第九の冬至
不思議乃九
第九の冬至
■失われた時間の加速装置
十二月の深夜。外界の音を全て吸い込んだかのような冷気に満ちた部屋で、男は小さな端末の画面を見つめていた。唇のひび割れを誤魔化すように塗ったリップクリームの僅かな油分が、寒さで硬直した皮膚に馴染む。45歳。夢はとうに過去の遺物となっていたはずなのに、彼は今、誰も見向きもしなかった手慰みの創作によって、初めて世間からの光を浴びようとしていた。
取材依頼の電子メールには、彼の創作の異様さが綴られていた。「異常な筆の速さ」「常識を逸脱した創作ツール」。求められているのは、この爆速筆記生活を支える理論の言語化——「現実的でありながら、普通では不可能な理論」の提示だった。
男は、冷えた珈琲を飲み干し、決意した。この、たった四つのツールと、四十代半ばの男の執着が築き上げた異端のシステム、その全てを晒す。
第一部:辞書駆動型無意識創作の錬金術
男の創作の舞台は、アップル純正の**「メモ」**アプリであった。それは、余計な装飾、機能、集中力を乱す設定が一切存在しない、「無抵抗の受け皿」である。思考と指先が、最も直接的に結びつくための、裸の空間。
しかし、爆速筆記の心臓部となるのは、純正の**「ユーザー辞書」**の極端な利用だった。
1. 感情とシチュエーションの圧縮コード
男は、ユーザー辞書を単なる単語のショートカットとしてではなく、**「感情と情景の短縮回路」**として再定義した。
* 「孤独な夜明け、冷たい光が彼の部屋を包み込む」→ y k
* 「諦めと、それでも残る微かな希望が、彼の胸でせめぎ合う」→ k s
複雑で、五秒のタイピング時間を要する一連の描写や感情の機微を、彼は指のわずか二打、あるいは三打のコードに凝縮した。これは、物理的なタイピング量を極限まで減らすための行為ではない。これは、思考の遅延を許さないための、言葉の瞬間移動であった。
> 「文字を打つ速度が、思考の速度に律速される。このボトルネックを排除しない限り、人は頭の中で描いた速さで文章を紡げない。」
>
男の創作論は、この物理的な限界を突破するための、チートコードをデバイスに埋め込む行為に他ならなかった。指はショートカットコードを叩き、脳は次に展開すべき物語だけに集中する。指の動きが思考から完全に解放され、アウトプットは思考の痕跡そのものとなる。
2. 構文の高速パッチワーク
さらに彼は、小説における頻出する「構文の骨格」までもコード化した。
* 「彼は静かに立ち上がった。そして、窓の外に目を向けた。」→ t a t e
* 「その出来事は、彼にとって一つの転機となったが、同時に深い傷を残した。」→ t n k
物語のフレームワークを、ショートカットによって瞬時に構築する。これにより、執筆は「文字を並べる作業」ではなく、「ショートカットという設計図を高速で繋ぎ合わせ、その隙間に新しい言葉を流し込む高速なパッチワーク」へと変貌する。
3. 補完ツールの役割:流れの死守
ストアで購入した辞書アプリと暗記カードアプリは、この流れを絶対に止めないための護衛役を担う。
* 辞書アプリ(即時性の担保): より的確な語彙、より美しい比喩が必要になったとき、思考の流れを止めることなく、瞬時にアプリを呼び出し、確認する。これは、**「知識の即時注入」であり、「流れの停滞」**という執筆における最大の敵を排除するための装置である。
* 暗記カード(設定の絶対化): 創作初期に決定したキャラクターの固有名詞、複雑な世界設定、過去の重要な出来事を暗記カード化する。「あの時、彼は何を言った?」「この場所の名前は?」という迷いは、アウトプットの速度を0にする。カードアプリは、その迷いを瞬時に0にする**「絶対の真実」**を保持するための外部データベースであった。
第二部:アクセシビリティの身体化と時間の逆説
男の理論は、単なる辞書利用に留まらなかった。彼はデバイスの設定、とりわけアクセシビリティ機能を、自らの創作システムと肉体的に一体化させるために利用した。
1. 予測変換への能動的な介入
純正キーボードの予測変換は、男にとって、デバイスに思考を学習させるための教師であった。彼は、物語の展開の核となる一文や、新しい造語を、意識的に何度も繰り返し入力した。
これにより、予測変換は受動的な候補提示機能ではなく、男の思考の癖と物語の文脈を先読みし、「次に打つであろう言葉」を強制的に誘導する装置へと変貌した。指の動作は、ショートカット(二打)から、予測候補の**「一打の視認とタップ」へとさらに短縮される。彼の脳が文章の後半を構築している間に、前半はデバイスが半自動的に完成させるという、人間と機械による「アウトプットの並列処理」**が実現した。
2. 背面タップ:物理的なコンテキスト切り替えの0化
iPhoneの**「背面タップ」**機能。これは、彼にとっての「思考のシームレス化」の鍵であった。
* ダブルタップ:辞書アプリの瞬時な起動。
* トリプルタップ:執筆中の作品の「設定ファイル」(暗記カードのリンクなど)への直接ジャンプ。
画面上のボタンを探すわずかな「眼球の移動時間」さえも、男は排除したかった。画面から目を離さず、デバイスの背面を叩くという、直感的で、意識の外にある動作により、彼は常に物語の文脈の中に意識を留め続けることができた。これは、**「身体化されたテクノロジー」**であり、デバイスが思考の拡張機能として、彼の肉体と一体化した瞬間であった。
3. 読み上げ機能:高速出力への人間的な校正
高速で出力された文章は、時にリズムや整合性を欠く。彼は、書き上げた直後の文章の一部を、**「画面の読み上げ」機能で聴覚的に確認した。目で追う校正は、思考の速度に慣れすぎて違和感を見逃しがちだが、耳で聞くことで、目では見えない「文体の音響的な歪み」**を瞬時に感知する。
爆速で築き上げた構造体に、人間的な「間」と「音の感触」を与えるための最終工程。これは、加速と、品質維持という、通常は両立し得ない二律背反を解決するための、最も効率的な手段であった。
第三部:時間の逆襲と純文学的葛藤
男がこれほどまでに「速度」に偏執する背景には、45歳という年齢、そして、長きにわたり夢を叶えられなかった**「失われた時間」**への強烈な負い目があった。
若い頃、彼は、ゆっくりと、練り上げ、選び抜かれた「最高の言葉」で文章を紡ぐことに価値を見出していた。しかし、その「最高の言葉」を探す時間は、彼から「完成」という実体を遠ざけ、結局、一つの作品も世に出せないまま、四十代を迎えてしまった。
> 「美しい一文のために、十日を費やす。それは、小説家になるためではなく、小説家になることを諦めるための言い訳であった。」
>
彼のシステムは、この過去の自分への、強烈な反発から生まれた。
1. ショートカットへの傾倒の理由
彼がユーザー辞書によるショートカットに深く傾倒したのは、それが**「過去の失敗と、現在の時間との妥協」**の象徴であったからだ。
若き日、彼は「熟考」を武器としていたが、今、彼は「思考の即時性」を武器とする。膨大な言葉のショートカットは、彼にとって、**「もう二度と時間を無駄にしない」**という強迫観念の具現化であった。
爆速筆記は、単に速く書くことではない。それは、過去に浪費した時間を、現在、**デバイスの力を借りて取り戻そうとする、壮絶な「時間の逆襲」**の試みであった。
2. 匿名性への逃避と集中
彼が、自身の作品を特定の場所、特定の時間、特定の人間関係に紐づけず、匿名性の高いネットの片隅で、しかもiPhoneという個人的なツールだけで書き続けたのは、失敗を重ねた過去の自分と、世間の目から逃れるためであった。
iPhoneのメモアプリは、彼にとって「誰にも見られない告解室」であり、ユーザー辞書は「過去の自分を切り捨てるための刃」であった。この密室での高速創作は、彼の**「もうこれで最後にする」**という切迫した精神状態と完全に同期していた。
■インタビューへの返信
男は、これら全ての理論と背景を統合し、簡潔に、しかし強烈な言葉で締めくくる。
「私の爆速筆記は、特殊な才能ではなく、テクノロジーと人間の認知を極限まで融合させた、『加速された認知システム』です。その核心は、時間を奪われた45歳の男が、デバイスの力を借りて、失われた時間を一秒でも多く取り戻そうとする、切実な試みにあります。」
私の創作論は、徹頭徹尾、**「思考の邪魔をしない」**ことを至上命題としています。この「辞書駆動型無意識創作」こそが、私がこの異様な速度で小説を書き続けるための、唯一無二の、そして孤独な現実的な理論です。
(以下、先の技術論へ接続)
1. なぜ純正メモアプリなのか?
メモアプリの最大の利点は、「無抵抗性」です。(中略)アウトプットの連続性を担保します。
2. 爆速を可能にする「ユーザー辞書駆動」の核心
(中略)これは、思考の発生と同時に、その思考に対応する**「圧縮コード」**を指が入力しているのです。(中略)私が書いているのは、文章ではなく、思考の痕跡そのものです。
3. 補完ツール(辞書アプリ・暗記カード)の役割
(中略)迷いは執筆速度の最大の敵です。「迷う時間」を削ることが、結果的に筆の速さへと繋がります。
4. アクセシビリティ設定による深化
(中略)私は、予測変換を能動的に学習させ、**「アウトプットの並列処理」を実現しています。また、背面タップによる「物理的なコンテキスト切り替えの0化」**は、私を常に物語の中に留め置くための技術です。
男は、全ての理論が、彼の内面から導き出された必然であることを確認した。送信ボタンを押す。
キーボードの小さな光だけが、乾き切った静かな部屋を照らしていた。
【了】
第九の冬至 不思議乃九 @chill_mana
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