君と僕とが崩壊に至るまで

@5cig

第1話 マフラー

冬は、部屋の輪郭を薄くする。

壁も床も天井も、同じ白さで、同じ温度で、凹凸だらけの僕の生活を均していくから、時々聞こえる音だけが浮く。冷蔵庫の唸りや遠い車の気配、自分の呼吸の噛み合わない感じ。


君に好かれたくて、僕は自分を作り替えた。

最初はほんの小さな調整だったと思う。返事の言い方、間の取り方や笑うタイミング。君が好きそうな言葉を選び、君が嫌いそうな沈黙を避けただけで、君への優しさと呼んでしまったし、君が笑うたびに、僕は「正解」を引き当てた気がして、胸の奥が少しだけ温まった。


いつの間にか、僕は自分を測らずに、自分より先に、君の顔色を測った。怒るべきか、笑うべきか、黙るべきかを君の表情から決めていた。当時は君が僕の手の届くところで光っていた。だから、それでよかった。

でも、君がいなくなってから残ってるのは、僕だったもので、君と過ごした名残の抜け殻だけだった。本来の自分がどんな風に生きていたか、夜の過ごし方、人との話し方、気まずい時に出る癖すらもうはっきりと思い出せない。昔の僕なら言ったはずの言葉が、喉の手前でほどけて、「大丈夫」に変わるのに、それが誰に向けた大丈夫なのか、僕にも分からない。

一人でいるのに、想像の君が感情より先に勝手に僕を動かし、君に見られている体で姿勢を決めて、話す内容を考えている。

クローゼットの奥から、紺のマフラーを引っ張り出す。洗剤と埃が混ざったような君の匂いがする。君が編んでくれたそれは、編み目が少しだけ不揃いだけど、そこに人の指の迷いが残っているようで君の温かさと時間がそのまま残っている気がする。僕はそれを首に巻く。二周回しても、端が胸に落ちて、長い。

君は笑って「長すぎた?」と言って、僕は「長い方がいい」と返した。冗談だったはずの言葉が、今は喉に残る。


巻いた瞬間、体温の置き場所ができる。戻れるわけがないのに、君との幸せが、君と笑いあった過去がまた戻ってきてくれる気がする。そういう錯覚だけが、冬の中で生きているから、僕は希望と共に動き出す。


どんな僕なら君が赦してくれるのかを思う。文字を打って、消してを繰り返してメッセージを送った。反応はない。それでも、君の記憶から僕が残り続けるように、ビデオをまた送る。

スマホを、本とカップで支えて立て、目線より上にレンズの高さを合わせる。準備だけは手際がいい。

君が好きな姿勢で、変わってしまった僕の中身を誤魔化す。


録画ボタンの上で指が止まる。脳裏に浮かぶのは「醜い」。君が選んだ沈黙を壊し、僕が勝手に「続き」を作る行為だと分かっている。それでも、霞のような「もしかしたら」を僕は手放せない。君がどこかで、ほんの少しだけ、僕を赦してくれるかもしれない。そんな可能性はほとんどないけど、ほとんどないからこそ蜘蛛の糸みたいに縋ってしまう。

僕は情けないくらい、君の優しさの残骸に依存しているのに、それをやめられないから、録画を押して、できるだけ軽い声を作る。

「……元気ー?」


隈の増えた顔で笑う。

紺のマフラーが喉元に触れて、君の手が僕の発声を支えているみたいで、余計に苦しい。

画面の中の自分は、君の好きだった、作られた僕。


「突然ごめん。言い訳じゃなくて……言いたいことがある」


僕は言葉を選ぶふりをしながら、結局いつも同じ場所へ戻る。


「僕は君が好きだった。今も、たぶん好きだ。君のことを大事にしてたって言いたい」


「大事にしてた」は、すぐに空虚になる。

大事にしてたなら、君を追い詰めるようなことはしないし、君の自由を優先する。

だけど、言葉で君を捕らえようとしてしまう。


「君に、赦してほしい。許してほしい。僕の存在を、君に許容してほしい」


舌が歯につき、喉の奥がひりつく。


何か言おうとしたけど、上手い言葉も思い浮かばず、耳鳴りだけが聞こえるから、それを埋めたくて、録画を止めてすぐに君に送る。

送った瞬間は肩の怖ばりが和らぐ、だけど少し経つと、胃に穴が空いた感じがする。救いはいつも短い。


返事は来ない。

僕にあるのは君の沈黙だけだ。

時間は静かに僕を奪っていき、昨日の確信を今日の曖昧に変え、今日の誓いを来週の恥に変える。


数日後、君の友達からメッセージが来る。君が見てくれた事実が少しだけ嬉しい。

けれど、その後に続く言葉が短い。短いから、突き刺さる。


「あの子、言ってた」

送られてきたスクショの中に、君の一言がある。


「関わりたくない」

それだけだ。


説明も理由もないから、余計に逃げ場がない。一瞬「なんで」が喉まで出かける。霞のような期待が、僕を動かしていたけど、正解の僕は消える。背筋が曲がり、ただ天井だけを眺めた。

君が好きだった僕の型が、崩れてしまって、出てきたのは、君に見せるために削ったあとの空洞だった。

僕はそれを、ようやく直視してしまう。


数日この現実を認めたくなくて、スマホの通知だけは鳴るようにして、泥のように布団の中で眠ってた。けれど、受け入れてしまった自分がいた。本当は分かっていた。君のきらめき、君の熱は、僕の所有物じゃない。それなのに、君のそばにいれば、僕の輪郭が保てる気がしたから、僕が僕でいるために、君を必要としてしまった。

だから許しを欲しがった。僕の罪の赦しじゃなくて、僕がここにいていいと言って欲しかった。君の自由じゃなく、僕の生存を保証する言葉が欲しかった。

君が「関わりたくない」と言ったのは、君が君の自由に戻っただけ、僕の都合の外側へ出ただけだ。それが僕には痛いけど、痛むから、ようやく分かった。僕は君を愛していたんじゃなくて、君に救われ続ける自分を愛していたんだと思う。


夜、雪が降り、世界が白くなり、音がなくなる。

僕はコートを着て外へ出る。紺のマフラーを巻いて外に出て、鍵を締める。けれど、マフラーを外して部屋に投げ捨てた。

歩く。どこへ、という場所はなく、ただ足を動かす。外灯も雪で覆われ、息は白く、足音は吸い込まれ、僕は少しずつ薄くなっていく。

消えたって証明にはならないけど、僕は、証明のふりをした逃走を選ぶ。

最後まで自分に甘い僕。それが、君に好かれるために隠した本来の性格だったのかもしれない。


もう戻れないあの思い出の部屋の鍵は閉まっている。

僕しかいない部屋は、最初から空だったみたいな顔をしている。生活の痕跡が減っていき、コップが消え、本が消え、写真が消えた。

君に合わせて作った僕の型みたいに、物が静かに消えていく。


最後に残るのは、角の冷えだけだ。

部屋の隅は、いつも少し暗い。

そこに、紺のマフラーだけが畳まれて置かれる。

丁寧に、角を揃え、編み目の不揃いが、表に出るように。

僕が欲しかった許可は、最後まで得られない。

今度は綺麗な編み目のマフラーをつくるのだろうか。

君が、僕のいない場所で。

そして部屋の隅で、紺のマフラーはただ冬の続きのように沈黙している。

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