第5話

 イベントが終わって、

 日常は驚くほどあっさり戻ってきた。


 月曜日の朝。

 満員電車。

 いつもと同じオフィス。

 いつもと同じデスク。


 イベントに行ったことが、

 夢だったみたいに感じる。


 スマホを開くと、

 タイムラインにはイベントの感想が流れている。


「最高だった」

「生で見れて幸せだった」

「次も絶対行く」


 私は、

 いいねを押すだけで、何も書かない。


 まだ、

 自分が“行った側”になったことを、

 うまく飲み込めていなかった。


 ⸻


 夜。


 配信をつける。


 画面の向こうで、

 宵坂なゆが、いつも通りに笑っている。


 何も変わらない。

 距離感も、言葉も、空気も。


 でも。


 イベントで見た姿が、

 どうしても重なってしまう。


 ステージの上のなゆ。

 客席を見回す視線。

 会場に響いた声。


 ――同じ人だ。


 分かっているはずなのに、

 配信越しだと、

 少しだけ遠く感じてしまう。


 近づいた気がしたのに、

 同時に、離れた気もする。


 その矛盾に、

 胸の奥が落ち着かない。


 ⸻


 次の日。


 ふと、

 こんな考えが浮かぶ。


 ――もう、イベントには行かないほうがいいのかもしれない。


 一度行ったからこそ、

 これ以上を求めてしまいそうで。


 また視線を探してしまいそうで。

 また言葉の裏を、読みすぎてしまいそうで。


 期待しないために、

 距離を取る。


 それは、

 きっと賢い選択だ。


 でも。


 同時に、

 こうも思ってしまう。


 ――行かなければ、

 私はまた「行けなかった私」に戻る。


 あの会場で、

 逃げなかった自分を、

 なかったことにしたくなかった。


 ⸻


 数日後。


 なゆのツイートが流れてくる。


「イベントのあとって、

 ちょっと寂しくなるよね」


 誰に向けた言葉かなんて、

 分からない。


 それでも、

 胸の奥が、少しだけ緩んだ。


 私は、

 いつも通りのリプライを送る。


「余韻、ありますよね」


 数分後。


「ね。

 また君に、元気もらおうかな」


 短い言葉。

 約束でも、特別でもない。


 それでも。


 拒まれていない。

 遠ざけられてもいない。


 それだけで、

 深く息ができた。


 ⸻


 私は、

 次のイベント予定を確認する。


 行くかどうかは、

 まだ決めない。


 チケットのページを、

 閉じずに置いておくだけ。


 それだけで、

 心が少し軽くなる。


 ⸻


 イベントは、

 魔法じゃなかった。


 人生が変わったわけでも、

 関係が進んだわけでもない。


 でも。


「行ってもいい」

「好きでいてもいい」


 その境界線を、

 少しだけ、押し広げてくれた。


 私は今日も、

 配信を見る。


 コメントを打つ。


「今日も来ました」


 画面の向こうで、

 なゆが笑う。


 名前は呼ばれない。

 特別な言葉もない。


 それでも。


 私はもう、

 一歩踏み出した自分を、

 否定しなくていい。


 それだけで、

 次の夜を迎える準備が、

 少しだけできた気がした。

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画面のこちら側で恋している。 くうはく @Kuhk

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