◆ episode3.

「まつり」


名前を呼んだあとの空気は、

薄い膜みたいに指先に残っていた。

帰り道、街の色が変わっても、

頭の奥だけがまだ青い。


昨日まで、

放課後は放課後でしかなかった。


今日も同じはずだった。

授業が終わって、靴を履き替えて、

夜に向かう。

九条と合流して、いつもの場所へ行く。

それだけ。


でも、その日は違った。


チャイムのあと、三階へ上がった。

理由はない。

ただ、光の入り方が気になった。

自分でもわかる。

こういうのは、だいたい嘘だ。


廊下の窓から差す夕方の光は、

粒が細かかった。


空気の中に浮いた埃が、

きらきらと発光して見える。

黄昏は、世界をやたら丁寧にする。

普段は雑に流しているものまで、

輪郭を持たせてしまう。


歩いているだけで、足音が薄くなる。

教室の扉のガラス越しに、机の天板が淡く光っている。

黒板の緑が、ひどく深い。


そして、見えた。


教室の真ん中あたりに、まつりがいた。


一人。


机に肘をついて、窓の外を見ている。

誰かを待つ気配はない。

何かを考えている顔でもない。

ただ、光の中に置かれている。


昨日、昇降口で見た“余白”が、

今日はもっとはっきり形になっていた。


まつりの輪郭は黄昏に溶けかけているのに、

瞳の奥だけが冷たく澄んでいる。

そこにだけ、青が残っている。


足を止めた。


(……やっぱり)


胸が高鳴るというより、

思考が静かに固まっていく。

カメラを構えるときのあの感覚に似ている。


息を止めて、

ピントを合わせる前の、

短い無音。


教室の中で、

風がカーテンを揺らした。

薄い布が膨らんで、また落ちる。

その動きに合わせて、

光が一瞬だけ揺らぐ。


まつりの髪が、淡く動いた。


それだけで、何かが確信に変わった。


この子は、放っておいたら消える。


泣かない。

壊れない。

助けを求めない。

だからこそ、

誰にも拾われないまま、すり減っていく。

“幸せそう”な顔のまま、何も残らない。


そういう消え方を、俺は知っている。


自分だって、

そのルートを何度も想像した。


騒がず、傷も負わず、波風も立てず、

気づいたら、誰の記憶にも強く残らないまま終わる。


それは不幸じゃない。

ただ、あまりにも静かすぎる。


扉の前で、指先を軽く握った。

教室へ入るべきかどうかじゃない。

入らなくても、もう決まってしまった。


(……捕まえないと)


恋じゃない。

好きとか嫌いとか、その手前ですらない。

これは、もっと生理的で、もっと本能的。


まつりが、ふと視線を動かした。

廊下のガラス越しに、

気配に気づいたのかもしれない。

目が合う。


驚かない。

焦らない。

ただ、こちらを見ている。


昨日と同じだ。

「ああ、あなたでしたか」

という、意味のない肯定みたいな視線。


それが、やけに危険に見えた。


人を引き留める力があるのに、

本人は使う気がない。


触れたものを燃やすのに、

本人は火を持っていない。


青い炎のまま、

静かに揺れている。


喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。


触れたい、じゃない。

確かめたい、でもない。


ただ、これは見過ごせない、という感覚。


まつりが口を開く。


「……朔くん?」


名前を呼ばれた。

それだけで、

世界が一段階だけ現実になる。


「うん」


たった一音。

余計な言葉を足さない。


まつりはそれ以上言わず、

また窓の外に目を戻した。

会話を続けようともしない。

突き放しているわけでもない。


ただ、そこにいる。


その沈黙を、礼儀として受け取った。

彼女は、過度に優しくない。

だからこそ、残酷でもない。


廊下に戻ると、

校舎の奥から部活の声が聞こえた。

世界はいつも通り動いている。

でも、何かが静かに切り替わっていた。


(今日からだな)


たぶん、明日から。


「付き合って?」

と聞く。


毎日、違う言葉で。

圧にならないように。

逃げ道を塞がないように。


それでも確実に、

“ここにいる”を更新するために。


九条の顔が浮かぶ。

夜の街の余裕と、獣みたいな目。

火を持つ男。


でもまだ、九条に触れさせるには早い。


まずは、世界に係留する。

この青が、勝手に消えないように。


階段を下りながら、

ポケットの中でスマホを握った。

九条からのメッセージが来ている。


「今日、夜いくぞ」


短く返す。


「了解」


そして、

誰にも聞こえないくらい小さな声で、

もう一度だけ呟いた。


「……まつり」


黄昏の教室に置かれていた青は、

今夜のネオンとは違う種類の光だった。


その光を、胸の奥にしまう。


明日から始まる何か、のために。

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