第6話 熱狂の檻と「老獪な宰相」


1896年春~1897年春 東京、新聞社と日本橋界隈

「裏切り」の匂い:マスコミの憤激と疑惑(1896年初頭)

新聞記者、須藤の焦燥

時事新報の政治部記者、須藤徹(30歳)は、首相官邸からの最新情報を読み、デスクを叩きつけた。彼の背後には、「臥薪嘗胆」の揮毫が厳めしく掲げられている。日清戦争終結後、日本の新聞は、このスローガンを唯一の社是とし、国民の対露復讐心を煽り続けていた。

「またか! 伊藤総理は、また軍事予算の削減を議会に提出したというのか!」

須藤は、三国干渉の屈辱以来、伊藤博文の政策に深い不信感を抱いていた。軍部がロシアに対抗するための「十個師団増設案」を要求しているにもかかわらず、伊藤は、「国民教育と産業の育成こそ急務」として、軍事予算の一部を大幅に削減し、大蔵省の管轄下に厳しく置こうとしていた。

須藤の眼には、この動きは明らかに「富国強兵」という国家の緊急課題からの逃避であり、遼東の屈辱を忘れた「弱腰外交」の兆候に映った。

「軍部の要求を削り、国民の復讐心を冷ます。この老獪な宰相は、本当にロシアと戦うつもりがあるのか? 国民の血と汗で得た賠償金を、軍拡ではなく、文官の手遊びのような施策に流し込んでいるではないか!」

新聞記者の使命感と、時代全体の「復讐」というムードが、須藤を突き動かしていた。マスコミにとって、軍部の強硬路線は、記事として最も刺激的であり、部数を伸ばす確実なテーマだった。伊藤の平和的な路線は、「弱々しく、面白くない」と映った。


賠償金使途への攻撃

須藤は、特に伊藤が賠償金の管理を厳しく大蔵省の文官に委ね、軍部が自由に資金を引き出せないようにした点に焦点を当てた。

【論説:賠償金は誰の血税か?】

我が兵士が流した血と汗の対価である賠償金は、一刻も早く国軍の強化、すなわち対露復讐の牙を研ぐために使われるべきである。しかし、伊藤内閣は、これを官僚の贅沢な施策や、地方の瑣末な土木事業に浪費しようとしている。これは、国民の愛国心に対する裏切りであり、軍部の手足を縛り、復讐の機会を奪う悪政である!

新聞は、この論調で連日、伊藤内閣を攻撃した。マスコミは、伊藤の政策の裏にある「立憲政治の回復」という真の意図には一切目を向けず、「屈辱を忘れた臆病者」というレッテルを貼ることで、国民の不満を増幅させた。


平次郎の葛藤:熱狂と生活のリアル(1896年春)

復讐心と現実の重み

東京の日本橋。輸入商社の社員、平次郎は、須藤記者らの論調に、深く共感していた。三国干渉以来、彼の心は「臥薪嘗胆」の四文字に支配されていた。

「伊藤総理は、どうも決断が遅い。ロシアといつ戦うのか、いつ軍備を整えるのか、その姿勢が見えないではないか!」

平次郎は、毎週発行される新聞の論説を読み込み、軍拡を要求する記事に深く頷いた。彼の愛国心は、依然として「ロシアへの復讐」という単純な目標に固執していた。

しかし、彼の現実の生活もまた、無視できない重みを持っていた。

「吉川、軍事費が削られた分、鉄道の延伸と港湾の整備に予算が回るそうだ。わが社の扱うイギリス製品の輸送コストが下がるかもしれないぞ」

同僚の吉川が、大蔵省の予算案の一部を指摘した。平次郎は、ハッとした。伊藤が削減した軍事予算の一部が、皮肉にも平次郎自身の経済的利益に繋がる可能性があったからだ。

伊藤が推進する「文官による民需産業への投資」は、戦後の好景気を背景に、着実に実を結び始めていた。鉄道、電気、通信といった分野への投資は、平次郎のような都市部の会社員にとって、「生活の向上」という最も身近な恩恵をもたらしていた。


構造改革への無関心

平次郎にとって、伊藤が裏で進めていた「軍部大臣現役武官制の阻止」や「統帥権解釈の限定」といった政治構造改革は、あまりに抽象的で、遠い話であった。

「軍部大臣が現役であろうが予備役であろうが、我々市民の生活に何の関係があるというのだ? それよりも、ロシアを叩くための最新鋭の戦艦を早く建造すべきだ!」

平次郎の関心は、常に「目に見える強さ」と「具体的な利益」にあった。彼は、伊藤の政策を「文官の自己保身のための回りくどい行政」と見なし、マスコミが唱える「弱腰外交」というレッテルを、感情的に支持した。

彼の心の底には、「軍事の成功こそが、国と個人の勝利である」という、日清戦争で確立された揺るぎない信念が根付いていた。


伊藤の外交工作:疑惑の深まり(1896年秋)

「裏切り」の証拠:対露協調の噂

1896年秋。マスコミと世論の伊藤への不信感は、決定的な情報によって爆発した。それは、伊藤内閣がロシアとの間で、「満州におけるロシアの優越権」を承認する代わりに、「朝鮮における日本の主導権」を確保するという「協調的な勢力範囲分割案」を、水面下で進めているという噂であった。

須藤徹記者は、官邸に近い筋からのリークを掴み、憤激のあまりペンをへし折った。

「やはりそうか! 伊藤総理は、国民が『臥薪嘗胆』の血を流して獲得しようとしている満州の権益を、ロシアに売り渡そうとしているのだ!」

新聞は一斉に、伊藤博文を「国賊」「老獪な売国奴」と非難した。マスコミの論調は、伊藤の政策を「国民の復讐心と軍事力を抑え込み、自らの政治的権力を延命させるための陰謀」と断定した。

須藤にとって、外交とは「勝者と敗者を明確にするゼロサムゲーム」であり、ロシアとの「協調」など、日本の国益を損なう「弱腰の証拠」でしかなかった。彼は、伊藤の戦略の真の目的(戦争回避による国力温存)を理解しようとせず、国民の復讐心という感情的な波に乗って、部数を伸ばすことに成功した。


平次郎の「感情的」反発

平次郎もまた、この「対露協調」の報に激しい怒りを覚えた。

「満州は、清国を破った我が国の勢力圏となるべき場所ではないか! なぜ、血も流していないロシアに、何の権利があってそれを譲渡せねばならぬのだ!」

彼の怒りは、「屈辱的な遼東返還」の再演を見たことによるものであった。伊藤の行動は、彼の「日本は強大で、外交は強硬であるべき」という単純な世界観を裏切るものであり、感情的な反発は頂点に達した。

• 政治構造への無関心: 伊藤が大臣の任免権で軍部を押さえつけ、外交の主導権を確保したという事実は、平次郎の関心の外にあった。

• 外交手法への不信: 平次郎は、直接的な武力による対決を望んでおり、「話し合い」や「権益の分割」といった複雑な外交手法を「腑抜けの妥協」と断じた。

平次郎の頭の中では、「伊藤総理=弱腰・裏切り者」というレッテルが完全に定着した。彼は、伊藤の推進する鉄道投資の恩恵を享受しつつも、政治的な感情はマスコミの熱狂的な論調に完全に支配されていた。


「文官外交の勝利」とマスコミの困惑(1897年春)

日露協定の成立と困惑

1897年春。水面下での折衝の結果、伊藤内閣はロシアとの間で、朝鮮半島における日本の優位性を確保しつつ、満州問題では協調的な関係を維持する協定を成立させた。

この協定は、ロシアとの全面戦争を回避し、朝鮮という核心的な国益を外交によって確保したという、文官外交の輝かしい勝利であった。

しかし、マスコミの論調は、複雑な困惑に包まれた。

須藤記者は、協定の文書を睨みつけた。ロシアとの戦争は回避された。朝鮮における日本の権益は確保された。国民の生命と国費は守られた。理屈で考えれば、これは「大勝利」であった。

だが、須藤は、依然として記事のトーンを下げることができなかった。彼は、この協定を「戦争という名の最終決着を先延ばしにしたに過ぎない」と論じた。


【論説:一時的な平和の欺瞞】

伊藤総理は、一時的な平和と経済的な恩恵をもって、国民の復讐心を欺こうとしている。しかし、満州の広大な権益をロシアに奪われた事実は変わらない。我々は、外交という名の妥協ではなく、武力による真の勝利を、未来の世代に課された義務として果たさねばならぬ!


マスコミは、「戦争回避」という最大の国益を無視し、「復讐」という感情的な目標こそが正義であると、最後まで主張し続けた。彼らは、伊藤の「文官優位」の構造改革の目的が、「日本を戦争から遠ざける」ことにあると知っていたからこそ、その全ての施策を「国賊的」と攻撃し続けたのである。


平次郎の最終的な認識:理性より感情

平次郎は、日露協定成立後も、マスコミの論調を支持し続けた。

協定成立により、彼の会社は貿易ルートの安定という恩恵を受け、給料もわずかに上がった。彼は、伊藤の政策の「恩恵」は享受していた。

しかし、彼の心に残ったのは、「満州をロシアに譲った」という「屈辱的な敗北感」であった。

「我々は、ロシアに正面から勝利したわけではない。話し合いで、一部の領土を諦めただけだ。こんな中途半端なやり方では、列強に日本は弱いと思われるだろう」

平次郎にとって、「平和的な解決」は、「不完全な勝利」を意味した。彼は、伊藤の「政治的な偉業」ではなく、マスコミが煽る「感情的な復讐」という物語を、最後まで真実として選び続けた。

彼のこの感情的な選択こそが、伊藤博文が確立しようとした「文官優位」の構造を、常に内側から脅かし続ける「熱狂の檻」となったのである。伊藤の戦略は成功したが、国民の意識という最大の壁は、依然として崩すことができなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る