ルフトハンザ南極便

机カブトムシ

総統閣下肝いりの南極航路

1944年12月13日

 ついにメイヤーは南極に到達した。これほどハンザ航空会社ルフトハンザに入社してよかったと思うことはない。この景色に比べたらイワンどもと本国でやってる戦争なぞ、ちっぽけなものなのだろう。このカタパルトと飛行機を積むような船が豆粒ほどに見える大きさの雪山が、視界の端から端まで埋め尽くして…


「マメだな、エックハルト」

 またウーヴェだ、面倒な奴め。

「こういうのが売れるのさ、俺達は今一番南にいる人間なんだぞ」

「また俗っぽい、もうフライトが始まるからな。それを伝えに来ただけだ」

 この男は、完璧だ。金髪碧眼で長身、なんでもそつなくこなして着水も旋回も俺よりずっと上手だ、空軍ルフトバッフェでも親衛隊シュッツシュタッフェルでも好きなところに行けただろう。

 

 だが、この男はこんなところにやってきて私の仕事を半分にした。価値もな。

「わかった、今行こう」

 

 この船、メイヤーには四十人が乗っている。私が船室から上がった時には四十人のほとんど、三十数人は船のケツに集まっていた。雲は過ぎ去ったが、まだ薄く雪が降り積もっている。

 綺麗なのは発射器カタパルトと飛行艇くらいだ。


 奴、ウーヴェが学者を乗せて南極に飛ぶからだ。私は奴の補欠要因でしかない。この極は美しいが実のところ死地だろう。砲弾が飛び交う戦場より幾分かマシではあろうが、彼は命を落とすかもしれないことは変わらない。


「死ぬなよ! ウーヴェ」

「当たり前だ」

 ウーヴェは友達だ、俺より何もかも勝っていても。


 発射器カタパルトで火薬が爆ぜる。ウーヴェの飛行艇、ノイヴァルは寒空へと飛び出した。六時間ほどの予定だ。南極点に到達した英国の探検隊は生きて南極を出ることはなかった。ノルウェーのアムンセン隊だけが南極点を踏み、帰ってきた。


 ノルウェーは今やドイツの一部だが、総統閣下は満足していない。ドルニエ社の連中にイカれたソリ付き飛行機を作らせてまで南極に旗を刺したがってる。今では英国まで南極が自国の物だと主張しているしそうしたくもなるか。でもなあ……。


 ノイヴァルは最低の飛行艇だ、私が今まで乗ったなかでもっとも操縦が難しい。そんな最悪なじゃじゃ馬は今私の前で美しく舞っている。ウーヴェの手によって。


 ウーヴェの白と黒の飛行艇は高度を上げ、南極の崖の上へと飛んで行った。氷雪が作った高い地平線は、すぐに機体を覆い隠してしまった。


「さっすがだよなあ。難しいんだろ?」

 ブラウンな長髪と丸メガネの男、オスカーは俺にそう話しかける。

「ああ、とんでもなくだ。死ぬほど揺れるだろうが文句言うなよ?」

「言わないさ、だって僕は操縦もできないもの」

「お前なしだと帰ってこれないからな。頼むぞ」

 オスカーも地理学者だ。今回の作戦じゃあ航空士ナビゲーターも兼任する。南極の気象は学者でなけりゃ対応できないからって、贅沢だよなあ。


「エックハルト、オスカー、夜更かしはやめろよ。一回で着陸できるとも限らん」

 伝声管から喧しい声が響く、まったく隊長はなんで俺達が甲板で見物してるって決め付けてくるんだよ。当たってるけど。


「だってさオスカー。寝ようぜ」

「慣れねえなあ」

 南極はこの時期ずっと昼らしい。厄介で仕方がない。



 ああ、こんなちんけな丸窓からも日の光が入ってきやがる。カーテンがあってよかった。おやすみ、綺麗な銀世界と多少はマシな船室。



 おはよう、恐ろしい銀世界と平和な船室。もう日が変わっている。ちょっとした腹ごしらえと確認が終わったらすぐにフライトだな。

 食堂に行こう。そう決めたらとっとと狭い通路を通ってこじんまりした食堂へ向かった。他にほとんど船員は居ない。へぼでもパイロットは客人扱いだ。気楽でいい。


 ふくよかなコックのフランツだけだ。

「遅かったな。オスカーはもう済んじまったぞ」

「時計じゃまだだいぶ早い、あいつがはやすぎるのさ」

「学者さんは生き急ぐからなあ、コミスブロートがいいか?」

「ああ、チーズもつけてな」


 コミスブロート、ライ麦と小麦の混合パン。小麦だけの白パンと比べて、なんか複雑な味がしてうまい気がしてしまうので好きだ。

 カマンベールチーズも本場はもうドイツからフランスに戻ったんだろうか。まあ、食えるならなんでもいいか。


「ほらよ、楽だがこんなもんでいいのか?」

「いいさ、腹に入れすぎると空で催して困る」

「はは、そりゃ困るな」


 火が通った食事が出来るのは今の内だ。柔らかいチーズと硬いチーズは別の食べ物だな全く。柔らかくて、暖かくて、片手が操縦桿で埋まっていないほうがうまい。

 よくわからん複雑な味がしてうまい気がする。それでいいんだ。


 食事が終われば、フライトスーツに着替えて準備だ。手袋、マフラー、ジャケット、こんな極地で甲板に出ても暖かい。飛ぶ前から寒かったら困る。そして、私が甲板に出た後、オスカーは不自然な足取りで甲板に出てきた。

「着替えに手間取ったのか」

「ああ、なれなくてね」

 よく見ると靴の左右が逆だ。道理で。

「靴が逆になってる」

「あほんとだ。まずったな、靴紐結ぶの面倒なのに」


 オスカーが苦戦しているうちにノイヴァルの確認を済ませてしまおう。


 パラシュートに、鉤十字の旗、ショカコーラ、救命胴衣にサバイバルキット。魔法瓶だって問題はない。オスカーがなんとかなればすぐに飛べる。

「ごめん、まだ時間に余裕はある?」

 だいぶあるな、ウーヴェが戻ってきてから飛ぶわけだから。いつごろ戻ってくるだろうか。

「まあな、ウーヴェの機体が戻ってきてからだ。ここで待つか?」

「そうしよう。もうすぐだよね?」

「ああ、そのはずだ」


 南極は相変わらず静かで、雪山の遥かむこうで雲が渦巻いているのが不気味で仕方なかった。


「南極点の周りは氷の砂漠になってる。雪が降らないんだ」

「じゃあ、離陸もしやすいな」

 不気味さは時間と共に不安になった。ウーヴェが戻ってこなければどうしようか。どうするもこうするもない、できることはないのだからそれまでだ。


「ねえ、エックハルト。悪い想像だけど」やめろ。

「やめろ」

 不安が確信になってほしくはなかった。太陽は空をもう半周しようとしている。無事だとしても燃料がもたない。墜落したのなら、凍り付いている。



「エックハルト、オスカー。部屋に戻って今日は休め。第一回は失敗だ」

 伝声管の先の隊長の声は怒鳴るようじゃなかった。どことなく物悲しい。当たり前だ。ああウーヴェ。


 雪雲が船の上を横切って、また雪を残していった。


 ウーヴェは結局、太陽が空を一周しても戻ってくることはなかった。死んだのだ。

「私たちの番か」

「ああそうだね。戻ってこれるといいな」

 

 私達で隅々まで確認したノイヴァルはいつでも飛べる。丁寧に雪を払いのけられた発射器カタパルトは充分元気らしい。

「雪が来る前に飛ばすからな。発射するぞ」

 発射器カタパルトの操作室から隊長がそう言う。

「ねえエックハルト」「喋ると舌噛むぞ」


「5、4、3、2、1、発射」

 爆発音が内臓を揺らし、ノイヴァルは空へ飛び出した。機体が重い。回らない、上がらない。上がらなきゃ雪山にぶち当たって死ぬだけだ。

 

 雪山が迫る。上がれ、上がる!


 南極の上だ、氷と雪の大地だ! 地平線が真っ白い。思ったよりもずっと激しい地形がある。

「アルプスみたいだ。オスカー」

「そりゃあ南極だからな。気流に気をつけよう」

「わかった。大丈夫、アルプスは超えたことがある」

 

 私は窓の外を見た。白と黒の飛行艇は影も形もない。雪に呑まれたか、それとももっと先に堕ちているのか。遭難してしまったのか。それはわからない。

「エックハルト、探してるのか?」

「ああ」

「それなら雪濠だ、僕ならそこに不時着させる」

「雪濠?」

「雪山の麓には雪が溜まるんだ。それが雪濠、クッションになるから他の場所よりもましだ」

「なるほど」


 山のふもとの、雪が積もったところだな。成程、そういえば雪は氷より明るい。明るいところに黒い機体があれば目立つだろう。都合がいい。

 

 嵐にも雲にも出会うことはなく、ただひたすらに平坦な氷の大地、氷の砂漠へあっさりとたどり着いた。

「感慨深くもないな。とっとと旗を差して帰ろう」

「いや、あれが見えるかエックハルト」

 オスカーの指が指す先には、赤い旗が見える。近づかないとわからないがおそらく……。

「高度を下げて旋回する。しっかり旗を確認してくれ」

「もちろん」


 機体を下に傾け、高度を下げる。それだけなら簡単だ。こうして、機首上げと旋回を同時にこなしながら堕ちないのが難しい。

 私は出来る。それだけの腕はある。

「おお、ドイツ国旗だよ。成功したんだ!」


 つまり、ウーヴェ達は成功して帰路で堕ちた。参った、俺達は今から帰路だっていうのに。


 最悪なことに、雪雲だ。迂回する燃料もない。突っ込むしかない。視界はない、優秀な計器に全てを託すことになる。

 雪はキャノピーのガラスに降って視界を遮る。ワイパーもないし、落とせるほど早くもないノイヴァルには致命的だ。雲に入るか。


 雲の中は視界が全くない。高度を上げて雲を抜けよう。ノイヴァルよ、お前のエンジンパワーを見せてくれ。

「上るなら四千だ。雪雲は四千しか上がらない!」

「分かったよ!」

 スロットルを上げ、操縦桿を強く引く。高度計はどんどんその値を増していった。3500、3550、3600……。


 視界は雲の濃い灰色から、徐々に光明へと変化する。分厚い雲の上へと抜け出す。低い太陽、明るい空。高度は4000m。

 チリ一つない青空が辺り一面に広がっていた。

「空だ!」「ああ、青空だ!」


 なんて気持ちのいい場所なんだろうか南極は!


 ……なぜウーヴェは戻ってこなかった? このノイヴァルの性能ならば落ちることはないはず。なにか単なる不運なのか?


 まあ、綺麗な青空だ。帰るだけで終わりなんだもんな。

「エックハルト! 戦闘機だ!」

 

 オスカーの声。機体に走る衝撃。砲弾がノイヴァルを貫き風を切る音。

「クソッ! なんでこんなところに」

 機体をひねって雲の中へと降りる。機体が軽い、いろいろな物が抜け落ちたんだろう。重さが嫌いだったのに、重さが戻ってこないのは恐ろしくてたまらない。


「オスカー! 不時着する。掴まってろよ!」

 機体の中に吹き込む風の喧しい音。彼の声は全く聞こえない。頼むから生きててくれ。そうだ雪濠。山の麓。降りろ。雪が見える。


 機体がガタガタ言う。どれだけ残っている? フラップは、ラダーは。とにかくありったけの操作で山と平行な雪濠に機体を合わせる。


 ぼふん。雪の中に突っ込んだ機体は滑り、衝撃と共に止まった。

「オスカー! ぶじ……か……」

 

 振り向いた時、オスカーは搭乗員席に居なかった。その部分には大穴が開き、そこに着地の衝撃で雪が詰まっている。


 落ちたか、吹き飛んだかはわからない。ただ私は道しるべを失った。パラシュート、防寒着、ちょっとした保存食だけで帰れるのか?


 南極は恐ろしい場所だ。ひとまず、雪雲が去るまで待とう。そうだな、今のうちにノイヴァルの一部でスキー板を作ってみるか。



 青空に太陽はない。山の向かい側に太陽があり、キャノピーに雪が降り積もっている。わずかな装備を片手に私はノイヴァルに別れを告げる。地図がある。雪を踏みしめる。山を登ることはできない。だが、地図によればこの雪濠に沿って行けば海があるはずだ。

 ただ、本当に海に出るかはわからない。なんせオスカーが居ないからな。


 振り向く、夜か昼かわからない間に降り積もった雪はノイヴァルに積もり、ほとんどを覆い隠していた。


 また雪雲が出るまでにメイヤーに戻れなければ私は死ぬだろう。


 降り積もった雪の感触は柔らかい。スキー板なしでは足を取られて歩けもしないだろうな。


 即席スキー板で雪を踏みしめる。誰にも踏まれることのなかった雪は、スキー場よりもずっと柔らかい。これが生死の瀬戸際じゃなきゃなあ。


 時折、ショカコーラを口にする。政府謹製のチョコレートはなんだかんだいつでもうまい。目が覚めるな。


 歩いても景色は徐々に変わっていく。時間をかけながら。ずっと昼の時期なのが好きになるとはな。

 自決用の拳銃はない。もう歩くしかない。ざくざくと雪を踏みしめて歩く。ウーヴェも戦闘機にやられたのか。

「死ぬなよ……」

 英国だろうか。アメリカか……。考え事は良くないな。脳の力を使う。


 ただ歩け。 


 雪を踏め。

 

 足を止めるな。


 ただ歩け。


 雪を踏め。


 ……。


 ただ歩け。


 雪の中で死ぬのか。それって砲弾で死ぬよりずっと辛いんじゃないか。時間をかけて体を凍らされ、雪が私に降り積もるんだ。ノイヴァルのように。


 死んだことも伝えられないんじゃ……考えるな。

 

 雪を踏め。

 

 ……。


 雪を……、海だ。海だ。氷河だ、船だ。メイヤーじゃない。とにかく、それでいいのだ。

「おーい、助けてくれ!」


 船に向かって走る。当分は雪もこりごりだ。カタパルト付きの軍艦、それも英海軍。いや、まさかな。奴らがオスカーやウーヴェの仇じゃないことを祈るだけだ。


 雪は徐々に薄くなり、私が足で踏む先は分厚い氷になっていく。


 軍艦の奴らは私に気が付いたらしい。ボートを降ろしてくれている。

 

 不思議なものだ。もう少し、この降り積もった雪のところに居たい。もし私があの船に乗れば、私の身に降りかかった悲劇は終わる。


 生きるだけで精一杯で、気にする余裕もなかったウーヴェ達やオスカーの悲劇が私の心に襲い来る。私の快い友人たちはおそらく地面に叩きつけられ、その上に雪が積もっている。


 友よ、何処の雪の下に。

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