『八十三秒の楽園』

『雪』

『八十三秒の楽園』

 淡い青色に染まった水面は緩やかに波立っており、燦々と降り注ぐ太陽の光を鮮やかに反射させる。乾いたプールの縁に腰を下ろし、煌めく水面をぼんやりと眺めながら、私は大きな欠伸を快晴の空に零した。

 時折、彼方へと飛び立ちそうになる意識をこの身体の内に引き戻しては、腕に抱いた厚手のビニール袋から消毒用の塩素を固めた錠剤を取り出し、プールへと投げ入れる。やる気の無い放物線を描いて飛翔する塩素の塊は次々に着水し、プールの底へと沈んでいく。

 規定量の塩素を投入し終えた為、塩素の袋を輪ゴムで止めてプールサイドの端に寄せる。そして、代わりに手に取ったバインダーに挟んであるチェックシートの項目を録に見ることもなく、次々に〇を付けていった。

 バインダーも塩素と同じようにプールサイドに置いてから、嫌々ながらにずーっと身に付けていたヘッドフォンを外す。高い遮音性を実現していたヘッドフォンを外した途端に鼓膜を揺るがしたのは、運動場を使用する運動部の生徒達が放つ大声とシーズンは過ぎたというのに未だに衰えを知らぬ蝉の大合唱だった。

 あまりの煩さに思わず舌打ちが漏れ出る。手早くそして丁寧にヘッドフォンを防水ケースに仕舞うと、水泳キャップもゴーグルもプールサイドに置き去りにしたまま、逃げ込むように水中へとこの身を投じた。


 この世界には不要なモノが沢山ある。一つ一つ挙げていればキリがないが、私が最も必要無いと思うモノを挙げるとするならば、生き物が放つあらゆる物音だと迷いなく言えるだろう。話し声・鳴き声から始まり、手を叩く音、足を踏み鳴らす音。無意味に関節を鳴らす音に、心臓の鼓動に至るまで、それらが鼓膜を震わせる事があまりにも耳障りに感じ、どうしようもなく不愉快なのだ。

 何故とは言われても私にだって分からない。一つ一つ丹念にポイントを潰していけば、それらしい理由は見付かるのかも知れないが、別にそんなものは必要ない。嫌いなものはどうあったって嫌いなのだから。

 話が少し逸れてしまったが、あくまで生物が放つ音が嫌いなだけで、そうでない音は大抵は嫌いではないと言える。クラシックのような楽器による演奏は勿論、人の声さえ混ざらなければジャズやブルースに限らず、メタルやテクノ系の激しい音楽も苦にはならない。

 また、私の偏屈な感性にしては珍しく、川のせせらぎや季節によって音色を変える雨音のような自然が奏でる音楽については手放しに好きだと言えるだろう。そして、そんな私が一番安心して聞く事が出来る音こそが、この水中に木霊する物音の数々なのだ。


茹だるような暑さの地上とは異なり、水の中は冷たいとすら感じる低温で保たれている。全身でその冷たさを感じながら地球の重力に引かれ、水底へと沈んでゆく。先程までの喧騒は嘘みたいに静まり返っていた。

 地上へと昇ってゆく吐息の気泡、そして揺れ動く水面が奏でる音色だけが此処にはあった。先程までヘッドフォンで聞いていたのもこの水中の音を模したものだったが、やはり紛い物では遠く及ばないな、と改めて感じる。

 鼓膜を優しく擽る本物の水音がストレスで荒んだ心にひと時の安らぎを与えてくれる。このままずっとこうして居たい。口にした叶わぬ願いは泡と成り、やがて消えてゆく。

固く閉ざした瞼の裏側、青く透き通った視界の端が徐々に黒く濁り始める。それは地獄へのカウントダウンだった。膝を抱いていた腕を解き、さらに深く潜る。足の裏がプールの底を付いた事を確認すると、力いっぱい蹴り上げて私は水面を突き破るように地上へと飛び出した。

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