旅立て! 離婚宣言貴婦人!

藍条森也

一章 離婚宣言です!

 「東宮寺とうぐうじまさる。本日、ただいま、この場をもって、あなたとの離婚を宣言します」

 ある日突然、なんの前触れもないままに妻にそんな宣言をされてしまったら、夫としてはいったい、どうすればいいのだろう。

 それも、末息子の一五歳の誕生日の席上での出来事だときたら。

 おそらく、この世のいかなる夫族もなにをどうしていいかわからず、ひたすら困惑するだけだろう。

 だから、まさるもそうした。この二〇年、一緒に過ごしてきた妻がいきなり、外見だけはそのままに火星人かなにかになってしまったような、そんな思いで妻を見つめている。

 三人の子ども、一七歳になる双子の長男と長女である勝利かつとし藍子あいこ、それに、本日この場の主役たる次男の勝雄かつおも唖然として、堂々たる離婚宣言を行った母の姿を見つめている。

 「い、いったい、なんのつもりだ⁉ 今日は勝雄かつおの一五歳の誕生日なんたぞ。それなのに突然、そんなわけのわからないことを言い出すとは。それでも母親か。恥を知れ!」

 日頃から亭主関白としてふるまってきたまさるである。このときも妻を支配する威厳ある家長として堂々とふるまい、愚かな妻の軽率な発言をとがめたつもりだった。

 ――まったく、こいつはつくづく愚かだ。だから、おれがいちいち教育してやらなければならないんだ。

 そう思って。

 ――その甲斐あって、なんとかこの歳まで妻として、母として、やってこれたというのに、いきなりこんな訳のわからないことを言い出すとは。どうやら、まだ教育が足りなかったと見える。これから徹底的に教育しなおしてやらないとな。

 まさるは心のなかでそう思い、ようやく余裕を取り戻しはじめた。

 その思いは外見にも表われ、とまどっていた表情が消え去り、相手を捕食しようとする卑しい肉食獣の笑みとなっていた。しかし――。

 妻たるあおいはそんな夫の姿を見ても怖じ気づいたりしなかった。それどころか『ふん!』とばかりに西洋風のドレスをまとった胸をそらし、鼻息ひとつで夫の言葉を跳ね返す。

 その態度、いったいどちらが『主人』なのかという次元だった。

 「『突然』ね。やっぱり、あなたにとっては『突然』なのね」

 「なに……?」

 「あなたにとっては、たしかに『突然』でしょうね。でも、わたしはずっと前から準備してきたのよ。勝雄かつおの一五歳の誕生日たる今日のこの日に、離婚を宣言する。そのためにね」

 「な、なんだ……⁉ どういうことだ、お前はいったい、なにを言ってるんだ⁉」

 「そ、そうだよ、母さん。おれの誕生日に、なに言ってんだよ」

 今日の主役である勝雄かつおも泡を食った様子でそう言った。

 日頃、母たるあおいのことを『くそババア』扱いしている反抗期まっただ中の一五歳とは思えない弱気な態度。

 そのうろたえた姿を鼻でわらいながらあおいはつづけた。

 「まさる。あなたはわたしのことをずっと、使用人扱いしてきたでしょう。この秋津あきつくにでも有数の大家族である東宮寺とうぐうじ家。その血を継いでいるからと言って、平民出のわたしをずっと見下し、馬鹿にして、都合のいい存在として扱ってきた。平気で『ババア』と呼び、女遊びを繰り返す。

 だから、わたしも住み込みの使用人と割りきって『仕事』をつづけてきた。それが、あなたには『従順で反攻できない奴隷妻』に見えていたことでしょうね」

 「な、な……」

 図星を指され、まさるは声を出すこともできなかった。

 こんな毅然とした態度の妻は、いままで一度だって見たことはない。まさるの隣では三人の子どもたちも一様に、唖然とした様子で自分たちを嘲笑あざわらうかのような母の姿を見つめている。

 「実際は、東宮寺とうぐうじ家の出身とは言っても妾腹しょうふくの五男。正妻の子どもたちから邪魔にされて、ていの良い役職を与えられて放り出されただけの小物のくせにね。

 おかげで収入も少なくて、『大華族の出だ!』なんていばっているくせに使用人ひとり雇えない。家事と育児のすべてを妻ひとりに押しつけて、晩酌だけが楽しみっていう庶民暮らし。ああ、いえ、ごめんなさい。そんな小物だからこそ、大物ぶらないとプライドを保てなかったのよね」

 「なんだと⁉」

 思わず激昂げっこうしてどなるまさるを、あおいはますます『ふん!』とばかりに見下した。その様子、まるで、貴族令嬢と下町のゴロツキのよう。

 「本当。器の小さな男なんて哀れなものよね。男社会で勝つことができないから、女相手にいばりちらして自尊心を保とうだなんて。そのみじめな姿にはこの二〇年間ずっと、笑わせてもらったわ。

 でも、それも今日でおしまい。いままであなたの妻でいたのは社会のために子を生み、育てることが女の責任だと思っていたから。でも、末っ子の勝雄かつおでさえ一五歳になったんだからもう充分。責任は果たしたわ。これからは、わたしの好きなように生きることにしたの」

 「な、なんだよ……⁉ それじゃまさか、離婚してこの家から出て行くって言うのかよ⁉」

 「そのとおりよ、勝利かつとし。父親に似て、母親相手にどなりちらすことしかできない粗野な子どもだと思っていたけど、それがわかる程度には知恵がまわるのね。安心したわ」

 「なっ……」

 言葉を失った父親にかわって非難した長男の勝利かつとしだったが、さらに辛辣しんらつな母の言葉によってこちらも言葉を失った。その上、顔色を白黒させて、いまにも泡を吹いて倒れそう。

 すると、今度は長女の藍子あいこが叫んだ。

 「ちょっと! いくらなんでも無責任じゃない! あんたは、わたしたちの母親なのよ⁉ それなのに、三人の子どもを放り出して出て行くなんて身勝手にもほどがあるじゃない!」

 「あら。その母親相手にさんざん『邪魔!』だの『ウザい!』だのと言ってきたのは誰だったかしら?」

 「そ、それは……」

 「勝雄かつお。あなたもよ。『反抗期』なんて便利な言葉にかこつけて、いままでさんざん『くぞババア』扱いしてくれたわよね。そんな態度で、いつまでも愛してもらえると思う?」

 はっきりとそう言われて勝雄かつおは言葉を失った。口をあんぐり開けた間抜け面で『くそババア』を見つめている。

 「ともかく」

 と、あおいは言った。

 肩をすくめながら立ちあがった。

 四二歳という年齢ながら家事に育児に日々、奮闘してきた成果だろう。西洋式のドレスに身を包んだ背筋はピンと伸び、肌もなお若々しい。実年齢よりずいぶんと若く見えるのはまちがいない。

 「わたしはあなたとは離婚する。この家も出て行く。あとは好きにして。邪魔なくそババアがいなくなって、あなたたちもせいせいするでしょ。お互い、きらいな相手とは縁を切って、楽しく暮らしていきましょう」

 「な、なんだよ、それ⁉ まさか、本当に子どもを見捨てるのかよ? 母親のくせに……」

 母親のくせに。

 その良識にしがみついて非難する勝雄かつおに向かい、あおいはこれ以上ないほどに冷たい笑みを向けた。

 その表情を見た勝雄かつおたち三人の子どもがたちまち、コブラににらまれたネズミと化したのは言うまでもない。

 「そうね。『母親』として最後にひとつ、人生で一番、大切なことを教えてあげる」

 あおい勝雄かつおに近づいた。

 冷たい笑みのまま顔をよせ、そっと耳打ちした。

 「人間、勝手なことばかりしていれば母親からも見捨てられる」

 そうささやかれたときの勝雄かつおの絶望の表情。それはまさに、世界中の画家という画家が絶望の表現として学びたいと思うようなものだった。

 そうして、あおいまさるの家から出て行った。

 『大華族の屋敷』というにはあまりにもみすぼらしい、ごくごく庶民的な家から。

 世界はあおいの旅立ちを祝福していた。

 女としての義理と責任とを果たし、自分のための人生に旅立とうとしているひとりの人間を迎えるために、空はどこまでも青く澄みわたり、黄金の太陽が世界を照らし出している。心地良い風が頬を優しくくすぐっていく。

 「う~ん」

 と、あおいは思いきり伸びをした。

 その顔に浮かぶ笑み。

 それはまさに『解放』と題された女神像そのものだった。

 「さあ! 女一匹、四二歳! これからようやく自分の人生のはじまりよ!」

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