銀の静寂
辛口カレー社長
銀の静寂
その駅に降り立った瞬間、鼓膜を圧迫するような静寂に襲われた。雪国特有の、音を吸い込むような穏やかな静けさではない。大気そのものが凍てつき、重くて苦しい無音。「お客さん、迎えは?」 改札口で、老齢の駅員が顔を上げた。古びた石油ストーブの上で
外は、視界が白一色に染まるほどの豪雪だった。スマートフォンの画面を見るが、予想通り圏外の表示が出ている。 私はオカルトマニアでもなければ、冒険家でもない。都内の製薬会社で品質管理の仕事をしている、ただのくたびれた三十路の男だ。 ここに来た理由はただ一つ。半年前に失踪した大学時代の友人、津田洋介の痕跡を探すためだ。 津田は優秀な鉱物学者だった。フィールドワークを好み、
三十分ほど歩いただろうか。雪の白さが、不意に質を変えた。ただの白ではない。
『X月X日。雪の結晶構造が異常。六角形ではない。自己増殖するフラクタルのような……』 『X月△日。指先が痺れる。感覚がない。佐山という女、何かを隠している』 『音が聞こえない。自分の声さえも、銀に吸われていくようだ』 『有機物の無機化。置換現象。これは病気じゃない。環境そのものの“意思”だ』
そして最後のページには、こう殴り書きされていた。
『沖野、来るな。ここは墓場だ。美しい地獄だ』
呼吸が止まりそうになる。彼は、私がいつかここに来ることを予期して、これを隠したのだ。 ――逃げなければ。 そう思った時、階下から微かな音がした。誰かが風呂場へ向かう音だろうか。私は手帳をポケットにねじ込み、衝動的に音のする方へ向かった。 津田がいるかもしれない。まだ、間に合うかもしれない。しかし、脱衣所には誰もおらず、籠には私の衣服だけが置かれることになった。 浴室の扉を開けると、湯気で視界が悪いが、広い岩風呂が見えた。湯船には、ドロリとした白濁の湯が満たされている。 湯に足を浸す。熱い。だが、奇妙なことに湯の揺らぎが遅い。粘度が高いのか、水銀の中に足を入れたような重たさがある。「……誰かいるのか?」 湯気の向こう、露天風呂へと続くガラス戸の向こうに、人影が見えた気がした。私は重い湯の中を歩き、ガラス戸を開ける。外気と共に、雪が吹き込んでくる。 露天風呂の岩場に、一人の男が座っていた。背中を向けて、じっと雪景色を見ている。「あの――」 声をかけたが、男は動かない。近づいて、息を呑んだ。男の髪は、完全に銀色だった。白髪ではない。金属の銀だ。肌も、着ている浴衣も、すべてが銀色の彫像のように硬質化している。それはただの像ではなかった。「津田……なのか?」 その横顔は、見間違えるはずもない。大学時代、研究室で何度も見た、あの思索にふける時の横顔そのものだった。 私がその肩に触れようとした瞬間、彼の身体がサラサラと音を立てて崩れ落ちた。まるで、砂の城のように音もなく、銀色の粉雪となって、湯船の中に溶けていく。後には、彼が座っていた岩と、銀色の粉末が浮いた湯面だけが残された。 私は悲鳴を上げることさえ忘れ、後ずさった。幻覚だ。湯あたりしたんだ。そう自分に言い聞かせ、逃げるように部屋に戻った。 心臓の早鐘が収まらない。自分の手を見る。指先が、ほんのりと銀色に光っている気がした。慌ててタオルで擦るが、皮膚の下から発光しているようで消えない。感覚が鈍い。皮膚が一枚、硬い殻に覆われたようだ。
夕食の時間になり、部屋の電話が鳴った。ジリリリ、というベルの音が、やけに低く、歪んで聞こえる。 逃げなければならない。しかし、外は猛吹雪だ。そして何より、佐山を問い詰めなければ、津田の死――あれが死と呼べるなら――に報いることができない。 私は恐怖を押し殺し、大広間へ向かった。 大広間には、豪華な食事が並べられている。しかし、客は私一人だ。上座に佐山が座っている。彼女の肌は、昼間よりもさらに白く、陶器のようになっていた。「お風呂はいかがでしたか?」 佐山が静かに問う。「……あれは、一体何だ?」 私は震える声で絞り出した。「露天風呂にいたのは、津田だった。あいつが、崩れて……」「ああ、ご覧になったのですね」 佐山は驚く様子もなく、冷酒を
――いや。
ふと、ポケットの中のスマートフォンが振動した気がした。圏外のはずだ。気のせいだろう。しかし、その微かな振動、まさに、日常の雑音が私を現実に引き戻した。 津田は、逃げろと言った。彼は永遠を選んだのではなく、最後まで抗って、私に警告を残したのだ。それを無駄にすることは、彼への、そして私自身の人生への裏切りになる。「――断る」 私は舌を噛んだ。鉄の味が口に広がる。痛覚が、麻痺しかけた神経を無理やり叩き起こす。痛みだけが、私がまだ生身の人間である証だ。「俺は腐っても、老いても、生きて帰る!」 私は渾身の力で、手近にあった一升瓶を掴み、窓に向かって投げつけた。 ガシャン、と派手な音が鳴り響く。 静寂が破られた。その瞬間、佐山の動きが止まった。彼女にとって、騒音は永遠を乱す毒に違いない。 私は動かない足を引きずり、窓枠を乗り越えて雪の中へ飛び出した。 外は地獄のような吹雪だったが、今の私にはむしろ好都合だった。寒さが身体の銀化を遅らせている気がしたからだ。 ――走る。転ぶ。這う。 感覚のない足で雪を蹴る。右足の太ももが、まるで義足のように重い。 後ろから、風の音に混じって佐山の声が聞こえる気がした。
『なぜ、苦しみの中へ戻るのですか。世界は残酷で、汚れています』
「苦しいから、生きてるんだよ!」
私は叫んだ。声が雪に吸われる。 津田の手帳を握りしめる。 来た時の道は分からないが、見覚えのあるガードレール、あの銀色のガイドラインだけが、月明かりの下で微かに光って道を示していた。皮肉なことに、浸食された風景が私を導いている。 一歩進むごとに、身体が軋む。関節の中で砂利が擦れ合うような音がする。肺が凍りつきそうだ。 意識が遠のく。視界の全てが銀色に染まりかけたその時、遠くで音が聞こえた。
――カン、カン、カン、カン。
踏切の警報音だ。無機質で、けたたましく、決して美しくはない音。しかし、それは確かに「動いている時間」の音だ。誰かが生活し、列車が走り、時間が流れている証だ。 私は最後の力を振り絞り、その音の方角へ向かって倒れ込んだ。
◇◇◇
目が覚めたのは、真っ白な天井の下だった。病院のベッドだ。消毒液の匂い。心電図モニターの電子音。看護師たちの慌ただしい足音。 ――うるさい。 なんてうるさくて、素晴らしい世界なんだろう。「気がつきましたか?」 看護師が覗き込んでくる。「駅員さんが見つけてくれたんですよ? 線路脇の雪の中で倒れていたんです」 私は自分の身体を確認した。 手足は動く。肌の色も戻っているが、右手の小指の先だけが、硬く、冷たく、銀色のままだった。 医師の診断は、重度の凍傷ということだった。小指の壊死については首を傾げられたが、切断は免れた。 警察にも事情を話したが、『銀波楼』という旅館は五年前に雪崩で倒壊し、現在は廃墟になっていると告げられた。佐山という女将も、記録には存在しなかった。 津田の行方は、依然として不明のままだ。だが、私のポケットには確かに、あの手帳が残っていた。水分を吸って波打ったそのノートだけが、あの夜が現実であったことを証明していた。 退院の日、私は病院の窓から遠くの山を見た。あの山奥には、今も静寂に包まれた銀色の世界があるのだろうか。 津田は、あそこで永遠の標本となって、美しいまま眠っているのだろうか。それとも、あの銀の粉となって、風に乗って世界中を旅しているのだろうか。 私は右手の小指をさする。冷たくて、感覚がない。爪も皮膚も、完全な銀色に変質している。この指先にある「銀」が広がることはもうないだろう。 だが、ふとした瞬間、例えば、深夜の静寂の中や、雪の降る日には、指先が微かに疼くのだ。
――こっちへおいで、と。
美しく静かな、痛みのない世界へ。
私は雑踏の中へ歩き出す。 車のクラクション、人々の話し声、街の宣伝放送。耳障りなそれらの音が、今は愛おしくてたまらなかった。 私は生きる。老いて、醜くなって、病んで、いつか死ぬその時まで、この騒がしい世界で
空から、ちらちらと雪が舞い降りてきた。都会の汚れた空気を吸って、灰色がかった雪だ。 手の平に落ちた雪片は、すぐに溶けて水になった。それは銀色ではなく、どこにでもある、冷たくて儚い、ただの汚れた水だった。 私はそれをコートで拭い、歩みを早めた。 地下鉄の入口から吹き上げる生温かい風が、私の背中を押した。
(了)
銀の静寂 辛口カレー社長 @karakuchikarei-shachou
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