第Ⅰ章 京終

第2話

「あー、肉、肉、肉、……肉が食べたい!」

 蓮見真惟はすみまいは声にしながら帰路を急いだ。その日は十六歳の誕生日だった。幼い日に焼き肉屋に連れて行ってもらって以来、誕生日になると無性に肉が食べたくなった。

 自宅マンションは目の前。グラマラスな美女がそこから出てくる。真惟のふたつ隣の部屋にひと月ほど前に越してきた榊真知子、自室では下着をつけていない変態と噂される主婦だ。ただの中傷の可能性もある。彼女があまりにも美しいからだ。声をかけ、振られたオジサンが流した悪質なデマだという噂もある。

 その日も彼女は美しかった。ベージュ色のハーフコートは軽やかで厚着をしても豊かな胸と引き締まったウエストがわかる。コートの下からひざ丈の黒いスカートがのぞき、均整のとれた足は芸術品のようだ。

 彼女に比べたら自分は。……真惟は嫉妬する。背は小さいし胸もない。顔も丸顔で美女とはいえない。ただ、ブスではないはずだ。……最近は鏡を見ながら考えることが多かった。

「あら、いつも元気ね」

 すれ違いざまに彼女が言った。

 肉、肉、肉と声を上げたのを聞かれたらしい。……カッ、と顔が熱くなり、「こんばんは」と応じて足を速めた。そうしてエレベーターに飛び乗った。

 ――ドドーン――

 突然、大きな音がしてマンションが揺れた。その年、誕生日は若草山の山焼きと重なっていた。それは奈良市の冬の風物詩だ。

「肉、肉、肉……!」

 玄関ドアを開けると叫びながら靴を脱いだ。

「遅かったわね」

 キッチンから母、志穂の声がした。

「友達にカラオケで祝ってもらったのぉ」

 簡単に説明し、カバンをソファーに放る。

「花火、花火……」

 声をあげながらバルコニーに走った。そこから若草山の上空に上がる花火がよく見える。花火を合図に若草山の山焼きが始まるのだが、その火も、上部まで燃え広がれば見ることができる。

 ――ドーン……、ドドーン……――

 花火は凍った空気を切り裂いて上空に大輪の花を咲かせる。夏のそれと違って引き締まった大気の中、火薬は鮮明な色を煌めかせた。そうして散りゆく花弁の一つ一つは、まるで絵に描いたような菊の花形をつくり、やがてスターダストのように空気に溶けて消える。

「綺麗、綺麗、綺麗、とってもキレイー!」

 橙色に燃える大地の上に幾重にも大輪の花が咲き、そして儚く消えるさまは、色は違っても、夜光虫の群れで青く光る大海のような幻想的な光景だ。

「タマヤー、カギヤー」

 花火が上がるたびに、真惟は意味も知らずに叫んだ。

「間もなく二月堂のお水取りやね」

 真惟の隣に志穂が立った。彼女は養母で、実母は真惟を生むとすぐに火事で他界していた。真惟は、実母をお母さん、養母をママと呼んで使い分けているけれど、実の両親の記憶はない。真惟にとって親は、蓮見蓮司と志穂だけだった。

 もっとも、一緒に引き取られた四歳年上の兄、龍斗には、そうではないようだった。時折、田舎の祖父母と連絡も取っているようだ。彼には幼いころの記憶があるのだ。

「リュウニイは、まだ帰らへんの? 腹ペコや」

 今晩、家族はそろって焼肉を食べに行く約束だった。

「遅いなぁ。電話、してみぃ」

「うん」

 真惟はスマホを手に取った。

 ドーン、と大きな花火が上がり、ガラス窓がビリビリと激しく振動した。

 奈良に越してきて八年ほどになる。父親は保険会社に勤めている転勤族だ。方々転勤して歩いたが、龍斗が高校生になるのを機に、自ら希望して志穂の出身地の奈良支店に異動した。龍斗も真惟も本来、関西訛りはないのだが、奈良に越してから積極的に関西弁を使いだした。関西弁といっても大阪、奈良、京都など、地域によって異なるのだけれど、テレビと友達から覚えたために、話す関西弁はむちゃくちゃに混じった。いわゆる似非関西弁だ。

 ――プルルルル――

 呼び出し音が続く。五回、六回……、呼び出し音を数える。

 まもなく留守電に変わるだろう。……考えた時、電話がつながった。


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