹夜で編んでくれたこのマフラーさえも置いていった。マフラーからは、紗枝の声が聞こえた。








「待ってる。いつか帰ってくるって、信じてる。ねえ、寒くない?」







その声は恨み言ではない。純粋な心配と愛情だった。だからこそ、他のどの服よりも重く、紬の心臓を締め上げた。このマフラーには、十年分の「待ち続けた時間」と、決して届かなかった体温が編み込まれていた。











第六章:自分自身を解くハサミ







工房に持ち帰ったマフラーを、紬は解体しようとした。しかし、なぜかハサミが入らない。糸の一本一本が強い意志を持って刃を弾き返し、逆に紬の手首に絡みついてくる。







「俺を責めているのか…? 俺が逃げたから…」







紬はマフラーを抱きしめ、床に崩れ落ちて慟哭した。彼はこれまで、服たちの声を聴き、救済している「善人」のつもりでいた。しかし、本当に救われるべきは、現実から目を背け、人間関係という煩わしい「糸」を断ち切って、この島に引きこもっていた自分自身だった。彼は初めて、服としてではなく、紗枝という一人の人間の分身としてマフラーに向き合った。







「ごめん。怖かったんだ。溢れかえるモノの中で、自分が何者かわからなくなるのが…君の愛の重さに応えるのが怖かったんだ…」







紬が心からの謝罪を口にし、涙がウールの編み目に染み込んだその瞬間。







「バカね。ずっと、あなたを暖めたかっただけなのに…」






ふわり、と優しい声が脳裏に響いた。きつく絡まっていた結び目が自ら緩み、マフラーは一本の長い糸へと解け始めた。それは紬を縛る鎖ではなく、彼を許し、包み込む光の繭となった。











第七章:最後の糸車と、紡がれる未来







マフラーが光となって昇華した後、紬の心には凪のような静寂が訪れた。島の空には、相変わらず無数の服が舞い、浜辺には今日も新しい廃棄物が打ち寄せられている。世界は変わらず、洋服で溢れすぎている。消費の歯車は止まらない。







しかし、紬の瞳にもう絶望の色はなかった。彼は工房の奥から、埃を被っていた古い糸車を取り出した。これまでは服を解いて空に還す「葬儀屋」だったが、彼は今日から新しい役割を担うことにした。

解いた糸を選別し、紡ぎ直し、新しい布を織り始めたのだ。







「記憶を消すんじゃない。形を変えて、繋いでいくんだ!」







捨てられた記憶と、忘れられた愛情を、もう一度強靭な布へと織り上げる。それは「裂き織り」のように、過去の傷跡さえも美しい模様とする布だ。いつか誰かがこの島に迷い込んだ時、あるいは自分がいつかこの島を出て行く時、その布で誰かを暖められるように。







膨大な消費の果てにある最果ての島で、服の墓守は、今日も祈るように糸車を回す。世界がどれほど無意味なモノで溢れようとも、そこに込められた想いだけは、決してゴミではないのだと信じて…

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