【短編】機種変更
初川鳳一
機種変更
朝、私は目を覚ました。
少し頭が重い。ちょっと寝すぎたようだ。
そう思ったとき、キッチンから物音がした。
起き上がって様子を見に行くと、『彼』はキッチンに立っていた。
「……大丈夫?」
返事はない。
代わりに、コップを置く音が、必要以上に大きく響いた。
『彼』の見た目には変わりがない。
いつもの通り、ピンとした姿勢でシンクに向かって立っている。
ただ、動きがどこかちぐはぐに感じられた。
ポットの前で手を止め、次に何をするのか考えているように見える。
「おはよう」
声をかけると、ほんの一拍置いてから振り返った。
「……ああ。おはようございます」
その間が、気になった。
最近、こういう「間」が増えている。
「まだお湯、沸いてないの?」
「はい?……あれ?」
『彼』はポットを見下ろし、首をかしげた。
スイッチは入っていない。
「さっき入れたと思ったのですが」
「大丈夫。私がやるよ」
そう言って近づくと、『彼』は少しだけ居心地が悪そうな顔をした。
「いや、大丈夫です。できます」
その言い方が、妙に力んでいて、胸の奥がざわついた。
こんな言い方は、今までなかった。
すると、今度は何かが焦げた匂いが立ち込めた。
『彼』は匂いに気づいていない様子で、しばらくトースターの前に立ち尽くしている。
「ちょっと、焦げてるよ」
私が言うと、『彼』は慌ててスイッチを切った。
「ああ……ごめんなさい」
食卓につき、向かい合って座る。
朝食はいつもと同じメニューだ。
ただ、トーストと目玉焼きの端だけが黒かった。
「……大丈夫ですか?」
「ううん、いつもといっしょ。おいしいよ」
「そうですか、よかったです」
『彼』は納得したようにうなずいた。
その様子を見ながら、私は胸の奥で、何かが少しずつ積もっていくのを感じていた。
最近、物忘れが増えた。
手順を間違え、確認が多くなっている。
「ねえ」
私が声をかけると、『彼』はすぐに顔を上げた。
「年月が経ったな、って感じるのは、どういうときなんだろうね」
唐突な話題だったかもしれない。
けれど、ずっと考えていたことだった。
「急に感じるわけじゃない、って言いますよね」
『彼』は少し考えてから答えた。
「気づいたら、何かが変わっている。そんな感じじゃないでしょうか」
その言葉が、今の『彼』自身を正確に表しているようで、私は視線を落とした。
「前は、もう少し早かったよ」
「……そうですね」
否定しなかった。
それが、いちばんつらかった。
沈黙の中で、食器の音だけが響く。
やがて、彼のほうから、ぽつりと言った。
「そろそろ、例の話を進めましょうか?」
あの話。
『彼』と私の間で、何度も出ては、先送りにしてきた言葉。
私は少し迷ってから、うなずいた。
「……そうね」
『彼』は、ほっとしたように微笑んだ。
まるで、ずっと待っていた返事だったかのように。
それから、二人で身支度をした。
私はいつもの上着を羽織り、鍵を手に取る。
『彼』は玄関先で靴を揃え、しばらく立ったまま動かなかった。
「……どうしたの?」
声をかけると、少し遅れて振り返る。
「あ、いえ。大丈夫です」
そう言いながら、足元を見下ろしている。
何かを確認しているようでもあり、何を確認しているのか分からないようでもあった。
外に出ると、空気がひんやりとしていた。
朝の光はやわらかく、住宅街はまだ静かだ。
『彼』は、いつもより半歩ほど後ろを歩いている。
歩調が合わないわけではない。ただ、合わせようとしている感じが伝わってくる。
「寒くない?」
「はい。大丈夫です」
返事は即座だった。
けれど、その声は、どこか張りつめている。
交差点で信号を待つ。
赤から青に変わるまでの間、『彼』はじっと前を見つめていた。
「ここ、覚えてる?」
私が何気なく言うと、『彼』は少しだけ目を見開いた。
「……もちろんです」
答えは早かった。
早すぎる、と感じてしまった自分に、私は小さく息を吐く。
何でもない会話をしながら歩く。
天気のこと、近所の店の話、昨夜見た番組のこと。
『彼』はきちんと相槌を打ち、必要なところで笑う。
ただ、話題が変わるたびに、一瞬だけ沈黙が挟まる。
言葉を探している、というより、順番を確かめているような間だった。
店の看板が見えてくる。
ガラス張りの外観で、入口には大きなポスターが貼られている。
「……ここですね」
『彼』がそう言った。
まるで、初めて来た場所を確認するみたいな言い方だった。
「うん。前にも来たでしょ」
「ええ。そうでしたね」
『彼』は小さくうなずき、視線を入口に向けたまま動かなかった。
「入ろうか」
そう言うと、『彼』は一拍置いてから、私のほうを見た。
「はい。お願いします」
その言葉を聞いたとき、私は胸の奥で、何かが静かに決まった気がした。
けれど、それが何なのか、言葉にはできなかった。
自動ドアが開き、店内の明るい光が差し込む。
『彼』は一度だけ、外の景色を振り返り、それから中へ足を踏み入れた。
店内は明るく、空調の効いた空気が静かに流れていた。
白い床に、機種ごとの展示台が等間隔に並んでいる。
『彼』は一歩足を踏み入れたところで、わずかに歩調を緩めた。
「……広いですね」
「そう?」
以前にも来たはずなのに、そう言う。
私は何も指摘せず、『彼』の隣に立った。
ほどなくして、女性の店員がこちらに気づき、柔らかな笑みを浮かべて近づいてくる。
「お待たせしました。本日は機種変更のご希望でよろしいでしょうか?」
「はい」
私が答えると、店員は小さくうなずいた。
「最近、少し動きが悪くて。これを機に、新しくしようかと話していまして」
隣を見ると、『彼』も同じようにうなずいている。
その動作は自然だったが、視線は展示台のほうに固定されたままだった。
「かしこまりました。現在ご使用の機種を確認いたしますね」
店員は端末を操作しながら、私と『彼』を交互に見た。
その視線が、『彼』のところで一瞬だけ止まる。
「こちらで、お間違いないでしょうか?」
画面を差し出され、『彼』が覗き込む。
「……はい」
少し遅れて返事をする。
店員は気にした様子もなく、説明を続けた。
料金プラン、引き継ぎ、保証内容。
聞き慣れた言葉が、順番に並んでいく。
私はそれを聞きながら、なぜか現実感のない気分でいた。
大切な話のはずなのに、どこか遠くで起きている出来事のように感じる。
「こちらのモデルはいかがでしょうか」
店員がチラシを差し出す。
そこには、若い女性の写真が載っていた。柔らかい表情で、まっすぐこちらを見ている。
「反応速度も向上していますし、長く安心してお使いいただけます」
「……きれいですね」
思わず、そう口にすると、店員は微笑んだ。
「ええ。人気のモデルです」
『彼』は、チラシから目を離さなかった。
まるで、何かを確かめるように。
手続きは、驚くほどスムーズに進んだ。
必要な確認を終え、書類に署名をする。
「準備に少しお時間をいただきますね」
店員はそう言って、奥へ下がっていった。
私たちは並んで椅子に座った。
『彼』は、膝の上で手を揃え、じっと前を見ている。
「……ありがとうございました」
不意に、『彼』が言った。
「何が?」
「いえ。いろいろと」
それ以上、言葉は続かなかった。
私は、ただうなずくことしかできなかった。
しばらくして、店の奥から足音が聞こえてくる。
店員と一緒に、若い女性が歩いてきた。
写真で見た通りの姿だった。
彼女は立ち止まり、こちらを見て、深く頭を下げる。
その瞬間、『彼』が静かに息を吐いたのが分かった。
店員は、『彼』の肩にそっと手を置いた。
「では、こちらの男性型アンドロイドは、弊社の方で引き取って処分させていただきますね」
『彼』は何も言わなかった。
ただ一度だけ、私のほうを見て、微笑んだ。
それは、今までと変わらない表情だった。
私は、その笑顔を、最後まで見届けた。
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