ふろしき童子 ―江戸聖夜綺譚―
旭
第1話 若草色の影
年の瀬の江戸は、昼間の喧騒が嘘のように、夜更けになると息を潜める。
商いの声も、下駄の音も消え、雪を含んだ冷たい風だけが路地を撫でていった。
日本橋から少し離れた長屋の一角。
油皿の灯が消えたその部屋で、お凛は弟の寝顔をじっと見つめていた。
「……ごめんね」
小さく呟き、弟の額に手を当てる。
熱は下がったが、薬はもうない。
年の瀬で医者も忙しく、明日を越せるかどうか――
そんな不安を胸の奥に押し込め、お凛は布団に潜り込んだ。
子供たちの間には、昔からの噂があった。
年で一番夜の深い日に、
若草色のふろしきを担いだ“ふろしき童子”がやってくる、と。
欲張りな子のところへは来ない。
嘘つきの子も、泣き真似をする子も駄目。
でも、誰にも言えない願いを胸にしまった子のもとには――。
お凛は目を閉じ、心の中でそっと願った。
(弟が……朝まで、苦しまないで済みますように)
その瞬間だった。
――しゃり。
雪を踏む、かすかな音。
鼠一匹通れぬはずの戸の向こうから、夜気が忍び込む。
お凛は目を開けた。
薄闇の中、月明かりに照らされて、
ひとつの影が部屋の中央に立っていた。
ほっかむりで顔は見えない。
肩から掛けたふろしきは、若草色。
風もないのに、布だけが静かに揺れている。
声を出そうとして、喉が凍りついた。
影は音もなく歩み寄り、
弟の枕元に小さな包みをそっと置いた。
結び目は丁寧で、まるで大切な宝物のように。
一瞬、影とお凛の視線が重なった――
ような気がした。
次の瞬間、
若草色は月明かりに溶けるように消え、
部屋には再び、深い静けさだけが残った。
やがて、弟が小さく寝息を立てる。
苦しそうな呼吸ではない、穏やかな音だった。
お凛は震える手で包みを開いた。
中に入っていたのは、
薬でも、玩具でもない。
一枚の、古びた紙切れ。
そこには、たった一行――
墨でこう記されていた。
「夜は、必ず明ける」
お凛はそれを胸に抱き、
声を殺して泣いた。
その夜、江戸の町では、
若草色の影を見たという者が、もう一人いたことを、
まだ誰も知らなかった。
ふろしき童子 ―江戸聖夜綺譚― 旭 @nobuasahi7
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