君の記憶を「最低」に上書き保存 〜浮気した彼女と間男を、脳内に刻まれた思い出ごとハックして絶望の底に叩き落とす〜

@flameflame

第一話 幸福な日々のノイズと、裏切りのログファイル

柔らかな間接照明が、静かなリビングを優しく照らしている。壁にかけられた時計の秒針が刻む音だけが、部屋の穏やかな空気に溶けていく。俺、夜凪奏(よなぎかなで)は、ローテーブルに置かれたノートパソコンの画面からそっと視線を外し、隣のソファに座る彼女に目を向けた。


「……ん、奏?」


こくりこくりと舟を漕いでいた彼女が、俺の視線に気づいたのか、眠たげに目を開ける。月詠栞(つきよみしおり)。大学時代に出会い、恋人になって六年。この都心のマンションで同棲を始めてから、二年が経つ。


「ごめん、起こしたか」

「ううん、大丈夫。もうこんな時間だね。奏もお仕事、お疲れ様」


栞はそう言って、ふわりと微笑んだ。少しウェーブのかかった髪がさらりと揺れ、俺がプレゼントしたルームウェアに包まれた華奢な身体を、ゆっくりとこちらに預けてくる。肩にかかる重みと、シャンプーの甘い香りが、俺の心を安らぎで満たしていく。


「栞こそ、最近ずっと忙しいみたいだから。無理するなよ」

「うん。でも、大きなプロジェクト任せてもらえてるから、やりがいはあるんだ。……あ、そうだ。明日の夜、チームの打ち上げで遅くなるかも。ごめんね」

「分かった。気にしなくていい。夕飯は適当に済ませるから」


素直に頷くと、栞は「ありがとう」と呟いて、俺の腕にさらに強くすり寄ってきた。この穏やかで、満ち足りた時間。これが俺の日常であり、守るべき幸福そのものだった。


大学時代、人付き合いが苦手で、研究室にこもりがちだった俺に、太陽のような笑顔で話しかけてくれたのが栞だった。ウェブデザイナーを目指していた彼女は、当時から脳科学とVR技術を組み合わせた「記憶」の研究に没頭していた俺を、変人扱いせずに「奏のやってること、未来を作ってるみたいで格好良い」と言ってくれた。彼女のその言葉が、どれだけ俺の支えになったことか。


卒業後、俺は個人で「夜凪メモリーデザイン事務所」を立ち上げた。表向きはVRコンテンツ制作会社だが、その実態は、人の記憶にアプローチする専門家、メモリー・エディターとしての仕事だ。トラウマを抱えるクライアントの辛い記憶の印象を薄めたり、アスリートの成功体験を追体験させてスランプからの脱却を助けたり。人の脳という複雑怪奇なシステムに介入する、繊細で、そしてある意味では危険な仕事。


それでも俺がこの仕事を続けているのは、人の記憶が、その人の幸福に直結していると信じているからだ。そして、俺自身の幸福は、間違いなくこの腕の中にいる栞との記憶によって形作られていた。


「奏のご飯、最近食べられてないな……」

「そうだな。じゃあ、今度の週末は腕を振るって、栞の好きなビーフシチューでも作ろうか」

「ほんと? やった! 奏のビーフシチュー、世界一美味しいもん」


子どものようにはしゃぐ栞の頭を優しく撫でる。この笑顔が見られるなら、なんだってできる。本気でそう思っていた。この完璧な日常が、永遠に続いていくのだと、何の疑いもなく信じていた。


──そのはずだった。


いつからだろう。俺たちの完璧な日常に、耳障りなノイズが混じり始めたのは。


些細な変化だった。最初は、栞がスマートフォンを操作する時間が増えたこと。以前はリビングに無造作に放り出していたのに、最近は肌身離さず持ち歩き、俺が近づくと慌てて画面を伏せるようになった。


「誰かと連絡取ってるのか?」


ある日、何気なく尋ねると、栞は一瞬だけぎこちない表情を見せた。


「あ、うん。会社のグループチャットだよ。最近、夜中でも連絡来るようになっちゃって……ほんと、ブラックだよね」


そう言って彼女は笑ったが、その目は少しも笑っていなかった。


「残業」や「休日出勤」も、ここ一ヶ月で急激に増えた。ウェブデザイナーという職業柄、繁忙期があるのは理解している。だが、疲れ切って帰ってくるはずの彼女の瞳の奥には、疲労とは明らかに違う、妙な高揚感が宿っていることがあった。まるで、何か新しい刺激に満たされて、心が浮き足立っているかのような。


新しいブランドのピアス。今まで彼女が選ばなかったような、少し大人びたデザインのワンピース。そして、ふとした瞬間に彼女から香る、俺の知らない男性ものの香水の匂い。


一つ一つは、気のせいだと言い聞かせられる程度の小さな違和感。だが、それらが積み重なっていくうちに、俺の中で無視できない疑念の染みとなって、じわじわと広がっていく。


馬鹿な。俺たちの六年間を、なんだと思ってるんだ。栞が俺を裏切るはずがない。仕事のストレスで、俺が過敏になっているだけだ。


そうやって何度も自分に言い聞かせ、無理やり思考の蓋を閉じる。栞の笑顔を見るたびに、俺の中の疑念は罪悪感へと変わり、彼女を疑う自分自身が醜く思えた。信じよう。俺が愛した栞を、俺たちの築いてきた時間を、信じ抜こう。そう決めたはずだった。


その決意が、木っ端微塵に砕け散る日が、こんなにもあっさりと訪れるなんて。


その日は、珍しく平日の昼間に仕事が一段落し、俺は自室で開発中の新型デバイスのテストを行っていた。それは、ハチドリほどの大きさしかない超小型の偵察ドローン。極小の高性能カメラと指向性マイクを搭載し、リアルタイムで映像と音声をPCに転送できる優れものだ。クライアントの依頼で、行方不明になったペットの捜索や、警備システムへの応用を想定して開発を進めているものだった。


「よし、通信は安定しているな。次は屋外でのホバリングテストだ」


俺はマンションの自室の窓を開け、ドローンを静かに外へと飛ばした。眼下には、緑豊かな近隣の公園が広がっている。平日の昼下がり、公園には人影もまばらだ。PCのモニターには、ドローンからのクリアな映像が映し出されている。木の葉一枚一枚の葉脈まで見えるほどの解像度に、俺は小さく満足の息をついた。


操作に慣れるため、公園内をゆっくりと旋回させる。噴水の周りを飛び、遊具の上をかすめ、木々の間をすり抜けていく。その時だった。モニターの隅に、見慣れた人影が映り込んだのは。


「……え?」


思わず声が漏れた。公園の奥、人目につきにくい場所にあるベンチ。そこに座っていたのは、紛れもなく栞だった。「今日はクライアントとの打ち合わせで直帰する」と、朝、俺に告げていたはずの彼女が、そこにいた。


そして、その隣には、見知らぬ男が座っていた。仕立ての良いスーツを着こなし、いかにも仕事ができそうな、自信に満ちた雰囲気を漂わせる男。栞は、俺には決して見せないような、蕩けるような甘い表情で男を見上げ、楽しそうに笑っている。


心臓が、嫌な音を立てて脈打つのを感じた。指先が急速に冷えていく。違う。何かの見間違いだ。仕事の打ち合わせの相手かもしれない。そうだ、きっとそうだ。


震える指でマウスを操作し、ドローンを二人に気づかれないよう、少し離れた木の枝にそっと着地させる。カメラのズーム機能を最大にし、指向性マイクの感度を上げた。


モニターに、二人の顔がアップで映し出される。男が、栞の髪を優しく撫でた。栞は気持ちよさそうに目を細め、その手に自分の頬をすり寄せている。俺が今まで、幾度となくしてきたのと同じ仕草。だが、彼女が浮かべている表情は、俺の知っているものとはまるで違っていた。それは、新しい玩具を与えられた子どものような無邪気さと、女としての悦びが混じり合った、見たこともないほど扇情的な表情だった。


やがて、男が何かを囁き、栞がこくりと頷く。そして、男の顔がゆっくりと栞に近づいていく。


やめろ。


心の中で叫ぶ。だが、その声は届かない。モニターの中の二人の唇が、ゆっくりと重なった。長い、長いキス。俺は、息をすることも忘れ、ただその光景を呆然と見つめていた。まるで、自分の魂が身体から少しずつ引き剥がされていくような感覚。


どれくらいの時間が経っただろうか。唇が離れた後、栞が恍惚とした表情のまま、吐息混じりに囁いた。その言葉は、ドローンの高性能マイクを通して、俺の鼓膜に、そして脳髄に、残酷なほどクリアに突き刺さった。


「……やっぱり、玲央さんはすごい。奏にはない刺激をくれる玲央さんが好き」


その瞬間、俺の中で何かがぷつりと切れる音がした。


悲しみ? 怒り? 嫉妬? 絶望?


違う。それら全ての感情が沸騰し、蒸発し、後に残ったのは、絶対零度の静寂だけだった。ああ、そうか。そうだったのか。これが真実か。俺が守ろうと必死だった幸福は、とっくの昔に壊れていて、俺だけがその瓦礫の上で幸せな夢を見ていただけだったのか。


俺は、震えもしない指で、冷静にマウスを操作した。録画ボタンを押し、今見ていた全てを、寸分の狂いもなくPCのストレージに保存する。「Shiori_betrayal_log.mp4」というファイル名が、デスクトップに無機質に生成される。


俺はメモリー・エディター。人の記憶を扱い、編集することを生業とするプロフェッショナル。人の記憶がいかに曖昧で、脆く、そして簡単に汚染され、上書きされうるものかを知り尽くしている。


ならば。


この裏切りに対する俺の答えもまた、「記憶」の中に見出すべきだ。


ただ別れるだけ? 慰謝料を請求する? そんな生ぬるい復讐で、この魂に刻み込まれた傷が癒えるものか。違う。それでは足りない。全く足りない。


彼らが俺から奪ったのは、幸福な「時間」だけじゃない。幸福だったはずの「記憶」そのものだ。ならば俺は、彼らから全てを奪い返そう。彼らの人生を支える、最も大切な記憶そのものを汚し、破壊し、偽りの絶望で上書きしてやる。精神そのものを内側から崩壊させる、俺にしかできない完全犯罪。それこそが、この裏切りに最も相応しい報いだ。


その夜。何食わぬ顔で帰宅した栞は、玄関で俺の姿を見つけると、いつものように無邪気な笑顔を向けた。


「ただいま、奏! 今日は疲れちゃったー」

「おかえり、栞。大変だったな」


俺もまた、完璧な恋人の仮面を被り、完璧な笑顔で彼女を迎え入れた。その仮面の下で、俺の脳は、栞とあの男を絶望の底に叩き落とすための、最も残酷で美しい復讐のアルゴリズムを、冷徹に構築し始めていた。


栞は何も知らない。自分の恋人が、ただの優しい青年ではないことを。そして、自分がこれから、愛した記憶の全てを奪われ、精神の牢獄に永遠に囚われることになる運命を。


俺はそっと、疲れてソファで眠り込んでしまった栞の髪を撫でた。その手つきは、いつもと同じように優しかった。だが、その目に宿る光は、もはや以前の俺のものではなかった。


「おやすみ、栞。楽しい夢は、もうすぐ終わりだよ」


静かなリビングに、俺の冷たい呟きだけが、低く響いた。復讐の舞台は、静かに、そして確実に整えられていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

次の更新予定

2025年12月17日 19:00
2025年12月18日 19:00
2025年12月19日 19:00

君の記憶を「最低」に上書き保存 〜浮気した彼女と間男を、脳内に刻まれた思い出ごとハックして絶望の底に叩き落とす〜 @flameflame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ