鬼と化しても愛しい人
明日乃たまご
プロローグ
第1話
西暦七八四年、都が山城国の長岡に遷都され、大和の平城京は捨てられた。貴族と共に多くの庶民が長岡に越したが、多くの寺社は貴族の専横を嫌って大和の国に残った。もっとも、貴族らは寺社の増長を嫌って遷都したのだから、お互い様と言えた。
都が長岡京に移ると、大和の庶民の仕事が減り、暮らしは貧しくなった。平城京の周辺のあばら家の数も減り、人の住まなくなった家が朽ちていく。
そのあばら家には囲む塀もないために、壁の隙間から東にある大安寺の二つの五重塔が見えた。北には元興寺や興福寺もあるが、途中に小さな丘や谷があって塔は見えない。その小さな丘の方角から、冬場は絶えず北風が吹いてくる。
そのあばら家に一組の夫婦がいる。彼らは貧しかった。そのことは、生駒山や飛鳥から時折やって来る盗賊さえよく知っていて、中を覗き見ることもなかった。
夫はコマという名の日雇い人夫で、土木作業から農作業まで何でもやるが、仕事がないときは妻と子供を見て過ごす。それがその男の幸福だった。
妻の名はシノブ。大安寺近くの店で商いの手伝いをし、食物をもらって生活の足しにしていた。彼女はあかにまみれているが美形で、店に立つと男たちが寄って来る。それで店主は喜んで使っていた。
その店に左腕のない僧が度々やって来た。店で食事をしていくこともあるが、ただ声をかけるだけで終わることが多かった。
その日もシノブは、「変わりはないか?」と訊かれた。
何も買わない僧は客ではない。とはいえ、ぞんざいに扱うわけにもいかなかった。僧に恨まれてはあの世に行ってからどんな目に合うかわからない。それで丁寧に答える。
「息子が腹を空かせて泣いて困っとります」
「泣くのは子供の仕事よ」
僧の返事はありきたりの役に立たないものだった。
「何か腹がふくれるようなええまじないでも、ないやろか?」
「空腹を知らぬ子は、また、満腹も理解できぬ」
なるほどとは思うが、やはり役に立たない言葉だと思った。
――ホギャー――
その日の夕方も一歳になる息子のリュウは泣いた。
「坊やや、坊や。あまり泣き叫ぶもんやぁない。泣きおったら、鬼女に食われてしまうで」
困り果てたシノブは、息子を大声で脅した。室内を吹き抜ける風の音に負けまいと。
リュウは母親の言うことが分ったのか、分からなかったのか……取りあえずは泣きやんで母親の顔を見上げた。
「遠い陸奥国にはなぁ、旅人を殺してその肉を食う鬼女がおるのやと」
リュウはぽかんとした表情で、恐ろしい物語を語る母親の口元を見ている。
「それは武蔵野国の話ではなかったかのう?」
部屋の奥、といっても手を伸ばせば届きそうな距離ではあったが、シノブの話を聞いたコマが言った。
「何でも旅人を襲い金品を奪うようやが、鬼女の娘が、己の命を懸けて諌めたらしいやないか。その魂は仏様に救われたということや。ありがたや、ありがたや」
コマは壁の落ちた穴から見える五重塔に向かって両手を合わせる。塔は、茜色の空を背景に黒い姿をくっきりと浮き上がらせていた。
「その話は、遠い用明天皇の御代のことやでぇ。まだ、人が人の心を持っておったので、鬼女も人を殺して食うことはなかった。今では、武蔵野は朝廷様のありがたいお力で、すでに文明がいきわたっておる。鬼女がおっても人の肉など食わんのや。ところが、今度の鬼女は陸奥の国の岩屋におる。東夷の血を引く鬼女は、人を殺して食らうのや」
シノブの声音は優しげだったが、甲斐性のない夫に向けた顔は目尻の上がった夜叉に似ていた。すると、再び幼子が泣きだした。
「ほう。鬼女は度々生まれおるのか。お前は何でもよく知っているのう。やはり、あの片腕の坊様に教えてもらうのか? 今度の鬼女も仏様に救われると良いが。……しかし、ありがたい朝廷様も、我々の暮らしは楽にしてくれんかったなぁ。やはり、出家して仏様にすがるしかないのかのう」
コマは妻の顔を見るのに目を細めた。
自分の貧しさは朝廷のせいだ、と言う夫が憎らしく、シノブはにらみ返した。
長岡京は廃嫡した
シノブは祟りなど夢にも思っていない。ただ、あらゆる時代が夢幻のように自分の中を過ぎ去っていくのは知っていた。
愛しいリュウに向かう。
「泣くなら、おかんが、食ってしまうでぇ」
――ホギャー――
リュウが声をあげた。
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