孤独は制服を着て、隣の席にいた
柊 小夜
第1話
心地よいムスクの香りが全身を包んでいた。
ここ数年で、一番深い眠りを味わえた気がする。でも、同時に目覚めたくなかったと、後悔がさざ波のように心を侵食した。
部屋はまだ薄暗く、カーテンの隙間から朝焼けが少し見えた。寝返りをうち、目の前の空間を眺めていると、徐々にこの暗さに目が慣れてきたようで、ぼんやりと目の前の人物が浮かび上がる。ツンとした高い鼻と、均衡のとれた、掘りの深い顔。さらさらと、指通りの良い短髪がシーツに拡がっていた。本能で触れたいと手を伸ばしたが、結局触れることは出来なかった。昨夜は散々触れたはずなのに、事が終わってしまうと、どうにも頭は冷静に、冷め切ってしまう。どうしたら良いのか分からず、気付くと目に熱いものが込み上げる。この感情に、一体どんな名前を付ければいいのか。二十六年間生きてきたが、まだ私には分からない。
頬に流れる涙が、どうか彼に気付かれないようにと強く願いながら、再び目を閉じた。
*
「昨日は、申し訳ないことをしました」
ルームサービスで届いた朝食のオムレツにフォークを入れている最中、彼が重苦しく謝罪の台詞を吐いた。
「申し訳ない、って一体どんなこと?」
「____同意なく、したから」
「お互い、良い大人だよ。同意の上。春樹は、気にしすぎだよ」
何でもないことを話すように、出来るだけ自然に。一歩間違えて、言葉を滑らせてしまえば、とんでもない傷を負ってしまうような気がした。私は嘘を吐くのがあまり上手な方ではないから、彼の目を見ないように心がけて、慎重に、慎重に。オムレツをひたすら口に運んでいる間、彼がじっと私を見つめている視線には気付いていた。彼が全く朝食に手をつけていないことにも。
「ごはん、冷めちゃうよ」
何とか、絞り出した声は小さかった。
私達二人の間に流れる空気とは裏腹に、窓から注ぐ太陽の光は温かい。外に目を向けると、昨日の夜に降り積もった雪は段々と溶け始めていた。昨日の嵐のような風と雪は、まるで何かの夢だったようだ。
「雪、溶けるね」
「溶けちゃいますね。電車も動き出しそうだ」
『溶けちゃいますね___』彼の言葉がまるで二人の別れを惜しんでいるように聞こえて、浅はかな私はまた期待してしまう。まるで生殺しだ。
「よかったね。やっと帰れる」
精一杯の強がりだった。
何年も何年も、想い続けてきたこと、彼には一番知られたくなかった。
その後は、二人とも粛々と朝食を口に運び、各々身支度を整え、チェックアウトの準備を始めた。元々、泊まるつもりではなかったので、昨夜と全く同じ服に腕を通す。私は恋愛経験があまり多くない。自分自身でも、身持ちが固いと自覚するぐらいには男遊びもしないし、合コンに参加したこともなく、所謂ナンパにもついていったこともない。昨夜と同じ服に身を包むのは、いかにも一夜過ごしましたと証言しているようで、落ち着かない。スカートのホックを閉めながら、背中合わせに、少し距離をおいて着替えている彼を盗み見した。昨夜はまじまじと観察する余裕もなかったが、彼の背中は私の記憶よりも大きかった。高校時代は、線が細い印象だった彼も、大人になったのだ。綺麗に流れる背筋、それに続く腰のラインと手の指は細いが、しっかりと筋肉の付いた腕が逞しい。遠い昔のことなのに、私の背中に彼の腕が回された感覚がずっと残っているのだから、どうしようもない。
彼が真っ白なワイシャツに腕を通した時、欲が溢れ出た。
「私がやりたい」
ワイシャツのボタンを留めようとする彼の手に優しく触れた。彼は何も言わず、抵抗もせず、私の思うままに好きにさせた。ワイシャツのボタンを一つ一つゆっくりと留める。なんて事ない作業なのに、唇が震えそうになった。
初めて会った日のこと、初めて私の名前を呼んだ時、初めて目を見て笑った時、初めて私のことを好きだと言って、手を繋いでくれたあの日。
彼との思い出はあまりにも色濃く、鮮明で。
まるで昨日のことのように思い出すことが出来る。
それなのに、その日々からは、とっくに十年も経っていて、私達は大人になり、今はもう恋人同士ではない。
子どもの頃は、大人になれば何でも出来ると思っていたけれど、歳を重ねれば重ねるほど、臆病になってしまうのは何でだろう。
最後のボタンから手を離した後、彼が深緑のネクタイを首に巻き付けた。
思わず細長い指を目で追う。私と会わなかった間に、この指で一体どんな女性に触れたんだろうか___考えれば考えるほど、不毛な連鎖に陥った。
スマートフォンに表示される時刻を見ると、十一時のチェックアウトまで、あと一時間程ある。化粧も、着替えも済ませ、あとはこの部屋を出るだけだった。少しでも同じ空間にいたくて、のろのろと準備していたが、思ったよりもずっと早く準備が終わってしまった。彼の方も、深緑のネクタイをきっちり締めて、現実に戻る準備がもう終わりそうだ。
置いていかれるよりも、置いていく方がずっといい。二人で過ごした部屋に一人残されるなんて、想像するだけで気が狂いそうだ。
「____本当に、少しの間だったけど、ありがとう。雪も溶けてるし、帰るね」
面倒な女だと思われるのは嫌だった。泣いて縋るとか、そういうのは一番苦手な性質だ。何より、彼を困らせたくなくて、後腐れないようにしたかった。
厚手のコートを羽織り、マフラーを手に取る。少しだけ期待していた、私を引き留める彼の声はなかった。ああ、やっぱりこれで正解だ。心の中で呟いた。彼の顔は見なかった。背中を向け、ドアの冷たい金属部分に手を掛ける。
「待ってください」
彼の低い声が冬の静寂の中に、それが世界で唯一の音のように響いた。
「____お願いだから、行かないで」
十年前に私が口にした言葉を、今度は彼が吐いている。
振り向くと、すぐ背後に彼が立っていた。さらさらとした前髪が目元を隠していて、どんな表情をしているのか、何を考えているのか読めない。自分の呼吸が浅くなるのを感じた。
暫く、お互い無言のまま、立ち尽くしていた。私も、そしておそらく彼も何か言葉を探していたが、上手な言葉は見つからなかった。そっと遠慮がちに、彼が私の指に触れる。冬の冷たい空気に冷えてしまっているのか、心配になるぐらいに冷たい。私も、彼に応えるように握り返した。
「貴方の、そういうところが嫌なんだ」
そういうところ、とは一体どんなところなのか。尋ねようと彼を見上げた。ずっと前髪に隠れて見えなかった彼の瞳が見えた。色素の薄い彼の瞳は淡い茶色のビー玉のよう。私はこの瞳に、自分が映し出されることが何よりも幸福だった。そして、それは今も変わらない。たぶん、始めて会った時からずっと。
彼はスーツのポケットから、名刺を取り出すと、私に手渡した。白い紙切れには、「遠野春樹」という彼の名前と電話番号、メールアドレスがあった。この電話番号とメールドレスには見覚えがある。今も、私のスマートフォンの電話帳に登録されているものと同じだ。幾度も、眺めては連絡しようかと悩んでは、もう電話番号もメールアドレスも変えているだろうと諦めていたから、驚きだった。
「まだ、電話帳に残ってる。春樹の連絡先」
私の言葉に、少し動揺したように彼の瞳が少し揺れた。けれど、その揺めきは一瞬で、すぐに静止した。
「何があるかわからないから、持っていてください」
機械みたいな、事務的な言い方だった。
「わかった。でも、必要ないと思う。一緒に泊まってくれて、ありがとう」
自分でも、冷たい声音になってしまったと少し後悔する。でもきっと、二回目はないのだ。彼はあくまで、過去の人だから。彼にとって私もまた、過去だ。過去に戻ることは出来ない。
一つ深呼吸をすると、私は彼を残して部屋を出た。
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