第4話 故郷の土と血の代償
日清戦争の記憶と農村の貧困(1895年春~秋)
勝利の報と土の重み
終戦の春、茨城
茨城の、小高い丘の連なりがようやく緑を帯び始めた1895年の春、正治(しょうじ)はまだ六歳だった。彼の村、長岡(ながおか)は、関東平野の東端、利根川水系の支流に沿って広がる、純粋な米作地帯である。
日清戦争が終わったという報は、春の種まきの真っ只中に届いた。
「勝ったぞ!清国を打ち破った!」
役場の男が、汗だくで村の入り口の掲示板に、墨で大書された紙を貼り付けた。村人たちは、その報せを聞き、鍬を止めた。喜びの声は上がったが、それは酒宴のような高揚ではなく、安堵と疲労が混じった、押し殺したような歓声だった。
戦争に勝ったと言われても、土の重さは変わらない。正治の父、源蔵は、顔を上げ、空を仰いだ。源蔵は、幸いにも半年間の従軍から無事に帰還していたが、その肩には、借りた種籾の代金と、税の滞納分という、目に見えない重石が乗っていた。
「勝っても負けても、米は蒔かねばならねぇ」
源蔵のその一言で、村人たちは再び鍬を握った。戦争は、確かに遠い海の向こうの出来事だったが、その代償は、この足元の土を介して、人々の生活に深く食い込んでいることを、十歳の正治も肌で感じていた。
英雄の帰還と影
正治の家は、茅葺屋根が一部崩れかけ、雨漏りが酷かった。源蔵が出征する際、村の組頭から借りた支度金は、すでに使い果たされ、母のユキが内職で編んだ藁細工も、全て借金の利子に消えていた。
源蔵が帰還した日、村は僅かながら賑わった。源蔵の傍らには、十歳になったばかりの兄、太郎が、誇らしげに父の荷物を持って立っていた。源蔵は、日清戦争の緒戦となった豊島沖海戦に参加し、その船が敵艦隊を打ち破るのを見ていた。村の年寄りは、源蔵を「生きた英雄」として祭り上げようとした。
「源蔵、お前は日本の勝利を見てきた。これで、この村も豊かになるだろう!」
しかし、源蔵はほとんど口を開かなかった。彼の眼差しは、海戦の記憶とはかけ離れた、極度の疲弊を湛えていた。彼は、戦場で目にした無数の死、そして兵站(へいたん)の貧しさ、つまり、「国家の力の底知れぬ脆さ」を知っていた。
正治は、帰還した父の身体が、以前よりも二回りも痩せ、背筋が丸くなっているのを見て、戦争とは「輝かしい勝利の裏側にある、人間を消耗させる巨大な飢え」なのだと直感した。
賠償金と税の重圧
勝利の報と共に、村に届いたのは「賠償金」という言葉だった。清国から巨額の賠償金が入る。これにより、国家は豊かになり、国民の税負担も軽くなるはずだと、役場の役人は説明した。
「これで、お前たちも安泰だ。兵隊の血は、決して無駄にならぬ」
しかし、現実の帳簿は残酷だった。戦時中に増税された地租(土地税)や、新たに課された雑税は、戦後も全く減る気配を見せなかった。
「賠償金はどこへ行ったんだ! 勝ったんじゃねぇのか!」
父源蔵が、珍しく役場の戸口で声を荒げた。役人は、眉間に皺を寄せ、冷淡に言い放った。
「賠償金は、軍備拡張と国家の近代化に使われる。お前たちのような農民の生活に直結するのは、もう少し先だ。それよりも、滞納分を早く納めねば、土地が召し上げられるぞ」
正治は、この時、「国家の勝利と、個人の生活の豊かさは、全く別のものだ」**という、最初の大きな矛盾を心に刻んだ。国家が勝利しても、自分の腹は満たされない。土地の税は重く、屋根の雨漏りは直らない。
三国干渉の衝撃と「臥薪嘗胆」
屈辱の日と怒りの沸騰
1895年4月23日、村に届いた次の報は、春の穏やかな空気を一瞬で凍りつかせた。
「三国干渉」。
遼東半島という、兵士たちが血を流して手に入れたはずの領土を、ロシア、ドイツ、フランスの三国が共同で圧力をかけ、日本は清国に返還せざるを得なくなったというのだ。
掲示板の前に集まった村人たちは、静まり返っていた。誰もが、何かの冗談か、役人の読み間違いだと思った。しかし、役人が声を震わせながら、新聞の内容を読み上げると、一斉に怒りの叫びが沸き上がった。
「なんだと!ロシアの横暴だ!」
「我々の血と汗の結晶を、あいつらが奪ったのか!」
この怒りは、単なる政治的な憤りではなかった。それは、「兵隊として命を懸け、貧しさの中で税を納め続けた、その全ての苦労が踏みにじられた」ことへの、個人の屈辱だった。
伊藤博文への不信と憎悪
怒りの矛先は、内閣総理大臣伊藤博文に向けられた。新聞の論調は、伊藤がロシアの要求に対し「弱腰」な姿勢を示し、抵抗せずに領土を返還したと非難していた。
「伊藤総理は腑抜けだ! 勝ち戦で、なぜロシアに怯える必要がある!」
正治の父、源蔵は、この日、酒に酔い、庭先で大声で叫んだ。
「戦場では、勝利した者が全てを得る。なぜ、日本の宰相は、その勝利を放棄した! あれは、武士の血を持たぬ、臆病な文官だ!」
この日以降、村人たちの会話の端々には、「文官政治の弱さ」と「軍部の強さ」という対立軸が生まれた。兵士の血と命の重さを理解できない、知識と打算だけで動く文官への不信感が、農村の隅々まで染み渡っていった。
正治は、この感情的な熱狂の中にいても、冷静な疑問を持っていた。
(なぜ、勝ったのに、戦争ができないのだろう? ロシアは、本当にそれほど強いのだろうか?)
彼の心は、村人たちの単純な怒りとは裏腹に、「国家の真の強さとは何か」という、より深い問いを探り始めていた。
臥薪嘗胆の精神
そして、この屈辱を機に、村の精神的な支柱となったのが、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という言葉だった。
役場の掲示板には、役人ではなく、村の教育熱心な老人が書いた、力強い筆跡の「臥薪嘗胆」の四文字が貼られた。
「我々は、遼東の屈辱を忘れてはならない。今は、薪の上に寝て苦しみに耐え、苦い肝を嘗めて復讐の機会を待つ時だ」
この言葉は、村人たちの生活の苦しさと、未来への希望のなさを、全て**「ロシアへの復讐」という、一つの大きな目標に昇華させた。
• 貧しさ: 「これも、復讐のための我慢だ」
• 重い税: 「軍備拡張のために、喜んで納める」
• 農作業の過酷さ: 「これも、臥薪嘗胆の修行だ」
正治にとって、この「臥薪嘗胆」の精神は、村全体を支配する強烈な宗教のようなものだった。それは、個人の苦しみを正当化し、復讐という感情的な目標へと向かわせる、抗いがたい熱狂だった。
文と武の対立軸
徴兵の恐怖と期待
秋になり、次の徴兵検査の季節が近づいた。日清戦争の終結にもかかわらず、軍部はロシアへの対抗心から、陸軍の規模拡大を公然と要求していた。
正治の兄、太郎は、徴兵の対象年齢に近づいていた。母のユキは、毎晩、神棚の前で手を合わせていた。
「もし、また戦争になったら…」
源蔵は、太郎に向かって言った。
「太郎、もしお前が兵隊になるなら、強い軍隊に入れ。そして、文官の弱腰のせいで屈辱を味わうことのないよう、日本を強くするのだ」
村人たちは、徴兵を「復讐のための血の提供」と見なしていた。彼らにとって、軍隊は、自分たちの「臥薪嘗胆」の意志を体現する、清廉な存在だった。
知識への渇望
そんな中、正治は、一人、この熱狂から離れて、本を読んでいた。彼は、村の教育熱心な老人の家で、明治時代の啓蒙思想家の本を借りて読んでいた。
「戦争は、金と知恵と、そして強い工業力によって決まる」
本には、そう書かれていた。村人たちが信じる「武士の精神」や「根性」だけでは、列強には勝てないという現実が、冷徹に語られていた。
正治は、父の言葉「武士の血を持たぬ、臆病な文官」という罵倒を思い出した。
(もし、伊藤総理が、単なる臆病者でなく、何か別の理由で戦争を避けたのだとしたら?)
(もし、本当に戦争をすれば、日本が勝てないことを、あの文官は知っていたのだとしたら?)
正治の心に芽生えたのは、「感情」ではなく「知識」によって、国家の真の強さを理解したいという、強い渇望だった。彼は、村の熱狂的な復讐心から距離を置き、「文の力」こそが、故郷の貧しさと、国家の屈辱を同時に救う唯一の道だと信じ始めた。
文官への希望と誓い
正治は、自分の進むべき道を定めた。それは、父が望んだ軍人の道ではなく、「文官」として国家の根幹を担う道だった。
彼は、荒れた自宅の柱に、太い釘で、自分自身の誓いを刻んだ。
「知識と合理性をもって、この国の土の重さを変える」
それは、感情的な復讐を誓う村人たちの「臥薪嘗胆」とは、全く異なる、冷静で知的な、彼の個人的な誓いだった。
正治の故郷、長岡村の土は、日清戦争の勝利と三国干渉の屈辱という二つの激しい感情の波に洗われ、「ロシアへの復讐」という単一の感情に凝り固まっていた。正治は、その熱狂の檻から抜け出し、「東京の知恵」と「文官の論理」によって、故郷の貧困と国家の未来を変えることを誓ったのである。
この貧しい農村の土と、冷徹な知識への渇望こそが、後の大正・昭和の時代、彼の人生の、そしてこの世界の針路を決定づける基盤となった。
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