観測と持ち越し

不思議乃九

観測と持ち越し

■ 観測者と生成される世界


年の瀬の冷たい空気が窓の外で唸りを上げている。先ほど、私は年金事務所の職員、吉田の罪悪と職務の間に揺れる感情を、画面の奥へと封じ込めたばかりだ。文字数は五千。iPhoneの小さなキーボード上で、指を滑らせ、五千文字の物語を紡ぎ出す作業は、指先に残るわずかな熱として、今もなお感じられる。


一区切りついた満足感と、長い集中から解放された疲労感が同時に押し寄せた。


傍らのテーブルに置かれたのは、近所の薬局で何となく手に取ったアサイーのドリンク。鮮やかな紫色をしたそれは、健康志向のブームに乗って棚の目立つ位置に陳列されていたものだ。私は、プラスチックのキャップをひねり、ごくりと喉を鳴らしてそれを飲み干す。


「ふむ、酸味と、ベリー系の甘さか」


正直に言って、アサイーが一体どのような植物で、どこで生まれ、どのような効能があるのか、その詳細な情報は何一つ知らない。しかし、この冷たい液体の色、薬局の棚での立ち位置、パッケージに書かれた「スーパーフード」というキャッチコピー、そしてその複雑な酸味と甘さのバランスから、私はその本質をニュアンスで捉えている。これは「健康に良く、活動的なエネルギーをくれるもの」だ。


誤飲ではない。私はアサイーを「知らなくても」アサイーを摂取している。必要なのは、その化学組成ではなく、その社会的・感覚的な役割を把握することだ。


ドリンクを飲み干し、iPhoneをテーブルに置く。画面は、先ほどまで吉田の物語が繰り広げられていたメモアプリから、ホーム画面へと戻っている。


■ ローグライトのリアリティ


次に手を伸ばすのは、傍らに控えていたNintendo Switch 2だ。つい最近発売されたばかりのその携帯ゲーム機は、以前のモデルよりも遥かに洗練されたデザインと、なめらかな操作性を持っている。スリープ状態を示す小さなランプが点滅しているのを確認し、電源ボタンを押す。


画面が瞬時に立ち上がり、私が現在熱中しているローグライトゲームのタイトル画面が表示される。


このゲームの魅力は、その自動生成される世界にある。


私はローグライトというジャンルを愛している。

ローグ「ライク」とローグ「ライト」。


その違いは、単なる語感の差ではない。ローグライクが「死んだら全てを失い、プレイヤーの観測スキルと知識のみが唯一の恒久的な強化となる」という硬派な哲学を持っているのに対し、ローグライトは「死に戻り形式で、通貨や素材、あるいは何らかの永続的なアップグレードがシステム的に持ち越される」ことを前提としている。


今プレイしているゲームもそうだ。毎回ダンジョンの構造、敵の配置、手に入るアイテムのシナジーは一新される。しかし、前回獲得した経験値の一部で「HPの初期値を上げる」とか「新しい武器種をアンロックする」といった、プレイヤー自身の観測スキルだけではない、永続的なキャラクターの強化が可能だ。


私はコントローラーを握り、ダンジョンへの潜入を開始する。


「ああ、またゲームが自動で世界を生成し、私はそれを観測する。」


毎回、生成される世界は新しい。前回は炎属性の魔法使いとして、遠距離からの安全な攻撃で進んだ。今回は、防御力の高い盾と、敵の隙を突く短剣を持った近接戦闘のビルドにしよう。


画面の中で、私が操作するキャラクターが、石畳の通路を進む。角を曲がるたびに、新しい部屋、新しい敵、新しい宝箱が、アルゴリズムによって配置されている。私は、その生成された世界を、ただひたすらに観測し、その法則性を読み解き、対応していく。


■ 脳内の世界線生成機


しかし、ゲームをプレイしながら、私の脳は遊んでいるわけではない。


ゲームのアルゴリズムが、ランダムな要素から一貫した世界を生成するように、私の頭の中でも、別の世界線が勝手に浮かび上がり、取り出されている。


このローグライトが、死に戻りによる強化(メタプログレッション)を許しているのは、極めて現実的なことではないか、と私は夢想する。


現実の世界、例えば私が小説を書くという行為も、まさにローグライトだ。


小説を一つ書き上げる(一回の「ラン」)。


→ 死(完成):物語は一旦終わり、キャラクターや世界はリセットされる。

→ 持ち越し要素(ライト):しかし、私はその物語を通じて、文章の新しいリズム、キャラクター造形の手法、プロットの破綻を防ぐ知識といった、スキル以外の、より具体的な手法や辞書登録(後述する)といった外部システムを強化している。次の作品は、前の作品の「失敗」と「成功」を持ち越して、より洗練されたものとして生成されるのだ。


ローグライクが「プレイヤーの純粋な能力」に依存するならば、それはまるで生まれ持った才能だけで勝負する世界のようだ。だが、ローグライトは「死を通して蓄積されたシステム全体の強化」を許容する。


「死に戻り形式で強化されるのはプレイヤーの観測スキルだけでないので、より現実的。」


私は、ゲームのキャラクターが敵を倒し、新しい「オーブ」を獲得するのを見ながら、この思考をさらに深める。ローグライトは、努力や経験が、才能とは別に蓄積され、次の機会に反映されるという、現実の学習サイクルのメタファーなのだ。


この種の夢想は、私にとっての最も重要な「ビルド」だ。ゲームはただのトリガーであり、私の脳内で新しい世界線、新しい解釈、新しいプロットの可能性が、ランダムに、しかし一貫した法則(創作意欲)に従って、次々と生成されていく。


■ 閃きの連鎖


画面上のキャラクターは、今、新しい階層へ降りたところだ。まだ1プレイはまだ10分程度。集中力の持続が必要なボス戦はまだ遠い。


その時、脳内の世界線生成器が、突然、高出力で稼働し始めた。


先ほどの年金事務所の小説の残滓と、ローグライトの「死に戻りによる強化」という概念が結びつく。


・吉田の物語(ラン1):年金事務所の吉田は、制度という「巨悪」の歯車として、罪悪感を感じながらも職務を遂行した。


・ローグライトの概念(メタ):この「巨悪」は、誰か一人の人間ではなく、社会のシステム、つまり「アルゴリズム」によって自動生成されている。吉田の苦悩も、制度維持という目的を持つアルゴリズムによって生成された感情ではないか?


・新しいアイデア(ラン2のテーマ):「システムに組み込まれた人間が、そのシステムの矛盾や不条理を、まるでゲームのバグや理不尽な難易度のように観測し、死に戻り(例えば異動や辞職)でスキルではなくシステム自体を強化していく物語」はどうだろうか。


閃きは、熱を伴って私の頭の中で火花を散らした。これは、既存の小説にはない、新しい視点だ。


私はすぐさま、ローグライトのコントローラーから手を離した。


キャラクターは、静止したまま、画面の中で敵の巡回を待っている。


■ 秘匿された辞書の暗号


私は、テーブルの上に置いてあったiPhoneを再び手に取る。まだ指紋の跡が残る画面をスワイプし、メモアプリを開く。


他の誰も思いつきもしない、一生思いつきもしないユーザー辞書の使い方。これが私の創作における最大の秘密兵器であり、「持ち越し要素(ライト)」の中核だ。


通常の小説家は、執筆速度を上げるために、単語や定型句をユーザー辞書に登録する。例えば、「主人公の名前」「よく使う専門用語」「風景描写のフレーズ」などだ。


私の使い方は、違う。


私のユーザー辞書に登録されているのは、単なる単語ではない。それは、私が過去の作品や、日常の夢想の中で掴み取った、「概念の核」であり、「情景を一瞬で呼び出すためのトリガーコード」なのだ。


例えば、

・「あさ」と打つと、「_{\text{あさぎ}}」や「_{\text{あさや}}」といった文字変換候補と共に、「朝の光が窓ガラスに反射し、埃の粒子が黄金の雨のように舞う」という、複雑な情景描写が一瞬で入力される。


・「きょ」と打つと、「_{\text{きょがく}}」「_{\text{きょうじん}}」といった候補と共に、「この巨大な社会システムは、個人の意思とは無関係に、冷酷な数学的真理に基づいて動き続ける」という、私の小説に頻出する哲学的なテーマ文が展開される。


つまり、私は、一文字の入力で、その瞬間に頭の中に浮かんだ曖昧な「ニュアンス」や「抽象的な核」を、既に最適化された五百文字の文章に変換して、一気にメモアプリに産み落としていくのだ。


これは、観測した世界の法則を、瞬時にプログラミング言語に変換して、次の世界を構築するような感覚だ。


■ 世界の観測者、世界線の構築者


私は、新しい小説のテーマ、「システムに組み込まれた人間の苦悩」を、この特殊な辞書を使って猛烈な速度で書き始めた。


「しす」と入力する。


> 「システムの冷徹な論理は、人間的な感情や倫理を一切考慮しない。それはただ、最適化された解を求め、その過程で生じる不条理や痛みをノイズとして扱う。そして、そのノイズを処理する役割を担うのが、私たち末端の職員だ。」


「ゆめ」と入力する。


> 「これは、死に戻りによって、プレイヤーのスキルではなく、世界のルールそのものを書き換えていくローグライトの物語に酷似している。私たちは、この不条理なルールから抜け出すために、死(失敗)を繰り返しながら、次の生(機会)へと持ち越せる知恵と辞書を蓄積しなければならない。」


指は保護ガラス上を猛スピードで滑り、文章は、考えるよりも早く、具現化されていく。


私は、アサイーの本質をニュアンスで捉えたように、この新しい物語の「核」を、辞書という名の自己生成型データベースを通して、即座に、具体的な文章へと結晶化させている。


その結晶化の速度と密度は、他の人には決して真似できない。なぜなら、その辞書の中身は、私の過去の全ての思考、読書、経験、そして夢想の履歴に基づいて構築された、私だけの脳内アルゴリズムだからだ。


■ 静寂への回帰


私は、無我夢中で新しい世界線をiPhoneのメモアプリに構築し続ける。新しい主人公、新しい設定、新しい苦悩。全てが、先ほどのローグライトのプレイ中に閃いた「観測と強化」のメタファーの上に成り立っている。


集中が極限に達したとき、私は初めて、自分の周囲の音の欠如に気づいた。


「あれ?」


傍に置いていたNintendo Switch 2の画面は、いつの間にか暗くなり、スリープモードに戻っていた。プレイ開始から時間が経ち、操作がなかったために、システムが自動で電源を落としたのだ。当然、スピーカーから流れていたはずのゲーム内のBGMや効果音は無音になっている。


ローグライトの世界は、私が目を離した瞬間に静止し、深い眠りについた。


しかし、私の世界は、今、まさに起動し、生成の最中にある。


私の脳内で生成された世界線が、iPhoneの画面上で現実の文字へと変わっていく。ゲームは静寂に包まれ、その代わりに、新しい物語の胎動が、この部屋を満たしていた。


私は、新しい創作のランを始めたばかりだ。次に私が死に戻り(完成)を迎えたとき、私はまた、どんな新しいシステム的な強化を、この「ユーザー辞書」という名の秘密のデータベースに持ち越すことになるのだろうか。


私は、新しい物語の最初の一行を満足げに見つめ、さらに次の行を書き込むために、指を動かし続けた。


【了】

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