第3話 異変(1)——黒い霧の出現
黄昏時、テオとカイルは見張り台の上で西に沈む太陽を見送っていた。ゆるやかな風が二人の髪を撫でていく。
テオが砦に来てから、幾日かが過ぎていた。
仲間たちと囲む食卓も、記憶を辿らないようにと、静かに目を閉じる物置での夜も、少しずつ慣れてきた。
「そろそろ交代の時間だ」
カイルがテオの肩を叩いた。ちょうどそのとき、階段の下から、ユーリが顔をのぞかせた。
「二人ともお疲れ様。代わりに来たよ」
ユーリの声が消えるか否かの刹那、頬を撫でる風の流れがふっと止まった。
テオは目を細め、陽の残光が射す森の方を振り返った。
森から立ち上る靄に混じって、煤をまぶしたような黒い霧が漂っている。
不意に目の奥に鋭い痛みが走り、テオは思わず瞼を閉じた。
「テオ、行くぞ」
テオは慌ててカイルを引き留めた。
「ねえ、あれ」
テオは目をこすり、もう一度背後の森を振り返った。そこにはまだ、黒い霧が柱のように森のあちこちに立っている。
「どうした?」
カイルはテオの隣に立って同じ方向を見渡したが、首を傾げた。
「見えない?」
「森の向こうに」と言いかけた瞬間、小さな耳鳴りが始まった。かすかな音の中に、風ではない何かの唸りが忍び込む。――遠く、森の底から響いてくるような、獣の低い唸り声。
風がないのに、髪がそっと揺れた。
次の瞬間、霧がひときわ濃くなり、視界の端をゆらりと黒い影のようなものが横切る。テオは息を呑み、反射的に背後を振り返った。だが、そこには何もいない。
振り返ったテオの視線の先で、ユーリが眉をわずかに寄せ、口元を固く結んだまま彼を見つめていた。
「ユーリ、お前はどうだ?」
たしかに視線が交わった気がしたが、ユーリはカイルの声に応えるように、「何も見えないよ」と言った。
「珍しい鳥でもいたか?」とカイルが笑う。その声にあわせて、ユーリも小さく微笑んだ。
テオはもう一度、森の方を見た。太陽は森の影に沈み、漂っていた黒い霧はいつの間にか藍色の空に溶けていた。ただ、耳の奥に残ったあの低い唸りだけが、残響のようにいつまでも離れなかった。
テオは自分が見たものを、言葉にできなかった。
藁と毛布を敷いただけの寝床で、テオは浅い眠りからふと目を覚ました。物置には、瞼を開いても、閉じている時と変わらぬ闇がそこにあった。
どこかで、何かが軋むような音がした。
テオは身体を起こし、扉の外に耳を澄ます。風でも、木の軋みでもない。重いものが地を踏みしめるような、低く鈍い響きだった。
胸の奥で、夕方に見た霧の記憶が蘇る。黒く滲む森、あの唸り声。
次の瞬間、地を揺らす衝撃が走り、岩が崩れるような轟音が響いた。ほとんど間をおかず、低く重い金属音――見張り台の警鐘が、闇を裂くように鳴り響いた。
テオは飛び起き、勢いよく物置の扉を開け放った。ランタンのわずかな明かりを背に、見張り台から身を乗り出す影が見えた。ユーリだ。中庭を見下ろしている。
「テオ、後ろ!」
その声に振り向く。
薄明りの中でもわかる。巨大な体積を持つ“何か”が、暗闇の中にさらに深い穴のように存在していた。
雲の切れ間から月光が落ちる。白い光に浮かび上がったそれは、鹿のような四つ足の影――だが、足も顔も、鱗のような板片に覆われ、鈍い光を返していた。皮膚はところどころ白く裂け、裂け目の奥から硬質な膜が覗いている。それはまるで、森の動物が何か別のものに“塗り替えられて”いるかのようだった。
眼窩の奥で、赤い瞳がかすかに光り、テオを捉えた。肌に、かすかな痺れが走る。
獣は低く唸り、鼻先から黒い蒸気を吐いた。その蒸気が地面に触れるたび、草が音もなく焦げ落ちる。
獣の唸りに重なるように、テオの耳の奥で――遠く、誰かの声のようなものが響いた。
その声は、初めて触れる言葉のように意味はわからなかったが、恐怖と焦燥だけが確かに届いた。
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