第2話 伝説の古参モデレーター「名無しさん」の仕事


寝不足の朝ほど、家の音がやたら鮮明に聞こえる。


味噌汁の湯気が立つ音。

箸が皿に当たる音。

そして――隣の部屋のドアが閉まる音。


昨夜、俺はほとんど眠れていない。


隣の部屋で配信していた“クリス”が、娘だった。

その事実が、頭の中で何度も再生される。


「……おはよ」


娘が台所に入ってきて、何事もなかったように冷蔵庫を開けた。髪は軽く結ばれ、部屋着のまま。目の下にうっすら疲れが残っている。


(何事もなかった、わけがないだろ……)


俺は「おはよ」と返して、味噌汁をよそう。

父親として問い詰めるのは簡単だ。「何やってる」「危ない」「やめろ」。

でも、その瞬間に娘が逃げる未来も、容易に想像できた。


配信も、家も、俺も捨てて。

見えない場所へ行く。そうなったら、守れない。


だから――まずは守る。

父としてじゃなく、裏方として。


「今日、研修のあと残業になるかも」


娘がパンをかじりながら言う。


「……またか」

「仕方ないでしょ。新人だし。青葉ソリューションズ、今どこも忙しいんだって」


青葉ソリューションズ。


その単語が、味噌汁の湯気より重く落ちた。


(その名前は、ネットで出すな)


喉まで出かけた言葉を、俺は飲み込む。代わりに父親として無難なところに落とす。


「無理すんな。遅くなるなら連絡しろ」

「はーい」


その「はーい」が、昨夜の「こんくり〜」に勝手に繋がってしまって、頭が痛くなる。


---


会社に着くと、俺は俺で、いつも通りの顔になる。


メール。会議。調整。謝罪。確認。

人の感情と期限を同時に扱う仕事は、正直得意じゃない。


だが――似ている。


コメント欄も、会議室も。

荒れる前に火種を見つけて、空気を壊さずに処理する。

正論を叩きつけるより、場が持ち直す言葉を置く。


昼休み、スマホを開く。クリスの通知は来ていない。

なのに俺は、メモ帳を開いてしまう。


今日の対策。


- 「最寄り」話題は拾わせない(視聴者にも反応させない)

- 荒らしは即BANじゃない。まず孤立させる(反応を奪う)

- それでも止まらなければタイムアウト→BAN

- 危険語が出たら、削除より先に“流れ”を変える合図を出す


俺がこんなことを考えている時点で、普通の父親じゃない。

でも普通の父親でいられるほど、ネットは優しくない。


---


夜。


娘が帰宅して、風呂に入って、部屋のドアを閉める。

そこから先は、昨夜と同じだ。


俺はリビングの明かりを落としてPCを起動し、ヘッドホンをかける。

画面右上の灰色のアイコンを確認する。


アカウント名:名無しさん。


「……仕事開始」


配信開始通知。


> 【配信開始】クリス:『雑談:マシュマロ読むよ!今日も生きた!』


チャット欄が立ち上がり、流れ始める。


> こんくりー!

> 今日もおつかれ!

> マシュマロ消化たすかる

> 名無しさんきた?


俺は固定コメントを貼り、今日は一行だけ増やす。


【固定】初見さん歓迎/挨拶は「こんくり」

【固定】個人情報の質問NG(住んでる場所・最寄り・勤務先など)

【固定】荒らし・詮索は反応しないで通報(こちらでも対応します)


“こちらでも対応します”。


普段は入れない。だが今日は入れる。

娘が、ここにいる。俺の娘だ。守る理由が増えた。


> 「こんくり〜! 今日も来てくれてありがと」

> 「今日はマシュマロ読むね。えっと……」


読み上げられた一通目が、いきなり良くない匂いを持っていた。


> 『最近、調子乗ってない? 古参切り捨ててない?』


クリスが一瞬だけ黙る。

真面目すぎる配信者は、こういうのを真正面から受け止めてしまう。


チャットがざわつく。


> そんなことない

> 読まなくていいよ

> 誰だよそれ


――この流れも危険だ。


擁護が過剰になると、「アンチ」対「信者」の形ができる。

形ができた瞬間、荒らしは勝つ。燃料が生まれるからだ。


俺は削除しない。まず空気を整える。


> 名無しさん:【定期】マシュマロは全部に答えなくてOK。楽しいやつから行こう。


事務的に、短く。誰かを殴らない言い方で。

“ルール”を置くだけで、空気は落ち着く。


クリスもすぐに乗る。


> 「うん、ありがと。じゃあ次!」

> 「えっとね……『最近ハマってる食べ物なに?』」


よし。流れが戻った。


――戻った、その瞬間を狙ってくる。


> クリス最近つまんなくなったよねw

> 昨日の愚痴、普通に不快だったわ


刺さる言い方。しかも「昨日」と具体を出してくる。粘着の入口だ。

クリスの笑顔がわずかに引きつる。


> 「あー……昨日はごめんね、ちょっと愚痴りすぎたかも」


謝るな。

謝ると“殴れば反応が返ってくる”と学習される。


だが俺は、ここでも即BANはしない。

BANすると「言論統制だ」と外へ持ち出すタイプがいる。そうなると面倒が増える。


必要なのは排除じゃない。無力化だ。

反応を奪って、孤立させる。


俺は定型文を落とす。


> 名無しさん:その手のコメントには反応しなくて大丈夫。雑談に戻そう。


視聴者は賢い。場の文化が育っていれば、こちらの勝ちだ。

流れが「スルー」に寄っていく。


そのとき、俺が“合図”として置いた言葉がある。昔からの常連には分かるやつだ。


> 名無しさん:お茶いれます(雑談戻しで)


これで十分。


数秒後、古参の一人が自然に話題を投げる。サクラじゃない。何年も見てる、実在の常連だ。


> さざなみ:そういえばクリス、今週の休み何する?

> たまねぎ:最近のおすすめゲーム聞きたい!


そこに普通の視聴者が乗る。


> 休み大事

> ゲーム何やるの?

> 雑談戻そ戻そ


荒らしの言葉は、楽しい会話の濁流に押し流されていく。

舞台の上で一人、誰にも見られないピエロになる。


これは“正義の説教”より効く。

承認欲求を奪うからだ。


> つまんね(捨て台詞)


俺は静かにタイムアウト。続けて同様ならBAN。

目立つ処罰はしない。空気に溶かして消す。


クリスの声に色が戻る。


> 「じゃ、休みの話ね! えっと……寝たい!」

> 「あとね、最近ハマってるのは――」


壁の向こうで娘が、心底ほっとしたように息を吐く気配がした。

俺も小さく息を吐く。


これが俺の仕事だ。

コメント欄の“空気”を守る仕事。


……だが。


配信が落ち着いた頃。

クリスがうっかり、地雷を踏んだ。


> 「今日さ、研修でさぁ……もう頭パンパンで」

> 「青葉ソリューションズってさ、ほんと――」


俺の血の気が引いた。


(言った!)


遅延がある。現実で言った瞬間に止めても、配信には一拍遅れて流れる。

俺の指が動く。思考より先に“仕事”をする。


固定コメントを更新して圧を上げる。


【固定】勤務先・学校などの話題はNG。特定に繋がるので拾わないでください。


同時にチャットへ短く打つ。


> 名無しさん:今のは危ない。会社名は出さないで!


クリスはすぐ反応した。


> 「あっ、ごめん! 今のナシ! 忘れて!」

> 「えーっと、研修の話は“ぼかして”するね!」


よし。本人は修正した。

だが、ネットは「本人が気づいた後」も残る。


チャットの流れの中に、早い反応が混ざる。


> いま会社名言った?

> 青葉…?

> え、どこそれ


俺はそこを淡々と消す。消す。消す。

そしてもう一度、“反応しない文化”に戻す。


> 名無しさん:みんな、その話題には触れないで。雑談に戻そう。


視聴者は乗る。乗ってくれる。

だが、乗らないやつもいる。


配信終盤、ひとつだけ、温度の違うコメントが落ちた。

感情がない。悪意とも違う。“知っている側”の口ぶり。


> Info_Hunter:青葉ソリューションズの新入社員さん、頑張ってね。住所言わなくても職場は分かったわ。


心臓が嫌な跳ね方をした。


(……見られた)


会社名を出したのは一瞬。すぐ止めた。

それでも拾うやつは拾う。

拾って、外で繋げるやつがいる。


俺はコンマ一秒で削除し、即BAN。通報。ログを保存。

手が震えないのが、自分でも怖い。


クリスは画面の中で、まだ笑っている。


> 「じゃあね、おつくり〜! 今日もありがと!」


能天気なエンディングBGM。

配信が終わる。


壁の向こうから、娘の小さな声が漏れた。


「はぁ〜……疲れた……」


娘は気づいていない。

今、自分の背中に照準が合わされたことに。


俺はPCの前で、奥歯を噛みしめた。


ネットの悪意は、画面の中だけじゃ終わらない。

そして――「名無しさん」として守れる領域にも、限界がある。


俺がBANした“荒らし”の捨て台詞は、娘の勤務先を口にしていた。

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2025年12月16日 22:03
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2025年12月18日 22:03

伝説の古参モデレーター、実は父でした ~隣の部屋の推しVが娘だと知っても、俺は名乗れない~ 他力本願寺 @AI_Stroy_mania

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