◆ episode8.
付き合う、と口にした翌日から。
世界の見え方が変わった、
というほど大げさじゃない。
ただ、周囲の解釈だけが勝手に整った。
「まつり愛されてんね!」
昼休み、廊下でそう言われて、まつりは笑った。
「そう見える?」みたいな、軽い笑い。
俺は何も言わない。否定も肯定もしない。
愛されてるか、愛しているか、
と聞かれると、少し違う。
俺がしているのは、
甘やかしでも熱でもなくて、
この子の輪郭が世界から薄れないように、
位置を固定することだ。
でも外から見れば、たぶん幸せそうだ。
不思議なくらい。
・
放課後、坂の上でまつりが言った。
「歩くのだるい」
俺の自転車を見て、
当たり前みたいに前へ出る。
後ろの荷台に腰を乗せようとするから、
思わず止めた。
「危ない。軽いし。」
「大丈夫。」
軽いのは体重の話じゃない。
その軽さが、昔は怖かった。
結局、乗せようとしたら
「朔が乗って」と言い出した。
俺は笑う。
そのまま従う。
まつりは
「掴まって」と言うと、
一気に立ち漕ぎで坂を駆け抜けた。
潮風が心地いい。
「重くない?」
と聞くと
まつりは
「重い。」
と真面目に返す。
海からの風が一気に来た。
夕方の光が、道路の端で跳ねる。
まつりが笑った。
「速い」
「坂だからな」
「じゃあもっと」
「調子乗んな」
そう返しながら、
俺も少しだけ笑ってしまう。
これだけで、恋人に見える。
制服、二人乗り、夕方、海へ向かう。
絵に描いたように。
でも俺は知っている。
これは告白の成就じゃない。
二人だけの契約の、運用開始だ。
・
公園に寄った日もあった。
遊具が半分だけ錆びてる、住宅街の小さい公園。
ブランコにまつりが座って、足で地面を蹴る。
大きくは揺れない。
ただ、気まぐれに揺れている。
「付き合ってるとさ、
こういうとこ来ても変に見られないね」
言い方があまりにも事務的で、笑いそうになる。
「便利だな」
「うん、便利」
それがまつりの本音だ。
俺の本音も、似たようなところにある。
俺たちは“好き”より先に、
“いまのままでいられる形”を優先した。
コンビニで買ったアイスを半分ずつ食べて、
溶けた分だけ指が甘くなる。
まつりは指先を見て言った。
「最悪」
「アイスはそういうもん」
「恋人っぽいことしてる?」
「してない」
「だよね」
笑って、またブランコを蹴る。
幸せそうに見えるのは、たぶん本当だ。
ただ、それが
“恋の幸せ”かと言われると違う。
・
海で遊ぶ日は、
だいたい無言が増える。
波打ち際で靴を脱いで、
足だけ濡らして、また引く。
まつりが急に走って、波から逃げる。
逃げきれなくて濡れて、笑う。
その笑いが、夕暮れの粒に混じる。
俺はタオルを差し出す。
まつりは受け取って、雑に頭を拭く。
その仕草が、やけに子どもっぽい。
(ここに置いておく)
俺の中で言葉にならない何かが、
淡々と繰り返される。
守る、とは少し違う。
抱きしめる、とはもっと違う。
“消えない位置にいる”という状態を、
ただ更新する。
それを外から見たら、優しい彼氏になる。
便利な誤解だ。
・
映画にも行った。
駅前の小さいシネコン。
ポップコーンの匂いと、暗闇の安心。
まつりは途中で眠くなって、
少しだけ目を細めた。
肩にもたれてはこない。
でも、腕の位置が近くなる。
その程度の接触が、逆に現実的だ。
上映が終わって明るくなると、
まつりが言った。
「で、あれ何が言いたかったの」
「知らん」
「恋人なら語るべきじゃない?」
「面倒」
「それな」
二人で同時に言って、笑った。
恋人っぽい会話をしているようで、
中身はただの雑談だ。
それでも、誰かから見れば
“相性がいい”に分類される。
・
友達はよく言った。
「まつりは今日も、愛されてんね〜」
まつりは笑って、適当に受け流す。
俺も黙っている。
訂正はしない。説明もしない。
愛という言葉は、熱が強すぎる。
俺たちの間にあるのは、
もっと薄くて、もっと確実なものだ。
まつりは俺といるのが楽しい。
でも、恋人として努力する気はない。
面倒だから、
そういうことにしておくのが一番気楽。
それを本人が隠しもしない。
俺は俺で、
この子を“いつかの何か”のために、
世界に係留しておきたい。
捕獲という言い方がいちばん近い。
優しさではなく、正確さ。
その契約書には、
署名欄が二つしかない。
見せる相手もいない。
・
それでも、
夕方の海で笑っているまつりを見ていると、
一瞬だけ思う。
――これを、愛と呼ぶ人がいるのもわかる。
でも俺は呼ばない。
呼んだ瞬間、形が変わる気がするから。
波が光を砕く。
風が髪を揺らす。
二人乗りの帰り道、星が増える。
はたから見れば、
ただ幸せそうなカップル。
その見え方の中で、
俺たちは今日も静かに契約を更新する。
「今日、帰る?」
「帰る」
「じゃ、送る」
「うん」
それだけでいい。
その“それだけ”が、
消えないように。
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