力を持たない支配者
大黒
力を持たない支配者
目の上のたんこぶだった。
あいつが、まだ生きている。
世界の闇社会を牛耳る三大マフィア組織の一つ、「ヴィスコンティ・ファミリー」の頂点に君臨する男、ヴィンチェンツォ・ロッシは、その日、護衛をわずか三人しか連れていなかった。
相手は――
もはや組織から身を引いて十年以上、何の力も持たない、引退した老人に過ぎないはずだった。
ヴィンチェンツォは今や、ニューヨークからローマ、香港までを網羅する闇のネットワークを握る絶対的なボスだ。
麻薬ルート、武器取引、政界への浸透――すべてが彼の掌中にあった。
かつての組織は地方の小さなファミリーに過ぎず、血みどろの縄張り争いで生き残りを賭けていた時代。
その中心にいた男が、今はイタリアの田舎に隠遁しているという。
未舗装の細い道を黒いセダンが進む。
周囲はオリーブ畑が広がり、遠くに古い石造りの村が見える。
粗末な一軒家がぽつんと佇んでいた。
壁は風雨に晒され色褪せ、屋根瓦は歪み、庭は雑草に埋もれている。
かつてのボス、アントニオ・ヴィスコンティの、余りに惨めな隠居先。
「……ここか」
ヴィンチェンツォは鼻先で笑った。
あの男が築いた基盤を、自分が奪い、拡大した。
裏切りと野心で頂点に上り詰めた自分にとって、あの老人は最後の障害――いや、ただの亡霊のはずだった。
護衛の一人がドアに近づく。
ノックするまでもない。鍵はかかっていなかった。
室内は薄暗く、静まり返っていた。
テレビもラジオもなく、壁には古い家族写真が一枚だけ。
埃っぽい空気の中に、かすかなオリーブオイルの匂いが漂う。
古びた木製の椅子とテーブル。
その向こう、窓辺に――老人がいた。
痩せ細った体躯。
白髪交じりの頭。
安物の開襟シャツに、古いズボン。
アントニオはゆっくりと振り返った。
「久しぶりだな、ヴィンチェンツォ」
その声は、昔と変わらぬ低く落ち着いた響きだった。
声をかけた瞬間、ヴィンチェンツォは後悔した。
目が、合った。ただそれだけだ。
――時間が、凍りついた。
空気が、重く淀む。重力で空間がぐにゃりと曲がるようなそんな感覚を受けた。
胸の奥が、強く締めつけられる。
(……違う)
ヴィンチェンツォは悟った。
俺はこの感覚を知っている。
若い頃。
組織がまだシチリアの小さな街を支配するだけの時代。
血気盛んな若者たちが、簡単に銃を抜き、裏切りが日常だった時代。
その中心に、常にあった視線。
判断は迅く、声を荒げることもなく、
それでいて、誰も逆らえなかった男。
一言で人を生かし、殺し、組織をまとめ上げた伝説のボス。
アントニオは、ヴィンチェンツォを育てた一人だった。
野心を認め、幹部に引き上げ、
やがてその座を譲る形で引退を宣言した。
だがヴィンチェンツォは知っていた。
引退は表向き。
裏で糸を引いていたのは、あの老人だった。
そして今、自分がすべてを奪った。
殺すつもりで来た。
この視線を永遠に消すために。
「……随分、大きくなったな」
アントニオが言った。
ただ、それだけ。
だがその一言で、ヴィンチェンツォの喉は塞がった。
全身から、冷や汗が噴き出る。
今や世界を動かす力も、金も、人も、すべて自分のものだ。
護衛の三人も、銃を握りしめている。
一瞬で終わらせられる。
なのに――
足が、前に進まない。
「……なぜ、こんな場所にいるんです」
ようやく絞り出した声は、情けなく震えていた。
アントニオは立ち上がろうともせず、
椅子に深く腰を沈めたまま、窓の外へ視線を投げた。
外には、穏やかなオリーブの木々が揺れている。
「ずっと……」
ゆっくりと、言葉を紡ぐように。
「この世界を、上から見てきた」
「権力の頂点で、人を動かし、血を流させ、
すべてを支配してきた」
「だから今は、下から見ている」
「何も持たず、何も失うものもなく、
ただ、風に吹かれるだけだ」
ヴィンチェンツォは、何も返せなかった。
殺せばいい。
それだけのはずだった。
この老人が生きている限り、自分の権力は完全ではない。
過去の影が、常に付きまとう。
だが今、ここで引き金を引けば――
自分は一生、この視線から逃れられない。
あの時代に学んだすべて、
野心の源泉となった畏怖と敬意が、
今も胸の奥で疼いている。
蛇に睨まれた蛙。
どちらが蛇で、どちらが蛙か、
もう分からなくなっていた。
ヴィンチェンツォは、静かに頭を下げた。
「……失礼しました」
アントニオは何も答えなかった。
ただ、再び窓の外へと視線を戻した。
外の世界は、今日も穏やかに続いていた。
闇の帝国は、遠くで蠢いている。
だがここでは、ただ風が吹くだけだ。
ヴィンチェンツォは踵を返し、家を出た。
護衛たちが不思議そうに後を追う。
車に戻り、エンジンをかける。
道を走り出す。
後部座席で、ヴィンチェンツォは目を閉じた。
あの視線が、背中に刺さるように感じた。
永遠に。
力を持たない支配者 大黒 @lucky3005
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