第5話 その場にいただけ

夜が、

ようやく静かになった頃。


澪のスマホが、

小さく震えた。


【千里】


> 地元に帰ることになったよ!

来週、時間あったら飲も〜




澪は、

少しだけ画面を見つめてから、

返す。


> 行こ

会いたい




既読は、

すぐについた。


> やった!

駅前でいい?




それで、

決まった。



千里と飲んでいる時間は、

ただ楽しかった。


駅前の居酒屋。

少し騒がしくて、

少し狭いテーブル。


「ここ、ほんと懐かしいよね」


千里が笑う。


「学生の頃も来てたよね」


「来てた来てた。

安くてさ」


他愛もない話。

仕事のこと。

子どものこと。

どうでもいい昔話。


笑って、

突っ込んで、

また笑う。


グラスが空いて、

二杯目。


「飲みすぎじゃない?」


「千里に言われたくない」


「ひどい」


声を出して笑う。


その瞬間、

私は何も思い出していなかった。


過去も、

名前も、

視線も。


全部、

ここにはない。


――そのはずだった。


通路の向こうを、

二人の男が歩いてきた。


何気なく、

目を上げただけだった。


でも、

すぐに分かった。


洸平。

その隣に、圭介。


目の前を通り過ぎる、

ほんの一瞬。


……のはずが、

二人は足を止めた。


「あ……」


先に声を出したのは、

千里だった。


「洸平?」


名前を呼ばれて、

洸平がこちらを見る。


その視線が、

自然に私に重なる。


逃げ場のない距離。


「……千里?」


圭介も、

すぐに気づいた。


「久しぶり」


四人とも、

中学の同級生。


昔の知り合い。


それだけのはずなのに、

空気が一瞬、固まる。


「偶然だね」


千里は、

いつも通りの声で言った。


「ほんとだな」


洸平も、

それに合わせる。


私は、

笑おうとして、

少し遅れた。


「……久しぶり」


それだけ。


圭介が、

私と千里を交互に見て言う。


「一緒に飲んでたんだ」


「うん。

久しぶりに」


千里は、

何も疑っていない。


懐かしい再会、

それだけの顔。


洸平の視線が、

一瞬だけ私に戻る。


でも、

何も言わない。


言えない。


「邪魔したな」


圭介が、

察したように言った。


「またな」


「うん」


洸平は、

最後にもう一度だけ

私を見た。


それだけで、

十分すぎた。


二人は、

そのまま店を出ていく。


背中が、

人混みに紛れていく。


「びっくりしたね」


千里が、

何事もなかったように言う。


「ほんと」


私は、

そう返した。


グラスに口をつける。


少しだけ、

味が分からなかった。


でも、

それ以上は考えない。


今日は、

千里と飲む夜。


楽しくて、

何も思い出さない夜で

いたかったから。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る