入水願い

ハルサカカスミ

入水願い

 シートベルトの金具がガチャンと鳴った。その金属音が、車内に響く。深夜三時に電話で呼び出したこうくんと山に行った。山に行ってから、幸くんはスコップで穴を掘ってくれた。その間のことはあまり思い出せないのに、なんかずっと苦しい。私は、正しいことをしたのか、はたまたそうではないのか、もう分からなくて幸くんを見る。ちゃんと隣にいるのに、幸くんがエンジンをかけたのがほんのちょっと遅れて理解した。

 夜の山道を走る車の中、隣でハンドルを握る幸くんは一言も話さず、ただ前を見据えている。私は助手席で震える手を握りしめながら、さっきまでの出来事を何度も反芻した。

 ――あれは、正当防衛だ。けれど、倒れた男の呼吸を確認する気力すら残っていなかった自分を思い返すたび、喉の奥がひゅっと狭くなる。


「……ねえ、幸くん。私人殺しちゃったよ。でも何が悪いのか分からないよ」

 

幸くんの手が、ハンドルを握る指先ごと強張った。


「……うん」


 彼は落ち着いているように見えたが、助手席の私をちらりとも見ないところが不自然だった。

 外灯の少ない道を曲がるたび、舗装の甘い路面が車体を揺らす。


「……ねぇ、本当に私、悪くないよね?」


 返事が欲しい。救われるような一言が、欲しい。けど、幸くんは短く息を吸い、ほんの一拍置いてから言った。


「悪くない。凛は悪くないから……」

「ねえ、変だよ。さっきから目を合わせてくれないの、なんで?」

「落ち着けよ」

「落ち着けるわけないでしょ!」


 私がそう言うと、幸くんはブレーキを踏み込んで、車が急停車する。ヘッドライトの先には、木々の影が揺れていた。

幸くんはようやく私のほうを向いた。端正で顔立ちが、らしくない焦りを見せていた。


「もう、埋めたからいいだろ。なんでそんなに焦ってんだよ」


 その言葉を聞いた瞬間、心臓が強く跳ねた。彼が私とどこか距離を置いている。


「幸くん……、ずっと私の味方でいてくれるよね?」

「……あぁ」


 山の静けさが、車内にまで入り込んでくるようだった。 深い闇が二人を囲い込み、息を潜めて見守っている。


「……なに」

「まさか、私を置いて逃げたりしないよね?」

 そう問うと、彼は一瞬だけ目をそらした。その一瞬で、胸の奥がざわりと波立った。

 私は、そっと横に置いていたバッグに手を伸ばした。中には、あのとき握りしめていたスマホ。角にこびりついた薄い血痕が、薄暗く見える。幸くんは、ハンドルを握ったまま視線を落とした。


 闇に沈む車内で、俺の呼吸だけが浅く震えている。

 ――肝心なとき、いつもそうやって逃げる癖があるよね。

 彼女が以前吐き捨てるように言ったその一言が、俺の胸に今も刺さったままだ。

 確かに、逃げていた。

 最初に付き合った頃から、俺はどこかで気づいていた。

 最初の違和感は、小さなことだった。


「ねえ。今日の帰り道、女と歩いてたでしょ」


 仕事帰り、突然つきつけられた言葉。俺は驚いて笑った。

「いや、相談乗ってただけ――」

「へぇ」


 俺をどこまで見透かしているのだろう。彼女のじっとりとした真っ黒い瞳を見て、逃げたいと思ったのを覚えている。



 後日、耐えられず別れ話を切り出したのは俺からだった。


「もう……少し距離を置こう」

「私のどこが嫌なの?」


 彼女の声は震えていた。怒りでも悲しみでもない、もっと気味悪いものを抱えていた。


「嫌いになったわけじゃない。ただ――」

「ううん、いいよ。わかった。……でもね、そのうち戻ってくるよ。幸くんは」


 その笑顔が、妙に冷たかった。

 この別れが、お互いににとって最良だと思っていた。

 

 数ヶ月後、彼女が突然連絡してきた。


『話したいことがある』


突然来たLIMEの通知を見て、俺は頭を悩ませながらも返事をした。色々やりとりをして、俺が告白した駅のホームで会うことになった。

 会うと、以前よりずっと穏やかに見えた。

 その変化に、少し安心した。つい、口を滑らせた。


「凛、やり直そう」 


 凛の顔にぽっと色がついた。

 彼はその場で凛を抱きしめたかった。そうしたら、凛は、都合のいい女にはなりたくないと言って逃げるように帰った。

 そんな小さくて強い背中を見送ったとき、かすかな罪悪感が芽生えた。

 そうして数日後、凛から告白されて復縁した。

 

 復縁してからわかったことは、凛は俺が帰りに上司と帰ると、やはり大体把握されているのだ。俺は本当に相談されているだけで、断じてそういう関係ではない。


「今日も一緒? 私もそれ相応のことやっちゃおうかな」

 そんな凛の発言を、可愛らしい嫉妬くらいに思っていた。でも、もしかすると───。

 

 俺が最初に違和感を覚えたのは、一か月ほど前だった。上司の田中さんからの相談が続いていた時期のことだ。

 俺のスマホに、見知らぬ番号から電話が入った。最初は間違い電話だと思った。しかし、相手は小さく言った。


『……彼女から目を離さないてくれ』


 その声は低く、ひどく落ち着いていた。

 当時、特に気にしなかった。翌日、田中さんからこっそりと耳打ちされた。


「うちの旦那のスマホに、知らない番号があなたの名前で登録されてたの」

「え、どういうことですか。僕何もやってないですけど」


本当に身に覚えのないことだ。でも、脳裏に浮かんでくるのはただ1人。

 途端に冗談に聞こえた言葉が、急に現実味を帯びてくる。だが、その時はまだ確信が持てず、何も言わなかった。本当は疑いたくないただ1人の可能性を必死にかき消している。俺は唇を噛んだ。

 

嗚呼、言うべきかどうか迷っているのが、痛いほど伝わってくる。


「……ねえ、幸くん」


 私は笑みが溢れた。口元だけが、勝手に歪むくらいの小さな笑いだった。


「その顔、何か隠してるときの顔だよ」


 光希は目を閉じ、長い沈黙のあと、ぽつりと呟いた。


「……お前、俺の上司の旦那と接触しただろ」


 胸の奥が、ぎゅっ、と締めつけられた。幸くんがその話題に触れないと思っていたから。


「どうして、そう思うの?」

「電話が来た。知らない男から。“彼女から目を離すな”って」


 私は瞬きもしなかった。

幸くんは続ける。


「最初は気にしなかった。でも……次の日、上司の旦那のスマホに俺の名前が登録されてたって聞いて……」


 幸くんは震える声で締めくくった。


「……お前が、さっき殺したのがその旦那なんだろ。違うか?」


 静まり返った車内。私の心拍が耳に響いてうるさい。


「……うん。だって幸くん、私のことちゃんと見てくんないんだもん。浮気してよく家行ってたのも全部知ってた。だから私も、その旦那奪えば全部めちゃくちゃになると思った。なんか、案外うまくいきすぎてびっくりした。襲われたとき、こんなに気持ち悪い思いするんだね。おかげで上手くいった」


 私の声は、妙に落ち着いていた。


「怖かった。お前が何をしようとしているのか。だから距離を置こうとした。でも……結局また流されて……」


 自嘲するように笑った。


「俺はずっと、お前から逃げてただけだ」

 

その瞬間、私の中で何かが静かに形を変えた。

 幸くんは逃げていた。でも、逃げながらも、ずっと私のことを気にしていた。 一度も完全に見捨てたことはなかった。

 ――それって、愛なんじゃないの?胸の奥で、熱く狂おしい感情が膨れあがる。幸くんは、私を怖がりながらも、離れられなかった。その事実が、心の柔いところをを甘く締めつける。

 私は幸くんの腕に抱きついた。幸くんの肩がぴくりと跳ねる。


「幸くん……」

「な、何だよ」

「やっぱり、あたしのことずっとちゃんと見てたんだね」


 幸くんの顔に、言葉にならない緊張と困惑が浮かぶ。私は微笑んだ。その笑顔は、自分でも止められなかった。


「……幸くん、隠してたのは、私だけじゃないんだね」


私の胸の奥にひやりとしたものが落ちた。でもその冷たさは、なぜか心地よかった。だって、私のことをずっと気にしていたってことでしょう?それだけで、少しだけ息がしやすくなる。なのに。それなのに彼の横顔は、まるで私を怖がっているみたいだった。


「幸くん、こっち向いて」

「いや……運転に集中しないと」

「停まってるじゃん」


 車は山道の脇に停まったまま、ヘッドライトだけが闇を切り裂いている。幸くんは避けるように視線を前へ戻した。まだ逃げるの? その仕草一つひとつが胸の奥をざわつかせる。


「ねぇ。もしかしてさ」


 吐息が自然と笑いに変わった。


「幸くん、本当は私が何したいか知ってるんじゃないの?」


 幸くんは大きく息を吸い、ゆっくり吐く。その呼吸は、何かを必死に抑えているみたいだった。


「……どういう意味だよ」

「私がここまで追いつめてる意味、考えてみてよ」


 幸くんの指先がハンドルをぎゅっと握る。幸くんは沈黙した。

 沈黙は、私をいちばん不安にさせる。全部、嫌というほど知っている。

 ――幸くんは、追い詰められたら逃げる人間だ。だから肝心なときによく逃げる。話し合いとか、喧嘩とか、衝突とか一切ない。私は彼のそんなところも全部好きだった。

 だって逃げない人間より、逃げる人間のほうが、ずっと弱くて、ずっと人間臭いから。

 でも今日は、逃がしたくなかった。


「幸くん、どこ行こうとしてるの?」

「どこにも行かない」

「嘘。さっきからスマホ気にしてる」


 幸くんの表情が一瞬で固まった。彼はさっきから何度もちらちらと見ていた。

 疑念が、胸の奥でひどく鋭い形を取る。


「警察?」

「違う」

「じゃあ誰? あの女?」

「違うって言ってるだろ!」


 幸くんが初めて声を荒らげた。

 その響きが、私の心の柔らかい部分を痛く刺した。

 ……ああ、もうだめだ。幸くんは私をまた裏切ろうとしている!

そう確信してしまった。

 確信した瞬間、世界の音が変わった。ヘッドライトの光がにじむ。山の闇が息を潜めてこちらを見ているように思えた。


「幸くん……スマホ、見せて」

「嫌だ」

「なんで?」

「こんな状況でお前に見せられるわけないだろ!」


 お前。恋人だった頃には絶対に呼ばなかった呼び方。


「……そっか」


 私はゆっくりとバッグを開けた。幸くんが怯えたように私を見た。


「何して……?」


 私はスマホを取り出し、その角に残った小さな痕を指先で撫でた。

 幸くんの呼吸が浅くなる。


「幸くん、私ね。ずっとあなたの味方だよ。でもね、嘘つく人は嫌いなの」


 静かにそう言うと、幸くんの顔色があからさまに変わった。

 逃げたいのに逃げられないときの、あの顔。私はその顔がたまらなく好きだった。


「ねえ幸くん。私を置いて逃げたら……どうなると思う?」


 幸くんは答えない。

 言葉の代わりに、のど仏が上下した。

 ――追い詰めている。

 今、確かに追い詰めている。

 そう気づいた時、胸の奥がじわっと熱を持った。


「逃げないよね?」


 微笑むと、幸くんの手がわずかに震えた。

 まるでその震えを愛おしむみたいに、私はそっと彼の手に触れた。


「大丈夫だよ。ちゃんと一緒にいるなら……怖いものなんて何もないよ」


 その瞬間、幸くんは小さく息を呑んだ。幸くんの目が、ようやく私を見た。


幸くんは車を発進させ、街に出た。青信号が二人の顔を照らした。


「……俺、海に行きたい」

「私も」


 ようやく、幸くんが私と同じになってくれる。私の心と身体が全て、幸くんと同じになって、最終的に一つになる。愛おしくて、心地いい感覚が間もなく訪れる予感がした。

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