The ReAL EditoR ──書き換える者──

俊凛美流人《とし・りびると》

EditoR_01 はじまりの静けさ

 あの夜、私は一度死んだ。

正確にいえば、死ぬはずだった。

けれど、物語が書き換えられたみたいに、私は生かされてしまった。

誰かが、私の人生の一行を消してしまったかのように。


──見えている世界が、本当に現実だと、どうして言えるのだろう。


誰かの目に映る私。誰かの期待に応える私。いつの間にか、本当の“私”がわからなくなっていた。


夜の雨に濡れた交差点。光の向こうにいたのは──あの人?それとも、わたし?


…この世界のどこかで、物語と現実が、すこしずつ重なりはじめていた。



──The ReAL EditoR ──書き換える者―──



雨の匂いが鼻をくすぐる。私はこの匂いが好きだ。雨は、私を隠す…匂いは私を包む。

信号待ちの交差点、水たまりに映るネオンがじわりと広がっていく。その光が屈折する滲みは、雨なのか、それとも涙なのか…傘も差さず、咲姫(サキ)は立ち尽くしていた。頬に張りついた髪の毛が冷たい。ヒールの先は歩道の縁に引っかかったまま、揺れている。クラクションの音が耳に残る。遠くから、トラックのヘッドライトが近づいてきた。咲姫はその光をまっすぐ見つめる。胸の奥に、“誰かの視線”のようなざわめきが走った。まるで、背中をそっと押されたような感覚──思考よりも先に、足が動いていた。

──まるで、何かに引き寄せられるように。その瞬間、喉の奥から思わずこぼれた。


「……ユウ?」


思わず口にした名前。なぜ?誰の姿も見えない交差点の真ん中。けれど、あの光の向こうには──確かに“誰か”が、こちらを見ていた気がした。それは他人ではなく、かつての私自身だったのかもしれない。目を凝らすが、誰もいない。ただ、その冷たい雨が静かに咲姫の頬を伝って落ちる。

──はっとして、足を引いた。ぎりぎりで現実に引き戻される。トラックは、運転手の怒鳴り声を残して、咲姫をぎりぎり躱して走り去っていった。


──私、何しているの?


信号が青に変わり、人々が足早にすれ違っていく。けれど、咲姫の心だけは、どこかに取り残されたままだった。交差点の真ん中に、もう一人の“わたし”が立っていた気がした。

濡れた髪、濡れた瞳──でも、その目は確かに、笑っていた。なぜか“自由そうに”。


──あれは、誰?


その問いかけは、雨と一緒に溶けていった。



 その数時間前、咲姫はめずらしくウキウキしていた。職場では…


「あれ?雪平(ユキヒラ)さん、今日はいつになくごきげんなのね!」

「あれ?わかりますか?」

「何かあったの?」

「いえ、今日、記念日なんです。彼と付き合ってちょうど5年。で、彼から呼び出されて、そろそろかなって!」

「そろそろ?……あ、もしかして、プロポーズ?」

「はい。」

「そう!がんばってね!」


ランチルームの白い蛍光灯の下、いつもより明るい声が飛び交う。咲姫は心の奥で、「今日が特別な日になりますように」と、そっと願っていた。同僚の声に背中を押されるように、咲姫は着替えを済ませ、メイクだけ丁寧になおして、足早に待ち合わせ場所に向かった。駅前のカフェのガラス越しに、見慣れた後ろ姿が見える。白いシャツにジャケットを着た翔太。姿勢もどこかよそよそしく見えたのは、咲姫の予感のせいだったのか。


「翔太くん、待った?」

「いや、今来たとこ」

「咲姫、話があるんだ」

「え?もう?……まだ、オーダーしたばかりだけど」

「こういう話は早い方が良いと思うんだ」


(わわ、心の準備が……)


「わかった。翔太くん。ん、何?」

「別れてくれ」

「えぇ??」


──たった一言だった。五年間の恋が、たった一言で終わった。


「……ごめん、咲姫。最初はさ、その控えめなところが好きだと思ってたんだ。でも、気づいたら……俺、多分変わってほしいってどこかで思っててさ。それを言えないまま一緒にいたの、ずるかった。だから…」

「翔太くん……」

「もうキミじゃなくてもいいんだよね。なんか、俺の方が変わったのかも」

「キミって……翔太くん…わたし、あなたのためなら変われると思う。変わるから」

「いや、そういう事じゃなくて。俺のためとかいらなくて…ごめん。もう無理なんだ」

「翔…」


咲姫が呼びかけるのを振り払うように、翔太は椅子を引き、テーブルにコーヒーカップだけを残してカフェを出ていった。ドアベルのかろやかな音が、今の咲姫を拒絶しているかのように響いていた。

窓越しに外を眺めると、曇天の空が咲姫を見下ろしていた。ふとカップを見つめる。涙が一筋零れ落ちた。飲みかけのコーヒーに波紋を拡げて混ざり合い、何事もなかったかのような静寂に戻る…。

店内の時計の針は、午後三時を指していた。けれど、咲姫の中では少し前から時間が止まっていた。周囲の笑い声も、マシンが出すエスプレッソの音も、すべてが遠く感じた。

──雨が降り始めた。まるで咲姫の心をあらわすかのように……窓の外の雨粒がガラスを叩く音だけが、やけに大きく響く。テーブルの木目をなぞる指先。思い出をひとつひとつなぞるように、咲姫はただ黙って、そこにいた。ぽっかりと空いたその心をなぐさめるように。


……


家に帰り、玄関のドアを閉めた瞬間、すべてが崩れた。コートを脱ぎ捨て、鞄も靴もその場に投げて、リビングの床に膝をつく。涙が止まらない。けれど、声を出して泣くこともできなかった。部屋の中の静けさが、かえって鼓動を際立たせる。灯りを点けることも忘れたまま、薄暗い空間にただ、うずくまった。

外は、まだ雨が降っていた。しとしとと切ない音を立てながら、咲姫の内側に残る何かを流していくように。

……スマホの通知音が、静かすぎる部屋に鳴り響いた。


=You-KIの新作小説が更新されました=


その知らせが、沈みかけていた咲姫の意識を少しだけ引き戻す。涙を拭った指先でスマホを手に取った。画面の中に浮かび上がったその名前に、見覚えがあった。



 中学生の頃。転校先では“目立たない”ことが自分を守る術だった。明るい服を着れば笑われ、「空気読め」と言われれば、存在を消すように生きる。恋をしても、誰にも言わず心の中で終わらせた。好きな人の名前すら、誰にも言えなかった。教室の片隅で、ノートの端にそっと書いた名前も、誰にも見られないようにすぐに消してしまった。そんなふうに、自分の“想い”を隠して生きていた。

──でも、一度だけ。世界が変わりそうな瞬間があった。それは、たまたま目にした小説だった。投稿者の名前は「You-KI」。読み手に静かに寄り添うような文体。どこか懐かしくて、それでいて、見たことのない世界が広がっていた。


『君は、消えたいんじゃない。本当は、生まれ変わりたいだけだろ?』


その言葉が、深く胸に刺さった。文字なのに、声のようだった。孤独に寄り添い、沈黙に光を差すような、不思議な言葉。画面の中の登場人物が、自分の代わりに泣いてくれているような気がして──初めて、小説の世界に救われたと思った。



 スマホを開き、小説投稿サイトにログインする。見慣れた名前。You-KI。

最新作のタイトルは──『マヤの物語』


──マヤ


どこかで聞いたことのあるような名前。でも、思い出せない。プロローグを開くと、グレーに塗られた世界が色を取り戻していく。孤独な少女が、自分を変えようと踏み出す物語だった。努力して、輝いて、夢を掴もうとする。画面の中の彼女は、かつての咲姫が夢見た「なりたかった自分」そのものだった。

気がつけば、涙があふれていた。それは哀しみの涙ではなく、希望のそれだった。咲姫は、夢中でページをめくっていた。


(私…変わりたい…何もなかったなんて言わせない…新しい自分に生まれ変わりたい…)


唇を嚙みしめながら、咲姫は強く強く願った。


……


翌朝、目を覚ました咲姫は、ぼんやりと天井を見つめながらつぶやいた。


「……やってみようかな…」


美容室へ行った。思い切って、髪型をボブにする。マヤが変わるきっかけとなった髪型だった。美容師に「雰囲気、変わりましたね」と言われ、咲姫は照れくさそうに笑う。鏡に映る自分が、ほんの少しだけ“誰かに似ている”気がした。

その帰り道、ドラッグストアでメイク道具をいくつか揃える。帰宅後、メイク動画を見ながら、自分の顔と向き合った。何度も失敗して、やり直して。それでも、今日は最後までやり遂げた。完成した顔を鏡で見て、咲姫はつぶやく。


「……誰、これ」


笑った。けど、少しだけ心が動いた気がした。スマホを手に取り、自撮りを一枚。

閲覧専用だったSNS、InSTARの別アカウントを作った。


@saki_yukihira → @maya_saki


たったそれだけなのに、胸が少し軽くなる。入力するだけで胸が高鳴る。指先は震えていたけど、何かが始まりそうな予感だけがあった。投稿ボタンを押そうとしたとき、咲姫は一瞬フリーズした。押してしまったらもう後戻りできない気がした。もう一度読み返して、何度も確認した上で押した。

その夜、咲姫は再び、小説を開いた。マヤは、自分より少しだけ前を歩いている。そんな気がした。布団にくるまりながら、咲姫はつぶやいた。


「マヤみたいになれたら、人生……変わるのかな。翔太くんを見返せるかな?」


スマホの光が、暗い部屋を優しく照らしていた。


『明日も、マヤは前に進む。』


咲姫は、小さく微笑んだ。


「……私も、少しだけ、マヤの真似をしてみようかな」


そう思えたのは──あの夜、交差点で“もう一人のわたし”を見たからかもしれない。

その夜、咲姫は夢を見た。水の中で誰かが手を伸ばしてくる夢。その表情は、笑っていた気がした。マヤだったのか、自分だったのか、もうわからなかった。ただひとつだけ──胸の奥で、誰かが一行目を書き始めたような音が、そっと鳴った。

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