第4話 逃避行のプレリュード ― 境界線を越える夜


 深夜の国道。街灯の光が、猛スピードで走り抜ける救急車の車内を規則的に、そして冷淡に照らし出していた。

 サイレンの音は既に切られている。赤色灯の反復する残光だけが、車内に閉じ込められた六人の顔を、まるで古い映画の断片のように切り取っていた。


 助手席に座る一条誠は、さきほどの爆発的な笑いの余韻を噛み殺すように、ネクタイを乱暴に緩めていた。彼の膝の上には、数億円の価値がある情報が詰まった有栖川グループの端末がある。だが、彼はそれを開こうとはしなかった。


「……海野さん。一点だけ訂正させてください。私は『負けた』のではありません。あなたの無秩序に、一時的に同調しただけです」


 一条の声は、まだ少し震えていた。長年、規律という名のコルセットを締め続けてきた男にとって、自分自身の意志で「嘘」をつき、組織を裏切ったという事実は、劇薬のように彼の意識を覚醒させていた。


「いいよ、勝敗なんて。それより一条さん、そのタスキ、まだ肩にかかってるよ」

 後部座席でアリスの隣に座る楽が、ひょいと前を指さした。


 一条はハッとして自分の肩を見た。商店街の福引で当たった『開運・招き猫』のタスキが、場違いな誇りを持って彼の胸に鎮座していた。 「……っ!」

 一条はそれを引き剥がすと、丸めて足元に投げ捨てた。その一連の動作の荒っぽさに、運転席でハンドルを握る羽奈先生が低く笑った。


「いいじゃないか、似合ってたよ。エリートの皮を剥いだあんたは、案外、こっち側の人間なのかもしれないね」


「……冗談はやめてください。私は今、人生で最大の過ちを犯している自覚がある。お嬢様を、身元不明のフリーターや元ボクサー、身持ちの悪い医師と共に連れ回すなど、正気の沙汰ではない」


 車内には、沈黙が流れた。

 だが、その沈黙は昨夜までの重苦しいものではなかった。

 アリスは、楽の肩に頭を預けたまま、流れる夜景をじっと見つめていた。彼女の瞳には、かつて有栖川の邸宅にいた時には決して宿ることのなかった、未来に対する「怯え」と、それを上回る「好奇心」が灯っていた。


「ねぇ、楽。私たちは、どこへ行くの?」  アリスの問いに、楽はギターのケースを愛おしそうに撫でながら答えた。


「さあね。風が吹く方か、あるいは、追っ手が一番来たくない場所かな。……凛、君はどうする? 次のインターで降りれば、まだ『巻き込まれた被害者』で通せるよ」


 話を振られた星野凛は、膝の上で拳を固く握りしめていた。

 彼女は、この車内で唯一、真っ当な将来を目指していたはずの人間だ。公務員試験、安定した生活、周囲の期待。それらすべてが、時速百キロで遠ざかっていく街の光の中に消えていこうとしていた。


「……被害者? 笑わせないでよ」

 凛の声は震えていた。だが、そこには確かな拒絶の意志があった。

「あんたみたいな無責任男に、この子を任せておけるわけないじゃない。私がついていかなきゃ、あんたたち、明日の朝ごはんの栄養バランスすら考えないでしょ」


「あはは。凛はやっぱり、俺の最高の『責任者』だね」


 楽の軽口に、凛は鼻を鳴らした。だが、彼女の頬には、少しだけ安堵の朱が差していた。彼女は気づいていたのだ。海野楽という男は、自分が支えてあげなければならない「ダメな男」なのではなく、自分が寄りかかるための「広すぎる空」のような存在なのだと。


「おい、海野! 湿っぽい話はそこまでだ。後ろを見ろ!」

 車内の最後尾で、双子とトランプをしていた小次郎が、鋭い声で警告を発した。


 救急車の後方。闇の中から、三対の鋭いヘッドライトが浮かび上がった。

 それは有栖川の息がかかった傭兵たちのSUVではない。より洗練された、そして執拗な「組織」の動きだった。


「……あれは、有栖川重蔵理事が直轄する『掃除屋』です」

 一条が、再び冷徹な表情に戻った。

「お嬢様を連れ戻すのではなく、不都合な真実ごと『消去』することを選んだようですね。私の端末のGPSは切りましたが、彼らは街中の監視カメラをジャックできる。……海野さん。ここからは、あなたの『無責任な奇策』とやらが、何人分の命を救えるかの勝負になりますよ」


 楽は、背負っていたギターケースをゆっくりと開いた。

 中から出てきたのは、武器でもなければ、最新のガジェットでもない。

 ただの、一本の古いカセットテープだった。


「一条さん。……この街の一番古いラジオ局、知ってる?」


「ラジオ局? それが何の役に――」


「責任っていうのは、一人で抱えるから重いんだよ。……みんなに分けちゃえば、それはただの『お祭り』になる」


 楽はカセットテープを、救急車の古いデッキに差し込んだ。

 スピーカーから流れてきたのは、楽がいつも歌っていたあの「鼻歌」を、街のノイズと共に録音した、ひどく不明瞭なメロディだった。


「……さあ、始めようか。全宇宙……じゃなかった、全市民を巻き込んだ、最高の無責任パーティーを」

共鳴するノイズ、あるいは無責任な祝祭


 救急車が目指したのは、街の北端、小高い丘の上に建つ古い電波塔だった。

 そこには、かつて地域密着型で親しまれ、今は廃止寸前のコミュニティFM局『ラジオ・ソヨカゼ』がある。


「海野さん、本気ですか。公共の電波を私物化するなど、放送法どころか……」

「一条さん、堅いこと言わない。法を破るんじゃないよ、法が俺たちの楽しさに追いついてないだけさ」


 楽は笑いながら、羽奈先生の強引な運転で急停車した救急車から飛び出した。

 深夜のスタジオ。守衛すら居眠りしている静寂の中に、一行はなだれ込んだ。


「凛、放送機材のチェックお願い。小次郎くん、入り口のバリケード。ユミ、エミ、君たちはSNSで『今夜、世界が変わる音がする』って拡散して。……一条さんは、そうだな。その辺の椅子に座って、自分の人生が壊れる音でも聴いててよ」


 楽の指示は、一見デタラメでありながら、不思議な説得力を持って全員を動かした。

 凛は「もう、本当に知らないんだから!」と叫びながらも、持ち前の几帳面さでミキシングコンソールのスイッチを次々と入れていく。


「……マイク、生きてる。楽、あと五分で電波に乗るわよ。……本当にいいのね? これで、あんたは完全に『お尋ね者』よ」


「最高だね。一人で逃げるのは寂しいけど、街中の人と一緒なら、それはパレードだ」


 楽はスタジオの椅子に座り、マイクの前に古ぼけたギターを構えた。

 隣には、不安と高揚が混ざり合った表情のアリスが座っている。彼女はヘッドセットから流れる微かなノイズに、自分の心臓の鼓動が重なるのを感じていた。


「一条。……私は、歌うわ」

 アリスが、スタジオのガラス越しに一条を見つめて言った。


「お嬢様……」

 一条は、その瞳を見て悟った。もはや、どんな論理も彼女を止めることはできない。彼は静かに目を閉じ、有栖川から支給された暗号化端末を、自分の足で踏み潰した。 「……勝手になさい。私は、その無責任な騒音に耳を貸すほど、暇ではありませんので」

 そう言いながらも、一条はスタジオのモニターボリュームを、最大まで上げた。


【深夜二時。街が「共鳴」を始める】

 スピーカーから、乾いたアコースティックギターの音が響いた。

 そして、楽のひょうひょうとした声が、街中のラジオ、深夜営業のコンビニ、タクシーの車内、そして寝静まった住宅街のスマートスピーカーへと滑り込んでいく。


『――こんばんは、迷子の皆さん。夜は長いし、責任は重いし、将来は暗い。……だよね? でもさ、ちょっとだけ、この唄を聴いてみて。意味なんかない。ただの鼻歌だよ』


 楽が爪弾く、あのメロディ。

 そこに、アリスの透き通るような、それでいてどこか切ない歌声が重なった。


「……ふん、ふふん。ふふーん。……どこへ行くの。……星が降る場所へ……」


 その瞬間、追撃していた「掃除屋」たちの車内で異変が起きた。

 彼らの高度な追跡システムが、突如として機能不全に陥ったのだ。


「何だ!? 周辺の全デバイスから同じ周波数のノイズが発生している! 監視カメラの映像が……っ、市民がみんな鼻歌を歌いながら、同じ方向に歩き出しているぞ!」


 楽の仕掛けは単純だった。ユミとエミが拡散した

「この唄を口ずさみながら北へ向かえば、有栖川の秘密のクーポンが手に入る」

というデマ(無責任な嘘)と、楽の唄が持つ不思議な中毒性が、深夜の街の人々を「生きた煙幕」へと変えたのだ。


 パジャマ姿の学生、仕事帰りのサラリーマン、夜遊び中の若者たち。

 彼らが皆、スマホを掲げ、同じメロディを口ずさみながら路上へ溢れ出す。

 有栖川の「掃除屋」たちは、千人、二千人と膨れ上がる群衆の中で、どれが本物のアリスなのか、その識別能力を完全に失った。


「……海野、お前って奴は……」

 モニター越しに、小次郎が呆れたように呟く。


「すごい。……ねぇ、楽。世界が、笑ってるみたい」

 アリスが歌いながら、涙を浮かべて笑った。


 スタジオの片隅で、羽奈先生がウィスキーを回し、満足げに目を細める。

「責任ある大人たちが必死に作ったシステムを、一文にもならない鼻歌がぶち壊す。……痛快だね。これこそが、あんたの真骨頂か」


 だが、その祝祭の裏で、一条誠だけは気づいていた。

 この「無責任な煙幕」が晴れるまで、時間はそう長くはない。有栖川重蔵理事は、さらに残酷な、そして物理的な「消去」の準備を始めているはずだ。


「……海野さん。パレードの後は、どうするつもりですか」

 一条がマイク越しに問いかける。


 楽はギターの最後の一音を鳴らし、窓の向こうで輝く電波塔の赤色灯を見つめた。

「一条さん。お祭りの後は、後片付けが必要だよね。……でも、その前に。もう一箇所だけ、寄りたい場所があるんだ。――アリスちゃんの『本当の家』にね」


第三章:深まる謎と決意(展開の予感)



Maybe it will continue?


▶▶▶▶▶▶▶▶

【作風:方向性思案中】


詠み専からの執筆の若輩者です。

これまで作品の拝読と我流イラスト生成がメインでした。

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  宜しくお願いします。 


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