第5話 萌色に染まる

長い廊下を渡る。


年季の入った、大きな建物だ。


古い木の香りが、常に私を包む。


気合いを入れるような掛け声が耳に入る。

少年は、大きな扉を開けた。


ふわ、と、熱い熱気が頬にかかる。


広々とした、本当に大きな部屋。天井がとても高い。


部屋の中でえい、とか、やぁっ、とかそんな掛け声を出しながら、何人かの男の人が木刀を一心不乱に振っていた。つるつるとした床を踏む音が、部屋中に響いている。


見慣れない大人の男性の姿に、私は後退りした。


なに、ここ。


怖い。


ふと気づいた時には、呼吸が荒くなっていた。


少年は部屋の中へ入り、一人の男性の元へ駆け寄った。


知らない場所で一人にされるのは、嫌だった。


「ちょ…っと、待ってよ」


私は少年を追いかけた。

瞬間、私の足が滑る。


「うっ」


床が水が何かで濡れていた。

おかげでただでさえつるつるとしている木の床が、余計に滑りやすくなっていて私は思いきり顔から転んでしまった。


すぐに起き上がれるけど、恥ずかしさと情けなさからしばらく床に顔を突っ伏していた。


「大丈夫か?」


人の声が、頭上から聞こえた。

反射的に頭を上げる。


男の人だった。

それも、牛みたいに体格のいい、若い男の人。


短い黒髪と、程よく日に焼けた健康そうな肌。黒々とした黒曜石のような瞳。



誰?



咄嗟に起き上がり、後ろの方に飛び退いてしまう。知らない人は、どうしても怖い。


「あ、鼻血出してる」

後ろから宗次郎が茶化す。そう言われて、鼻の下を擦る。黒く薄汚れた袖に、赤い血がつく。思い切りゴシゴシと擦って、完全に血の汚れを無くした。どうやら軽いものだったらしい。もう血は出てこない。


「ああ…君は!」


男が…牛男でいっか。

牛男が、私の顔を思い出したように凝視した。その思った瞬間、膝を私の背丈に合わせるようにして折り、私の肩を嬉しそうに揺さぶった。


「君!川で溺れていた子だな?ああ、よかった。目が覚めたのか、心配してたんだぞ」


「う…い、痛い、です」

私が半ば強引に肩から手を離させる。


ほんとに、何なんだこの牛男は。


「嶋崎勝太先生。僕の師匠だよ」


宗次郎が、そう説明した。


しまざき、かつた。

ぼんやりとその名を、頭の中で復唱した。


「いや〜。最初は死んでるかと思ったけど、

元気に歩いて元気に転べるまで回復したとは、子供はすごいなぁ!」


がはは、と音をつけたいくらいに豪快に笑ってみせられた。


なんか、ちょっと…怖い。私はびくびくして、無意識に拳を握りしめた。


「あ!そうそう、先生。この子、ここの食客にしてあげてください。どうやら身を寄せる先がないみたいで」

「う〜ん、でもなぁ。

こんな幼い女の子に剣術を…それに、周斎先生への相談もなしに、いくら俺でも流石に即決は出来んぞ」


「いいじゃないですかぁ。ウチにはもう、トシさんみたいな食客もごろごろ居座ってるのに」


「そうじゃなくてだな、宗次郎…」


怖い。


何?何なの?


何で勝手に話を進めてるの、この人達。ほんとに、何が目的なの?


怖い。


背中に嫌な汗が伝って、全身の毛が総毛立つ。


疑念が膨らみに膨らんで、弾けてしまいそうだった。

一歩、また一歩と、少しずつ後ずさる。


逃げたい…今すぐこの場から。


男達の顔色を伺いつつ、今だという瞬間に外に向かって私は一目散に駆け出した。


「っ、おい、君!」

牛男の叫ぶ声。私は構わずひたすら走った。


追いつかれないように。追いつかれないように。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」


林を抜けて、坂道を転げるように降りる。途中、坂道で転んで膝を擦りむいたけど、立ち止まらずに走った。


冬の凍てつくような冷たい空気が、私の肌を切り裂く。


気がつけば、川のたもとの、小さな橋のところに私は立っていた。


しばらく呼吸をして、川のせせらぎに耳を傾けていると、だんだん思考が冷静になってきた。

「っ…はぁ…」


ゆっくりと頭を上げて来た道を見ても、坂道と林の木々たちしか見えず、土地勘のない私はもはやどうここまで来たかもわからなくなっていた。


ここは、何処なのだろう。私が身を投げた川はこの川に繋がっていたの?


そもそも、ここは江戸なのだろうか?


何もわからず途方に暮れる私の耳に、かあ、かあ、と家路を急ぐ烏の鳴き声が入ってくる。


びゅう、と冬らしい冷たい風が全身を掠めた。


見上げると、空は橙色に染まっている。それがほんとに、馬鹿みたいに綺麗で。


私は、ただぼぅ、とそれに見惚れた。


夕暮れ時だ。人々は、そろそろ帰路に着く時間帯だろう。


寒い。


膝を抱え込むようにしてしゃがんだ。少しは暖かくなるかもしれないし。吐いたため息は、ほんの少しだけ白く濁って、空気に溶けた。


風がどんどん冷たくなってくる。びゅうびゅうとうるさい音を立てて吹き付けて、その度にちょっとずつ体温を奪われる。


膝に顔を埋めた。


ーーー私、失敗したのかな。もしかしたら、あの人たちほんとにただ見返りもなく私を助けようとしてくれたのかもしれない。


でも、人間なんてわかったもんじゃない。相手を信じたら、結局こっちが裏切られるんだ。今までの短い人生で、それは痛いほど分かっていた。


でも。もし、もし、私が差し伸べてくれた手を振っていたら?



あれ…


何が正解なんだろう。



手を差し伸べてくれないんじゃなくて、私がそれを振り払ってるだけ?


「…分かん…ない、よ」


力無く呟いて、顔を膝に埋めた。


圧倒的な孤独感。


誰も教えてくれない。誰も答えをくれない。

全部自分で考えなくてはならない。

途方もない気持ちになって、また、目が熱くなる。

泣きたくなって、視界が白くぼやけた。


「あっ…みっけ」


その声で、誰だかは何となく分かっていた。


「もう…びっくりしたよ、いきなり飛び出すんだもん」

呼吸を整えながら、飄々とした口調で宗次郎は私に話しかけてきた。

「…何で、来たの?」


「ん〜もう、いちいち理由いる?ただ心配だったから追っかけて来ただけ。


戻ろう。先生が心配してるよ」



優しい声色と共に、きゅっ、と優しく私の腕が掴まれた。

反射的に、私はそれを振り解いてしまう。


「何で?何で、こんなことするの?」


一度口を開いたら、止まらない。


寒さで縮こまった喉のせいでうまく喋れず、抑揚のない声で言葉を紡ぐ。


「一体何が目的なの?だって、だって、人間なんて所詮、何をするにしても見返りを求めてくる。


どうせ私を危ないことに巻き込んだり、ロクなことしないんでしょ?」


私は、これでもあの遊郭の最下層で生きて来た。世の中の黒い部分は、少しでも味わったつもりでいる。

遊女達は、大体客に病気をうつされたり、歳をとって客がつかなくなったから、などの店側の勝手な都合であそこに送られる。それで、満足な生活を送ることができなくて、みんないらいらして、それで私達みたいな歯向かわない弱い存在に手を上げる。 


知ってるんだ、私は。

同い年のお市ちゃんは2年前の夏、あの人たちから受けた傷が元で死んでしまった。


でも、こもに巻かれてお寺に投げられるなんてことはなかった。


遺体はそのまま長屋の裏に放置されて、だんだん腐って虫が湧いて…


最初はそれでもいいと思っていた。それが普通なんだって。


でも、何度も何度も何度も殺されかけて、これがおかしいんだ、普通じゃ無いんだ、良くないことなんだと、気づいた。


だけど…だんだんわからなくなった。


おかしいことなんかじゃない。

おかしいって思えなくなってきてしまった。


本当に理不尽だと思う。人間なんて所詮、理不尽で真っ黒で、自分のことしか考えられないんだって、そう思って来た。


だから、この人が分からない。分からないものは怖い。

でも、目の前の少年はひどく純粋な面持ちのまま答える。



「…目的なんてないよ。ただ君が、困ってそうだから助けてあげたいって思っただけ。


別に、それ以上でもそれ以下でもないよ」



川の水が夕日に反射してぴかりと光り、私の目に針のような鋭さで入る。眩しくて目を閉じる。


ーーー開くと、そこからは涙がこぼれそうなほど溜まっていた。


「…私………もう、行き場所がないよ。


あの時、いつもみたいに、殴られたり蹴られたりで終わればいいけど、あの時は特別に寒くて、でも食べるものも何もなくて。

それなのに、ほんとに殺されそうになって。それで必死に、逃げて。それで、川に」


垂れ掛けていた鼻水をすすると、片方の目から1粒、涙が頬を伝った。


「…私、ずっと、いらない子だ、卑しい子供だって、疎まれてた。


今までとにかく生きることに必死で、そんなこと言われても何も気にしてなかったけど、なんか、急に、自分が本当に、この世界にいちゃいけないっ、存在なんじゃないかって…思って。それで…それで…もう、死にたいって思って…でも死にきれなくて。でも…っ」


視界が、霞色にぼやけて前が見えない。


ぎりぎりまで耐えていた涙が、一気に堰を切ったように溢れだす。


「助けてください…っ


私、まだ死にたくない。


生きたい。


でも…私は生きていていいのかわからない。意味があるのかわからない。


おねがいします、教えてください。


助けて…下さい…」


顔を手で覆って、恥も外聞も関係なしに泣き崩れる。

頬に触れた河辺の石が、夕日の光にさらされてとても暖かかった。


人が、信じられなかった。


どこかこの世界を達観していた気がする。


信じれば裏切られる。だから、身を守る為に、これ以上傷つかないためにも、自分の生きている世界に身限りをつけていた。


でも、この人は。この人は違う。何故かわからないけどそう見えた。


まだ子供だけれど、この人なら私を助けてくれると感じた。



「おねがい…します…」




藁にもすがる、思いだった。




ザッ、と風が吹き抜けた。

かさかさと木の葉が触れ合う音がする。



 



「ーーーーいいんじゃないかな。


生きたいなら生きればいい。それは人としての当然の“けんり”ってやつでしょ?


生きる意味なんて、そんな難しいこと、子供の僕にはわかんないけど…


生きていくうちに、見つけていくものなんじゃないかな」



「…」




「…かぐらが、なんでこんなに苦しまなくちゃいけなくなったのかは、分かんない。


分かんないけど…


全部が全部、かぐらだけのせいじゃないと思ったんだ」




「え…?」


顔を上げると、そこには背中を夕日に照らされた少年が立っていた。夕日はなんだか後光のようで、ひどく大人びて見えた。



宗次郎はしゃがんで、橙色の川に溶け込むみたいな綺麗な微笑を作って言った。



「それでも生きるのが辛いって言うんなら、




…僕たちと、いっしょに生きようよ」



「一緒…?」


「僕たちが、君と一緒に生きる。


喜びも悲しみも、悔しさももどかしさも、全部全部、君と同じくらい背負うから。



辛いことも、悲しいことも、ぜんぶきっと…いつかきっと、それを上回るくらいの幸せで溢れるから。


それくらい、生きてて楽しいって思えるときがくるから。だから…


死にたいなんて、言わないで」


吸った息が、震えた。


はっ、と吐き出された私の白い息が、一瞬視界を覆う。


信じられないものを見つめるような目で、私は目の前の少年を見た。


そんなことを言ってくれる人は、今まで誰

1人としていなかった。一緒に歩み寄ってくれる人なんて、存在しないと思っていた。


この人は…宗次郎さんは、違うんだ。


私を底なしの穴から引き上げてくれる人は、ここにいたんだ。


私の涙でぐしょぐしょに濡れた頬を、微笑みながら宗次郎さんはそっと拭ってくれた。



目の前にある大きな太陽の眩しさに瞬くと、目の奥がまたじわりと熱くなって、大きな涙がぼろぼろと溢れた。


私は、また泣いていた。



溢れる涙を止めることができなくて、私はしゃくりを上げて泣く。宗次郎さんは、優しく抱きしめてくれた。石鹸のふわりとした香りが、私を包む。


「…っ、うっ…」


熱い涙は止められず、無限に私の頬を伝う。


涙でぼやけた目で見た空は、すごく透明で、どこまでも続いていきそうなくらい、赤くて。


びっくりするくらいに澄み渡った夕暮れの空が、脳裏に焼きついていく。


そんな美しい景色に、彼の優しい心に、世界の全てがすごく切なくて、私の心はぐしゃぐしゃになった。




空は、もう夜空がじんわりと染み出すように夕暮れと混ざって、萌色に染まっていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神楽舞 海藤つばさ @yog_ka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ