夏の呪い

狂酔 文架

第1話

 僕を囲む木々が、青く澄んだ空を遮る。異様に生い茂る木々によって作られたのは、深い緑の空。陽射の入り込む隙はない。しかし、今僕には影がある。この夏が作り出した、確かな根が、この身の翳りを這っている。

 陽射の無い炎天下。異様に涼しい森の中。僕はポケットから取り出したライターに火をつける。

 太陽すら隠す木々のせいか、大きく輝く炎に、君を重ねる。


 この夏にもう、終わりを告げる。




「おはよう、良い笑顔だね」


 僕を見つけるやいなや、灰色の煙を纏いながら、僕を指さして先輩はそう言った。

夏が滲みだす6月の中盤、黒を基調とした制服を着こなした少女は、似合わない煙草を咥えている。


「火、消さなくて大丈夫なんですか?」


 僕を見るや否や、少し名残惜しそうにそれを投げ捨てた先輩に言葉を投げかける。

 

「大丈夫だよ、君はこの壮大な森が、こんなちっぽけな炎に負けると思うかい?」


 先輩は僕の言葉に、からかう様に答える。答えとしては少し違う気もするけれど、冗談交じりに口角を上げて、でも目はまっすぐと僕を見て、芯の揺れない言葉を吐く。僕はそんな先輩に惹かれていた。

 

「今日もここでサボってたんですね」


「サボっていたんじゃない、学校が私にとって意味を成さなくなっただけだ。」


 確かに、制服を着たその少女にはそう言ってしまえる資格がある。同年代でも飛びぬけた学力を持ち、他の追随を許さない絶対王者。学校に来ていた時だって、授業をサボって屋上で寝ていたり、図書室で知らない本を読んだりしていた。学校が意味を成さないなんてのは、今に始まったことじゃない。


「ここ、居心地いいですよね。夏なのに熱くないし、日焼けしないし」


 木々の隙間から除く微細な陽射では、太陽の暖かみなど感じられない。だのに先輩といえば、学校の屋上にいるみたいに、手にはどこか見覚えのある小難しそうな本を持って相変わらず日向ぼっこをしている。


「わかっているじゃないか、さすが私の後輩だ。やはりこういう自然的な場所の方が居心地いい、知っていたならもっと早く教えてくれ」


 4月のはじめ、先輩は何も言わずに学校に来なくなった。

 先生たちや周りの子に聞いても、素行の悪かった先輩の事はどうでもよかったのだろう、当たり前のように僕に言葉を返して、気にも止めていないようだった。


 気温のせいか、過ごしやすさか、突如として先輩が学校に来なくなった理由。それだけが、なぜ今更と、僕に違和感を感じさせる。


「本当、先輩がここにいてくれてよかったですよ。居なかったら死んだかと思っちゃいます」

 

「勝手に殺されなくてよかったよ」


 涼し気に笑う先輩の顔をもう見られなかったかもしれないと思うと、この場所を数年ぶりに思い出してよかったと思う。

 

 にしても、世間はもう夏真っただ中なんて言っているのに、ここまで涼しいと異様にすら感じてくる。木々によって日差しはすべて遮られているとはいえ、この森の中には蒸し暑さすらない。日差しを遮るだけで暑さが消えるなら、クーラーや扇風機なんていらないというのに、一体ここはなんなのか。


「どうしたんだい? そんなに考え込んで」


「やけに涼しいじゃないですか、ここ。なんなら若干寒いし」


 少し身体を震わせながら、言葉を返す。逃げ出した夏に、身体がぼやけている。やはりここに、夏は無い。





「もうこんな時間だ。いい子は帰らなきゃいけないな」

 

 時間を忘れて話していると、煙草を加えた悪い子が言った。


「僕も吸ったら、帰らなくてもいいですか?」


 額に手を当てて、少し口を歪ませた先輩の顔。僕は先輩が困ったときにするこの顔が好きだ。

 

「あのなぁ、いつからそんなことを言う様になったのかは知らないが、吸ったところで君は良い子のままだ。全く、私を困らせないでくれ」


「じゃあ、先輩も良い子ですね」


 僕の言葉に、先輩はまた頭を抱える。

 先輩の言った通り、もう日は落ちかけている。陽光が遮られた森の中でも、オレンジに褪せた空の色は分かる。確かに良い子は帰る時間だ。


「あのなぁ、私がまだ帰らないのは分かっているだろ、良いから早く帰るんだ。また怒られるのは君も嫌だろう?」


 何回も、何十回も、こうやって先輩を連れ出そうとしても、先輩は一緒に帰ってくれない。先輩が帰るのは、学校に来ていた時からずっと、一人になってからだ。


「なんでもお見通しなんですね、先輩には」


「当たり前だ」


先輩は得意げな顔で、言葉を返す。この先輩も、あの先輩も、どの先輩も写真に撮っておきたい。


「また明日!!」

「あぁ、また明日な」


 そう言葉を交わして、僕は先輩のいる森を後にした。少しの間木々に囲まれた隠れ道を歩く。足を進めるたびに熱が這いよってくる。時がたつごとに、逃げ出した夏が足並みを寄せる。


「そうか、夏だったっけ。」


 時間も忘れるほど弾んだ会話と、夏を捨て切った森の寒さに犯されていた夏を、数時間ぶりに思い出した。



 日を追うごとに、世界は熱に溺れていく。7月の終盤に差し掛かる今では、毎日のように最高気温を更新しているらしい。あの森の中にいる僕達には、あまり関係のない話だけど。


「またサボったのか?」


 これでこの言葉を聞くのは何度目だろうか。いつも同じ目で、同じ口調で、同じ場所で、僕に問いかけてくる。


 もう一カ月ほど学校には行っていない。先輩を追いかけるように、僕もここに入り浸ってしまっている。違うのは、帰る時間と来る時間くらいだろう。

 日が照っているなら、朝だろうが真っ昼間だろうが、夕方でも先輩はいる。

 最初は放課後に顔を出す程度だったのに、次第に学校に行くのが億劫になって、制服姿でここに来るようになった。


「勉強はしっかりしてますよ。しっかり学年上位をキープ、先輩を見習って、しっかりやってますから」


 僕の言葉に、先輩は笑う。口角を少し上げて、目を細めて、先輩は笑みを見せる。

 でも、少し狭くなった先輩の瞳はどこか遠くを見ていて、僕を見ているのに、何かが違う気がしてしまう。


「ならいいんだが。全く、誰に似てしまったんだか」


 額には手をついて、口を歪ませた先輩の顔。お気に入りの顔が見られただけで満足だけど、


「でも、このまま学校に行かなかったら先輩みたいになっちゃうかもしれないですね」


 もう少しだけと思った。


「私みたいに?」


 そういってとぼけた先輩の顔は、まるで本当にわかっていないようだ。


「みんなから呆れられてますよ? 先輩が来てない―って言っても、誰も取り合ってくれませんし」


 僕が言葉を紡ぐごとに、先輩の目は遠くなる。おーい聞いてますかー? なんて、目の前で手を振ってみても、先輩は微笑むだけだ。


「そうか、私は学校に行ってないんだったな。」


 全く、先輩は寝不足なんじゃないだろうか。朝っぱらから何時までここにいるんだか。


「寝ぼけてるんですか?」


「すまない、そうみたいだ。私はここ一年ほど学校に行ってないんだった」


 やっぱりだ、先輩は寝ぼけてる。確かに先輩は一年ほど授業を受けていないが、学校に来なくなってからはまだ半年も経ってない。


「ほーら、寝ぼけてる。先輩が来なくなったのは僕がここを教えてからですよ」


「最近あまり眠れていないみたいだ。すまないね、しかし、私はいつ君にここを教えてもらったんだい?」


 ここまで眠そうな先輩を見るのは初めてかもしれない。しかし眠そうと言っても、言動が曖昧なだけで、先輩の真っ白な素肌にはクマ一つ見当たらない。確かに目は遠くを見ている。でも、それも遠く遠く、眠気だとかそういうものに犯されているのではなく。もっと違う何かを、見ている気がしてしまう。


「僕が先輩に教えた日、ですよね? ……いつだ?」


 先輩と一緒に学食を食べた時か? 先輩と一緒に図書室で勉強をしていた時か? それとも一緒に屋上で日向ぼっこを……違う、どれも違う。

 ここを思い出したのは春先、先輩が学校に来なくなってからだ、じゃあ僕は先輩に教えてない、この森の存在を教えることなんて、できない。


 いや、でも先輩は僕に教えてもらったって、言ったよな?


「そうだ。私、君からこの場所を聞いてないんだっけ」


 遠かった眼は、目の前にあった。


 初めて、先輩の言葉を気味悪く思った。


“なんで、僕の心に、返答したんだ。”


大きく見開いた先輩の眼は、舐め回すように、僕を見ている。


 先輩が何を思っているのかわからない。突如こちらに近づいたそれに、身体から汗が噴き出す。

 無いはずの陽射が僕を刺す。

 この森で初めて、熱を帯びた。


「夏……」


 この森に馴染んで忘れてしまっていた。身に纏っていた少しの寒気に狂わされていた。


 突如として夏が現れて、いきなり現れて僕の身を焼いてきた。額から、背中から、今日まで隠れていた汗が顔を出す。今日も更新された最高気温が僕を襲う。汗で滲んだ視界の先、僕の目に映る先輩がゆらゆらと揺らめいている。


「少し熱いな、日陰で休憩しないか?」

 

 僕の姿を見た先輩が、心配そうに声をかけてくる。

 嘘を言わないでくれ先輩。アンタは汗を流しちゃいないし、ここはもう馬鹿みたいに、太陽から隠れているじゃないか。


 歪に歪んだ揺らめく視界。その中でも陽射だけは、僕の目を見て離さなかった。


 先輩! 先輩? 先輩。先輩!!


 逃げ出すように僕は森を飛び出した。先輩から離れるたびに、木々の隙間からさす斜陽が増える。

 僕を見下ろす陽射が増える。


 先輩だ、先輩じゃない。先輩か? 先輩だろう。


 頭の中は、先輩の顔で埋め尽くされた。先輩の笑う顔、僕の好きな困った顔、少し遠い目をした考え込んでいるときの顔。寝ぼけた顔も、呆れた顔も、あの森で見た先輩は、全部先輩だったんだろう?


 僕を見下ろす陽射はオレンジに霞む。もう良い子は帰る時間だ。

 いつも先輩に言われた言葉が、不意に脳裏に浮かんでしまう。先輩は良い子じゃないらしい、この時間に帰らないなら、先輩の中ではきっとそうなのだろう。じゃあ悪い子はいつ帰るんだ。

 先輩はいつ、あの森に行って、そして帰っているのだろうか。

 今まで脳裏に閉じ込めて、考えないようにしていたものが溢れ出す。

 

 気が付けば森を抜けて、知らない道を走っていた。汗と焦りで歪んだ視界じゃ、まともに家に帰れない。

 やっと視界が開けてきたころ、車道の先で、歩道に飾られた花が見えた。


 は? なんでだ……?


 横断歩道を跨いだ先、目に入ったのは、鮮やかな花々が飾られた献花台に置かれた一人の遺影。

 

 違う、じゃああれは? 


 錯綜する車を抜けて、ひときわ目立つそれは僕を見ている。

 さっきまでと同じ顔で、でもどこか違う目で、その写真は僕を見つめる。


 あぁ、そうだ。


 鮮やかな花々に似合わない黒い額縁の内側で、その少女は笑っている。今日も、昨日も、この夏毎日目にした笑顔がそこにはある。


 先輩は……死んだんだ。


気が付けば空は夕焼けに溺れきって、月が顔を出し始めていた。




「今日は一緒に帰るかい?」


 その誘いは唐突に飛び出してきた。


「え、いいんですか!?」


 月が顔を出す少し前、夕焼けが残りの水滴を飲み干す寸前で、先輩の言葉は図書室に響いた。

 

「か、帰りませんか?」


「馬鹿、誘ったのは私だ」


 少し照れくさそうに先輩ははにかんだ顔を見せる。


「か、帰りたたいです、」


 噛み噛みな僕の言葉からは、まだ緊張が抜けきらない。というかきっと、今日はこの緊張が解かれる事が無いだろう。


「まだちょっと誘われている感が足りないけれどもまぁ、良しとしようじゃないか」


 少し上がった口角と、優しく和んだ柔い目。

初めての一緒の下校、ただ一緒に帰るだけなのに、こんな顔をしてもらえるなら、もしもを考えてしまう。




「君、本当に道こっちなのか?」


 違う。僕の帰り道への分岐点は、すでに捨て去っている。


「目、キョロキョロしすぎだよ」


 知らない道で、初めて一緒の下校なんだ。仕方ないだろ!!

 なんて、言えやしないけど。


「あ、あそこのコンビニ好きなんですよ!! 限定のフラペチーノのカスタムがあって!」


 焦りが言葉に滲んでいるのが自分でも分かってしまう。いきなりすぎるし意味が分からない。コンビニにカスタムなんて無いんだよ!!


「あのなぁ、コンビニじゃめったにフラペチーノはないし、カスタムなんて無いよ」


「わかってるよ!!」

 心が漏れ出てしまった、

 指さしたコンビニの開いたドアから抜けてきた風はやけに寒かった。




「このカスタム美味しいですね!!」


「それはアイスを混ぜているだけだよ。カスタムから早く抜け出しな」


 僕たちの手に握られているのはコンビニに売っているラテにアイスを混ぜたカスタム品だ。

 いや、カスタム品じゃないんだっけか。

 

「で、どこまで私を送ってくれるんだい?」


 知らない道を先輩に付いて行く。一緒に帰らないかと誘われたんだ、どこまでだって付いて行く。


「僕の家もまだですから!!」


 答えになってないのは、自分でも分かってる。

「全く、ここまで素直じゃない君を見るのも久しぶりだな」


 ここまで緊張するのも久々だよ!!

 なんてやっぱり、言えやしないけれど。


 でも、先輩の得意げな顔をこうして見ていられるなら、緊張も悪くない。


「もうすぐ私の家だ」


 地方にしては少し大きな交差点で、先輩が言った。

 先輩の家までの残り道を、行きかう車がエンジンを吹かして、僕らの足を阻んでいる。まだ終わって欲しくはない。もっとこの時間が続いていたらと思う。でも、先輩が言った通り、僕は素直じゃないのだ。


「え、じゃあ早く帰らないとじゃないですか!!」


 勢いよく足を踏み出したその時、がしっと襟を掴まれた。殺せなかったその勢いに潰されて、地面に叩き落とされてしまう。


「馬鹿!! あれが見えないのか?」


 初めて聞いた声だった。

 目の前には見たこともない表情の先輩がいて、先輩の指の先には、赤く光る歩行者がいた。


「死んだらどうするんだ!!」


 先輩の声が、行きかう車のエンジン音に掻き消される。


「馬鹿」


 違う、エンジンの音だけではない。

 言葉を紡ぐごとに荒くなる息、徐々に形を失う言葉、先輩の声を消しているのは先輩自身だ。


「頼むから本当に、居なくならないでくれ」


 気が付けばまばゆく光っていたライトは滲んでいた。先輩の想いが、零れていた。


「ごめん、なさい」


 初めて先輩に気圧された。初めて先輩に怒られた。先輩の優しさが、初めてその感情をむき出しにさせていた。

 

 倒れた僕の顔の上に、先輩の涙が積もっていく。暖かいそれが僕のためのものだと嫌でも分かってしまう。


「すまない、取り乱して……」


 突然の車のブレーキ音と荒くなった息に紛れて、先輩の言葉は不自然にまた形を失って、それと同時に、視界が一瞬真っ暗になった。


 こんなに泣くだなんて、僕はどれだけ先輩に想ってもらえているのだろうか。

 

 目を開けると、赤いライトが、より強く光って、暖かい液体が、僕の顔を覆った。


「先輩、これで涙を……は?」


 交通事故だ、僕達は悪くない。

 運が悪かったんだ、君は悪くない。

 運が悪かったんだ、そんな言葉で片づけられると思うか?


 赤い涙は、僕の視界を覆っていた。目の前で強く光っていたのは、車のヘッドライトだった。


「は? 先輩?」


 赤い涙をこぼしていたのは、先輩だった。


「大丈夫、か?」


 荒い息にまみれた言葉で、僕に言葉を投げかけてくる。

 そんな場合じゃないだろう。


「せ、先輩。せ、先輩!?」


 口から血を吐き出した先輩は、身体の半分を車に食われている。

 僕を覆う様にいたからだ。


「大丈夫だ、君は?」


「大丈夫なわけないでしょう!?」


 声を荒げてしまった。


「き、救急車。はやく、救急車を呼ばないと」


 スマホを取ろうとしても、鞄に手が届かない。先輩に守られてしまったとはいえ、身体は車の重さに潰され言うことを聞かない。


「大丈夫。こうなってしまったら、もう無理さ。君を守れただけ、誇りに思うよ」


 今じゃないだろ、その顔を見せるのは。

 目に映ったのは、満面の笑みだった。

 赤い涙も、先輩をつぶす車も、すべて塗りつぶすほどまばゆい笑顔、でも、現実は塗りつぶせない。


 なんで車がそこにあるんだよ。信号は先輩が、なんで先輩なんだ、なんで僕じゃないんだよ。僕が、僕が、


「僕が、一緒に帰ったから……」


 こぼれた言葉に、先輩が言う。


「馬鹿、誘ったのは私だ」


 エンジンの音は、徐々に少なくなっていく。

 この惨状に、気づいたのだろう。


「そうだ、一言だけ、伝えたかったんだ」


 やけに声が素直に響く。さっきまで荒かった息もまるで嘘のように静かだ。


「先輩、もういいから」


 徐々に息は静かに、エンジンの音も無くなって、世界から音が消えていく。

 耳に入ってくるのは、未だ荒いままの僕の息と、言葉を成せない先輩の息だ。


「那月君、私はね。君が……」


 その言葉を最後に、先輩は僕の目の前で死んだ。目に焼き付いた死に顔は、嫌なほど満面の笑みだった。

 音がなくなった世界の中、先輩が吐いた最後の言葉は、思い出せないまま、僕はこのすべてを、記憶から消していた。


 


 陽射はもう僕を見ていない。空に浮かぶのは、嫌なほどに綺麗な満月だけだ。


 先輩じゃない、先輩じゃなかった、先輩はもう、死んでいる。


 行き交う車のヘッドライトが、ひとりでに笑う少女を照らす。


 鮮やかな花々に彩られ、黒い額縁の中で輝く似合わないほどに愛くるしいその笑顔は、最後の姿とよく似ている。


 月明りに照らされた彼女の笑顔は、僕を見つめて離さない。


 先輩は、あの日からずっと、ここにいたのだ。


 車のライトが、街の明かりが、月光が走り出した僕に影を作る。先輩はあの森にいない、居てはいけない。


 走っていると、徐々に音が薄れていく。街の明かりも無くなって、最後に僕に影を残したのは、夜に浮かんだ月だけだ。


 先輩はもう、死んでいる。僕はそれを忘れていた、思い出したくもなかった。本物の先輩の笑顔を目にした今でも、忘れたまま一緒に生きられるのならなんて考えてしまう。あれは僕の記憶を貪っただけの怪物だというのに。

 


「夏……」


 この夏に犯された。夏の暑さが肌を寄せてくるにつれて、彼女との記憶が、足並みを合わせて森に吸われた。7月の終盤、夏が終わるには少し早い。


 森の奥に進めば進むほど、やはり体は夏を忘れる。この森の涼しさにも、もう慣れてしまった。初めは微細な隙間から除いていた空の色も、今ではかけら一つ見えない。


 先輩じゃない、分かってる。アレはこの森が魅せた影だ。僕の記憶だ、僕の知っている彼女の再上映だ。


 先輩じゃないのだ、知っている。だからここに来たんだ。本物の先輩を、取り返すために。


 日の巡りも空の色も見えないからか、過ぎ去っていく時は悠久のように感じる。



「おはよう、今日もまた、サボったのかい?」


 先輩じゃない。わかっているのに、その言葉を聞くと、視界がおぼろげになってしまう。

 

 森の外を眺めて、先輩を待っていた。僕に歩み寄ってくれるんじゃないかって、森の外から、君も来てくれるんじゃないかなんて、それがありえないのは、分かり切っていたのに。


「やっぱり、辛いですね」


 木々の奥に微かに感じる日の照りと共に現れたのは、いつもと変わらぬ姿の先輩、最も、陽射はもうここに届きはしないが。

 脳裏に焼き付くほどに目にしたその姿は、今日も煙を纏っている、


「そういうものさ、別れっていうのは」


 この言葉に、意味など無い。生きている先輩に、僕がいつか言われた言葉だ。目の前の先輩はただの虚像だ。


「吸ってみるか? 辛いことを忘れるほど良いものじゃないが、気は紛れる」


 これも虚像だ。この森が造った影だ。


「いいですか?」


 あの日断ったその問いかけを、僕はわざと受け入れた。

 これで、お前も影のままだろう。


 先輩に少しの沈黙が訪れる。そのはずだ、僕の記憶に答えはない。だから、この先は存在しない。はずなのに、


「せん、ぱい……?」

 

 少しの沈黙の後、先輩から差し出されたのは、一本の煙草とライターだった。


 知らない、こんな記憶はない。こんなあなたを、僕は知らない。


 でも、確かに先輩から手渡されたそれは、まるですべて終わらせることを望むかのように、確かにこの手に握らされた。


 僕を囲む木々が、青く澄んだ空を遮っている。異様に生い茂るこの森の木々は、僕の記憶を今もなおその依り代にしている。陽射の無い炎天下。異様に涼しい森の中。それでも今目の前にいる君は、この夏とこの森が作り出した陽炎とでも呼ぶべきなのだろうか。


 ライターに火を灯す。太陽の一切を断じた森の中、唯一輝くそれは矮小なその身を灼々と輝かせている。

煌々と一帯を照らすその姿に、この身の翳りを重ね合わせる。


 この夏にもう、終わりを告げる。


 秋が来れば枯れてしまう、冬が来れば凍てついてしまう、春になれば芽を出して、夏になればまた現れる。


 君も、そうなのであれば。もうこんな夢、終わりにしてしまおう。


 ライターを落とすと、火が燃え広がるのはすぐだった。僕の記憶を栄養にしたからだろうか、案外脆い。


「先輩、また明日」


 燃え広がる森の中、徐々に僕を照らす陽射の奥で、先輩が最後にみせる顔は、あの日目にした顔。まるでそれをより強く鮮明に描写するかのように、先輩が吐いた最後の言葉を、僕が忘れた最後の言葉を、その影は吐いた。



「那月君、私はね。君が、好きだったんだ」

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