予告編

塩見佯

第1話

 怪獣なら見たことがあるんだよね、とIさんが言った。

 驚いた。Iさんとは飲み屋の常連仲間であり、かれこれ七年ほどの付き合いになる。年齢も近く、行き会えば一緒に飲むし、新店が出来れば一緒にひやかしに行ったりするような仲である。僕が奇妙な話をささやかに収集していることも知っているし、何かかわった話があれば教えてほしいとも伝えてあった。だが、自分には縁がないね、とこれまでは語ってくれることはなかった。それが今になって急にである。それもまさかの「怪獣」とは。

「……怪獣って、あの?」

「うん。ウルトラマンとかゴジラとかの」

 聞き間違いではないらしかった。なるほど。僕は二人分の酒のおかわりを頼んで、Iさんを促した。以下はIさんから聞いた話である。


   ■


「最初は七歳の頃なんだけどね」

 Iさん一家は両親と兄との四人家族で、Iさんが小学生に上がったのを期にそれまで住んでいたアパートを出て、近場のマンションに引っ越したのだそうだ。

 そのマンションは一年生の終わりに、母親が酷い事故に遭って引っ越したため、実質一年も住んではいない。だからそれを見たのは七歳で間違いがないということだった。

 その日、Iさんは学校から帰るところだった。友達と遊ぶ約束をしており、ランドセルを置くためにマンションへ向かう坂道を登っているとき、それは現れた。

「坂の上の道を左からすうっと出てきて、すうってきれいに90度曲がって、こっちに向かってすーって下りてくるんだよね」

 一見して奇妙だった。遠目には真っ黒に見え、形は着ぶくれした人のようだったが、道路標識ほどの高さがあったという。だから自動車や犬といった獣でもないし、何より音が一切しなかった。

 なんだあれ、といぶかしみつつ見ているうちにそれはこちらに近づいて来る。

 そして、音がしない理由がわかった瞬間、Iさんはマンションへ向けて全力で走っていた。

「浮いてたんだよね、板みたいなのに乗って」

 鈍く光る板状の物体が地面から三十センチほど浮いており、滑るようにそれは坂を飛んでいたのだ。

 また距離が近づくにつれ、上に乗っているものの姿も目視で確認できるようになった。それは二足で立ち両の腕があり、全身を長い毛に覆われていて、頭部には毛の隙間から巨大な目が覗いていた。その姿がIさんには心当たりがあった。家にあった怪獣図鑑で何度も見たそれは、

「【ウー】って、わかる?」

「……雪男?」

 知ってるねえ、とIさんは嬉しそうに笑った。

「あれの黒いバージョンだったんだよね」

【ウー】といえばウルトラマンなどに登場する雪男の怪獣である。雪山に住み、巨大で、心やさしいとかなんとか。少なくとも東京の町中にUFOに乗って登場するものではないし、なにより色が違う。あまりにも情報が多い。

 だが僕は口から出かける様々な突っ込みを飲み込んだ。Iさんはこんな手の込んだ冗談を言う人ではないし、この話には気掛かりな点がいくつかあったからだ。僕はIさんを促した。

「で、その後はどうなったんです?」

「俺は隠れて見てたんだけど、そのまま坂をすーって下りて、どっか行っちゃった」

 後日、家族や友人にさりげなく尋ねてみたそうだが、【ウー】を見た人はいないとのことだった。Iさん自身もその後【ウー】を探し回ったが、当然ながら痕跡ひとつ見つけることはできなかった。また前述のとおり、すぐに引っ越してしまったため詳細はわからずじまいだという。


   ■


 話終え一息をついたIさんに僕は一番の気掛かりを尋ねてみた。

「あの、最初はって言ってましたけど、他にも見たことがあるんですか? 怪獣」

「うん。あと二回ね」

 Iさんは事も無げに言うとグラスを再び口に運んだ。


   ■


 二回目は高校三年生の頃。

 早くに母親を亡くしたIさん一家は、父親の仕事や利便性の問題もあり、都心にある母親の実家で祖父母と暮らしていた。地名を聞けば誰もが知るような場所だったが、けして裕福なわけではなく、実家も癖のある立地なのだそうだ。

「道は狭いし隣は寺で裏は墓地でさ、その上ひどい旗竿でね。道路からは露地でうちに繋がってる」

 二体目の怪獣はその露地に出現したのだという。

 高三の五月。Iさんは受験に加え、部活の最後の大会に向けて追い込みに入っており毎日を忙しく過ごしていた。その日も部活を終えての帰宅で、時刻は七時近くだった。暮れているとはいえ、まだ空には明るさが残っていた。もうすぐ家だというところで、露地の奥から何かが走って来るのが見えた。

 露地の奥にはIさんの家しかない。時間的に家族とは考えづらく、最初は宅配便かとも思ったのだが、近くに配達の車は停まっていなかった。

 いったい誰だろう、とぶらぶら家に向かっていたIさんは驚愕のあまり足を止めた。

 露地を飛び出してきたそれの全身は黒く、手足は長く、頭は「ニット帽を被ったみたいな形」で細長く、巨大な目が光っているように見えた。

「【ケムール人】だったんだよね、そいつ」

 Iさんは力無く笑った。当時も自身の正気を疑ったが、横を駆け抜けていったときの質量や、その目の鈍い光、なんとも言えぬ嫌な感じをはっきりと覚えているという。長身のIさんより頭二つほど大きかったというから、身長は二メートルは超えていたと思われる。

「あんなに怖いと思ったのははじめてだったんだよね。なにかされた訳じゃないんだけど、とにかく死ぬほど怖かった」

 呆然としているIさんを置いて、【ケムール人】は凄まじい速さで薄暗い町を駆け抜け、消えてしまった。

 慌てて家に帰ったIさんだったが、在宅していた祖父母にも家にも特に異常はなかったという。暫くは警戒し、緊張した日々を過ごしていたIさんだったが、数日後に父親が仕事の出張先で倒れそのまま亡くなったため【ケムール人】どころではなくなってしまったということだった。


   ■


 Iさんはグラスに残っていた酒をあおった。

 僕はおかわりを頼んでから、失礼ですけど、と前置きをして尋ねた。

「ご家族ってどうされてるんですか?」

 だいたい死んだね、とIさんは言った。

「実家は兄貴がいると思うけどよく知らない。他はまあ、うん、みんな死んだね」

 言葉を失った僕の方を見ることなく、Iさんは言った。

「で、次なんだけど」


   ■


 三度目は大学三年生の頃。

 Iさんはその日やることもなく、実家の居間でテレビを眺めながらごろごろと怠惰に過ごしていた。

 窓の向こうでは祖父が趣味の園芸に勤しんでいた。狭くはあったが小木や鉢植え、盆栽などが整然と並び、うつくしい庭だったという。晴れの日に庭いじりをする祖父の姿はIさんの家の日常の風景だった。

 だがその日はなにか違和感があった。

 なんだろうと庭を見回してみると、それはいた。

 塀の向こう側から何かが祖父をじっと見つめていたのだ。

 Iさんの家の裏は墓地である。視界を遮るために土を盛りその上に塀を作ってあるうえ、墓地の側は一段低くなっているため、地面からは二メートル以上の高さがある。また、踏み台を置くようなスペースもないため、墓地の側からIさんの家を塀越しに見下ろすことは困難だった。

「だから三メートルくらいあったんじゃないかな」

 頭も目も全体的に細長く、黒くくすんだ鉄色の肌に目は赤黒く光っていた。

「【にせウルトラマン】が祖父さんを睨んでたんだよね」

「【にせウルトラマン】!?」

 さすがの僕も思わずオウム返しに突っ込んでしまった。

【にせウルトラマン】は名前の通り、悪の宇宙人が変装した偽物のウルトラマンである。ヒーローものに一度はある、偽物が現れる回のあれだ。本物とは微妙に色や造形が違い、安っぽく、目付きが悪く、邪悪である。

 Iさんが笑った。

「バカみたいだよね。でも、いたんだよ」

 不思議だったのは数メートルの距離にいた祖父に気づいた様子がないことだった。異常なものが、凄まじい顔で自分を睨んでいるのに、まったく変わったところがない。

 Iさんは窓を開けて祖父に声をかけた。どうかしたか、と祖父がこちらを向く。その頃には【にせウルトラマン】は消えていた。当然のように、祖父は塀の向こうにいた何者かには気がついていなかった。

 数日後、祖父は玄関で倒れ、そのまま病院に運ばれると、二度と家に帰ることはなかった。


   ■


 これで終わりだというように、Iさんがグラスを口に運ぶ。

 僕も合わせて酒をあおった。

 これで終わりなわけがなかった。聞いておかなければいけないことがいくつもある。

 Iさん、と僕は尋ねた。

「なんでいま、この話をしてくれたんですか?」

 すでにIさんとは数年来の付き合いである。ある程度は気心の知れた仲といっていいが、そこは酒場の付き合いだから、本人が話さないことは聞かないのが暗黙のルールである。

 これほどの奇妙な話を持っていながら、いままで話さなかったのには何か理由があるはずで、また、いま話してくれたことにも何かしら意味があるはずだった。

 Iさんは両手で抱えたグラスをじっと見ている。

「この前さ、Sさんもいたときに言ってたでしょ? 同じようなものになるのは脳に防衛本能があるんじゃないかって話」

「……あ、置き換えの話ですか」

 それは先日、Iさんを含めた数人で飲んだときの話題だった。人は理外のものを見た際、脳の防衛本能として、理解できるものに置き換えて記憶するのではないかという話である。

 われわれは時に得体の知れない理外のものに出会う。だがそれは理外のものであるが故に、われわれは正しく認識することも、理解することもできない。また正しく認識してしまえば、その負荷にわれわれの正気は耐えられない。だから脳の防衛本能として、理解可能なものに置き換えて認識しているのではないか。だから、怖い話に黒い影や白いワンピースの女が大量に登場するのではないか。そんな話である。

 なるほど。それならば多少は合点がいく。おそらくIさんは僕の話を契機として、自分の記憶に疑いを持ったのだろう。これまでに見た三体の怪獣。それはIさんの脳が、自分が理解し耐えられるように置き換えたイメージなのではないか。そうだとするなら、自分は実際は何を見たのか、見てしまったのか。あれはいったい何だったのか。

 僕の何気ない話が、Iさんの古い記憶を新しい恐怖に変えてしまったということなのだろう。悪いことをしたな、と思う。思うが、まだ弱い。何故いま話をしたかの答えにはなっていない。少し悩んだが、僕はIさんに問いかけた。


「Iさん、最近なんかありました?」


   ■


 一昨日の話だという。

 Iさんは仕事で海沿いの道を車で走っていた。仕事の日はほぼ毎日往復する慣れた道である。天気もよく、行き交う車の量も少ない。Iさんはぼんやりと海を眺めながらドライブを楽しんでいた。

 いつもと変わらないのどかな景色だったが、ふいに、Iさんは前方の海上になにか黒いものがあることに気がついた。昨日まではなかったものだ。

「最初はブイなのかなと思ったんだよね」

 だが、ブイにしては大きすぎた。海上のことゆえ正確な大きさの判断は難しかったが、向こうに見える島から判断するに十メートル以上はゆうにあるだろう。自衛隊の船かとも思ったが、距離が変わっても細長いままだった。むしろ近づくにつれ、その黒いものに手足があるように見えてくる。色もただの黒というよりは、そこだけ色がない、というような漆黒。

 距離が近づいていく。

 手足は人に比べて妙に長く、頭があった。

 さらに近づく。

 頭には巨大な目があった。ふたつ。

 近づく。

 その目ははっきりと、Iさんを見つめていた。

 Iさんはアクセルを全力で踏み込み、法定速度など気にする暇もなくその場から逃げだした。


   ■


「今度は何の怪獣だったんですか?」

 僕はIさんに尋ねたが、Iさんは空のグラスを見つめたままだった。

「……怪獣じゃないんだよね。考えても考えても、あれに似た怪獣なんていないし、ネットも調べたんだけど、似たものなんて出てこなかった」

「いや、Iさんが大人になってちゃんと認識できるようになったってことかも知れませんよ」

 僕は言ってから何の解決にもなっていないことに気がついた。

 置き換えが起きていようがいまいが、それがまたIさんの前に現れたことに変わりはない。それも防衛本能が働かなかったのか、防衛本能を突破したのかは不明だが、今回は、おそらくより正しい形で認識してしまっている。そして、何よりはっきりと「目があった」ということ。

 ねえ、とIさんが言った。次は俺の番ってことなのかねえ。

 僕は何も言えず、自分のグラスをただじっと見つめていた。

 僕を見るIさんの目は大きく見開かれ、震えるように光って見える。


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