一日一善

@yu1979

第1話

1

一日一善の街 この街を私はそういう風に呼んでいる。

どこにでもあるような地方都市で、山が近くにあって、冬は雪が降る。コンビニもチェーン店も普通にあって、スマホの電波も悪くない。特別なところは、何もないはずだった。

でも、ひとつだけ、誰もが守っている暗黙のルールがあった。 

「一日一善をしなければ、その日は終わらない」  

法律ではない。条例でもない。罰則なんて、もちろんない。

それでも、朝起きた誰もが、今日も誰かに小さな親切をしなければ寝られないと思っている。まるで、空気みたいに当たり前のこととして。

最初にそれに気づいたのは、私がこの街に引っ越してきた日のことだった。

引っ越し業者の若い兄ちゃんが、重い段ボールを運びながら、ふと立ち止まって言った。

「あ、すみません、ちょっと待ってくださいね」

そして、道ばたでつまずきそうになっていた買い物袋を抱えたおばあさんをさっと支えた。

おばあさんは「ありがとうねぇ」と笑って去っていった。

兄ちゃんは、ほっとしたような顔で、私の荷物を再び再開した。

「立派です 優しいんですね」

私が何気なく言うと、彼は首を振った。

「いや、慣れましたよ。しないと、なんか……夜が来ない感じがするんですよね」

慣れた と言う物言いに戸惑った。そのときは冗談だと思った。

でも、次の日、スーパーのレジで前の人が小銭を落とした。

誰もが一斉にしゃがんで拾い始めた。私もつられて拾う。

落とした人は照れくさそうに「すみません、ありがとう」と頭を下げた。

レジの店員さんが、にこやかに言った。

「今日の善、済みましたね」

私は笑ってごまかしたけど、胸の奥がざわついた。 

街の人に聞いてみた。

「なんでみんな、一日一善なんてするんですか?」

すると、みんな同じようなことを言う。

「昔からそうだったから」

「しないと、なんか落ち着かない」

「夜、ちゃんと眠れる気がする」

理由は誰も知らない。ただ、する。

まるで、歯を磨くのと同じくらい自然に。  


この街で出会い、同棲するようになった恋人のみゆきにも

「何故 一日一善をするのか?」と尋ねた

「それが当たり前だから」苦笑しながらみゆきは答えた。

しかしその顔には、隠しきれない懐疑が浮かんでいた。


「これ買ってきて」そう言ってみゆきはメモを手渡した

几帳面な字だ 愛用の黒のボールペン いつも同じ会社の製品、同じ色、いつも同じ場所に置く 


買い物の帰り、駅前で倒れているおじいさんを見つけた。

周りにいたサラリーマン、女子高生、主婦、みんなが自然と集まってきて、

誰かが119番、誰かが上着を脱いでかけて、誰かが手を握って「大丈夫ですよ」と声をかける。

救急車が来るまでの十分間、誰もスマホを見なかった。

みんなで、ただ、その人を守っていた。

救急隊員が「よくやりましたね」と言うと、

周りの人たちは、ほっとしたように顔を見合わせて、

それぞれの日常に戻っていった。

私は、ふと思った。

この街では、誰もが「今日、まだ善をしていない」と不安になる。

だから、見知らぬ人でも、困っている人がいれば、自然と手を差し伸べる。

それは、優しさというより、もはや生理現象に近い。

でも、考えてみれば、

一日一善を「義務」にしているって、

すごく優しい世界じゃないか。

ある夜、コンビニでバイトしている友達に聞いた。

「もし、誰にも見られず、一日一善しなかったら、どうなるの?」

友達は、レジを打ちながら、ぽつりと言った。

「たぶん……朝が来ないんだと思う」

「え?」

「いや、冗談だけど……でも、本当にそう思うときがあるんだよね。

 誰にも優しくしなかった日って、なんか、自分が自分じゃなくなる気がして」

私は、ふと気づいた。

この街の人たちは、

「善」をすることで、自分が「生きている」ことを確かめているのかもしれない。

誰かを助けることで、

自分がここにいる意味を、毎日、少しずつ更新している。

だから、罰則なんて必要ない。

優しさは、義務じゃない。

ただの、呼吸みたいなものだ。

今、私はこの街に住んで2年になる。

今日も、朝起きて、誰かに小さな親切をした。

公園で泣いていた子にハンカチを貸しただけだけど。

夜、布団に入ると、

なんだかほっとする。

ああ、今日も、ちゃんと生きていたな、と。

この街では、誰もが毎日、

小さな奇跡を起こしている。

そして、それを誰も、奇跡だと思っていない。

それが、一番大きな奇跡なのかもしれない。 


夜、隣で眠るみゆきにそう言うと、彼女は恐ろしいほど無表情だった 返事は返ってこなかった


朝、目が覚めたとき、彼女がいなかった。

いつもなら、隣で小さく寝息を立てているはずの場所が、冷たく平らになっていた。

枕はふたつ並んだままで、シーツの皺も昨日のまま。

まるで、夜のあいだに彼女の体だけが煙のように抜けていったみたいだ。

私は飛び起きて、部屋中を探した。

リビング、キッチン、トイレ、ベランダ。

靴は玄関に揃ったまま。カバンも、スマホも、財布も、全部ある。

ただ、彼女だけがいない。

外に出た。

十二月の朝の空気は鋭く、頬を切る。

街はもう動き始めていた。誰もが、今日の「一善」を探すように歩いている。

近所の喫茶店のマスターが、店の前で落ち葉を掃いていた。

「おはよう。ねえ、みゆきを見なかった?」

マスターは箒を止めて、首を傾げた。

「みゆきちゃん? 昨日、夜遅くにここ通ったよ。

 『明日、ちょっと遠くに行ってくる』って言ってた……」

「遠く?」

「うん。でも、どこかは言わなかったな。

 なんか、すごく穏やかな顔してたよ。

 まるで、ずっとやりたかったことをようやく決めた、みたいな」

私は走った。

駅へ。

でも、改札の向こうに彼女の姿はない。

コンビニ、公園、スーパーの前、全部回った。

どこにもいない。

みんなが私を見ると、優しく声をかけてくる。

「どうしたの? 顔が怖いよ」

「何か手伝おうか?」

私は今日の善、まだだから」

私は叫びそうになった。

「助けてくれなんて頼んでない!

 みゆきはどこだ!」

でも、誰も怒らない。

ただ、少し悲しそうな顔をして、肩をすくめるだけだった。

昼過ぎ、疲れ果ててアパートに戻ると、

テーブルの上に、一枚の便箋が置いてあった。

私の字じゃない。彼女の、丸っこくて優しい字。

『ごめんね。

 突然いなくなってしまって。

 私、この街で毎日、一日一善をしてきた。

 あなたと一緒にいる2年、すごく幸せだった。

 でも、最近気づいたの。

 私は、誰かに「善」をすることじゃなくて、

 誰かに「善」をされる側になりたかったんだって。

 助けられて、守られて、甘えて、

 「ありがとう」って言って言いたかった。

 でもこの街では、みんながみんな、

 助ける側に回りすぎてしまう。

 誰も、弱さを見せない。

 誰も、助けを求めない。

 だから、誰も、本当の意味で「救われて」いない。

 私、弱いままでいたかった。

 だから、ちょっとだけ、逃げてきた。

 どこか、誰も知らない場所で、

 誰かに助けてもらって、

 初めて「ありがとう」って、

 心の底から言ってみたい。

 あなたは優しすぎるから、

 きっと私を責めたりしないよね。

 だから、私もあなたを責めない。

 あなたが今日、私を探してくれたこと、

 それだけで、十分「一善」だよ。

 だから、どうか、今日はもう、

 誰にも優しくしなくていい。

 自分に、優しくして。

 みゆき』

手紙を握りしめたまま、私は外へ出た。

街はもう夕暮れ。

みんなが、今日最後の「一善」を探している時間。

私は、公園のベンチに座った。

泣いた。

大声で。

子供みたいに。

すると、通りすがりのおばあさんが、

そっとハンカチを差し出してきた。

「大丈夫?」

私はそれを受け取って、鼻をかんだ。

「……ありがとう」

そのとき、初めて気づいた。

この街で、誰かに「ありがとう」を言うこと」も、

立派な一善なんだって。

彼女は、私にそれを教えてくれたかったのかもしれない。

夜が来た。

私は、まだ泣いていたけど、

なんだか、少しだけ軽くなった気がした。

明日からは、また誰かに優しくしよう。

でも、たまには、

誰かに優しさに甘えてもいい。

きっと、彼女も、どこかで、

誰かに助けられて、笑っている。

それで、いい。

この街は、今日も静かに、

みんなの小さな親切で、回っている。

ただ、ひとつだけ、

私の隣だけが、

少しだけ、広く感じるようになった。

それでも、明日が来る。

朝は、ちゃんと来る。


便箋をもう一度見る。

丸っこい字。確かに彼女の癖のある「み」の字。

でも、インクが違う。

彼女はいつも黒のジェットストリーム0.38を使っていた。

彼女はそれしか使わない これは、青のサラサクリップ0.5だ。

私は立ち上がった。

手が震えた。

誰かが、彼女の字を真似て書いた。

玄関を出て、階段を駆け下りる。

管理人室のおじいさんが、いつものように新聞を読んでいた。

「おじいさん! 今日、誰か私の部屋に入った?」

おじいさんは眼鏡を上げて、ゆっくり首を振った。

「いやぁ、誰も来てないよ。鍵も開いてないし」

「でも、手紙が……」

私は言葉を失った。

鍵は開いていない。

窓は全部内側からロックされている。

彼女の靴もカバンも、全部ある。

つまり、彼女はここから出ていない。

それなのに、いない。

私は、部屋に戻って、クローゼットを開けた。

奥の隅に、小さなメモが落ちていた。

今度は、彼女の字じゃない。

鉛筆で、震えたような字。

『詮索するな』

背中が凍った。

そのとき、部屋の電気が一瞬チカッと明滅した。

蛍光灯が切れかかっているわけではない。

まるで、誰かがスイッチをいじったみたいに。

私は、声を出した。

「……みゆき?」

返事はない。

でも、空気が変わった。

彼女は、まだここにいる。

姿が見えないだけで。


この街では、誰もが「一日一善」をする。


誰かを助けることで、自分が「生きている」ことを確かめるために。

でも、もし助ける相手がいなくなってしまったら?

一日一善を実行して「生きている」ことを感じる

助けるには助けられる人が必要だ その構造に疑問を感じてしまったら、もうこの街にはいられないのかもしれない


優しすぎる街で、

誰かが消えても、誰も気づかないとしたら。

私は、部屋の真ん中に座り込んだ。

「みゆき、ごめん」

声が震えた。

「返せ! 彼女を!」俺は無人の部屋を怒鳴りつけた

沈黙。

でも、確かに、部屋の温度が少しだけ上がった気がした。

涙がこぼれた。

「戻ってきてとは言わない。

 でも、せめて、

 俺にだけは、姿を見せて」

すると、テーブルの上に置いてあった手紙が、

ふわりと浮いた。

そして、ゆっくりと破れた。

破れた紙片が、空中で灰になって散っていった。

偽物の手紙は、もうなかった。

代わりに、彼女の声が、すぐ耳元で聞こえた。

小さくて、泣き笑いみたいな声。

「……ばか」

私は振り返った。

誰もいない。

でも、確かに、彼女の匂いがした。

この街で、誰かが完全に消えることはない。

優しすぎる街では


だから、彼女はまだここにいる。

姿はないけれど、

息をしている。

私は立ち上がった。

なんがなんでも彼女を取り戻す。

手段は選ばない。「優しくない」「親切じゃない」「自己中心的」、そう言われても構わない。 

いつか彼女はまた私の隣で寝息を立ててくれるかもしれない。


この街は、優しすぎて、

人を消してしまうこともある。 

でも、同時に、

優しすぎて、

人を完全に消したりはしない それがこの街なりの一日一善だとでも言うように


私は、窓を開けた。

十二月の風が、部屋の中を通り抜けていく。

その風に、彼女の髪の毛が少しだけ、揺れた気がした。


 

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