年の瀬の催促
不思議乃九
年の瀬の催促
十二月も中旬を過ぎ、年の瀬特有の焦燥感が空気を覆い始めていた。年金事務所の事務室は、古びた建物と制度の重みが一体となった、独特の湿った静けさに包まれている。
吉田は、キーボードを前に、腕を組んだまま、一つ深いため息をついた。彼の呼吸によって、眼鏡のレンズがわずかに曇り、視界が一瞬白濁する。それを指の甲で拭いながら、ディスプレイの白い光を改めて見つめ直す。
画面上には、もう何度も使い古され、テンプレート化された、しかしその度に胸の奥に薄い棘を打ち込むような一通のメールの下書きが表示されている。宛先は、今年も、というか毎年のことながら決まった債権回収業者だ。
件名:【重要】国民年金保険料未納者にかかる滞納処分業務委託について(令和七年度分)
この「重要」という二文字の冷徹さ。
「滞納処分業務委託」という言葉の、容赦のない事務的な響き。
吉田は、このメールを送ること自体が、自分が担っている役割、すなわち「年金」という社会保障の維持と「滞納者」という名の市民の生活破壊の、あまりにも矛盾した境界線上に立たされていることを、否応なく意識させられる。
■事務所の熱と匂い
事務所の隅では、石油ストーブが「ゴー」という唸り声をあげながら、赤い炎を揺らしている。対流式のそれは、古い事務所の広い空間をどうにか暖めようと、健気に熱を放っていた。その熱の塊は、吉田の座るデスクの近くまでは届かないが、それでも独特の灯油と燃焼の匂いを空気に混ぜ込ませる。
少し前、同僚の井田橋がストーブに灯油を補充する際、うっかり給油口のキャップを締め損ねたのか、微かに灯油をこぼした。幸いすぐに拭き取られたが、その時わずかに揮発した灯油の刺激臭が、暖められた空気の中でまだぼんやりと残っている。どこか、懐かしさと、同時に一抹の危険さを孕んだ匂いだった。
その石油ストーブの熱源から離れた場所には、井田橋の席がある。彼は愛媛出身で、この時期になると毎年、実家の母親から大量のミカンが送られてくる。今年も例に漏れず、段ボール箱が事務所の入り口近くに置かれ、すでに何人かの職員の手によって皮を剥かれ、その甘酸っぱい香りが、事務室全体に漂っている。
ストーブの灯油の匂いと、南国愛媛からのミカンの香り。この二つが、制度の冷酷さと、それでも消し難い人間の生活の温もりとを、奇妙なコントラストで描き出していた。
■ 制度と罪悪感
吉田は、キーボードに手を置いた。指が「送信」ボタンを押す寸前で、わずかに震える。
年金制度。それは、戦後の日本が築き上げた、相互扶助の象徴であるはずだ。皆で少しずつ出し合い、老後、病気、障害など、予測不可能な人生のリスクを分散する。その理念は、文字通り「美しい」と言えた。
だが、現実の年金制度は、度重なる改正、保険料の引き上げ、給付開始年齢の引き上げ、そして何よりも制度に対する国民の不信感によって、その輝きを失っている。
吉田は知っている。滞納している人々の中には、本当に払いたくても払えない、生活困窮者が多く含まれていることを。あるいは、自営業者の厳しい現実や、不安定な雇用形態に苦しむ若者たちも。彼らにとって、毎月の保険料は、生活を維持するための食費や家賃を削って捻出しなければならない、重い足枷となっているのだ。
その足枷を、さらにきつく締め上げるのが、この「滞納処分業務委託」である。強制徴収、差し押さえ。それは、彼らのささやかな生活の破綻を意味する。
「自分は、その破綻の引き金を引く役割を担っている。」
そう考えると、胸が締め付けられ、自分が体制の一部として、弱者を追い詰めているという罪悪感が、じわりと胃の腑に広がる。
この制度の良し悪しは、もはや個人の力でどうこうできる問題ではない。少子高齢化、経済の低迷、政治の腐敗。巨大な時代と社会のうねりの中で、年金制度は、その本来の姿を見失い、ただの徴収機構へと変貌しつつある。
吉田は、その巨悪――絶対的巨悪、日本――の一部として働いている。そう、彼は感じる。
日本という、彼の生きた、愛した、憎むことのできないこの国全体が、一つの巨大で、時に冷酷な、機械となって、国民から何かを吸い上げている。年金という名の「血税」を。
■逃避と強がり
送信ボタンを押す手前で、吉田は頭の中で自己弁護を繰り返す。
「いや、違う。自分はただの歯車だ。」
「この制度を維持しなければ、本当に困る人々、真面目に払い続けてきた大勢の人々が報われない。」
「滞納者の中には、悪質な者もいる。払えるのに払わない者もいる。」
「自分がこのメールを送らなくても、他の誰かが送る。それは、この事務所の業務であり、国の決定事項だ。」
そうだ、自分はただの事務員だ。
このメールを作成し、送信するのは、上からの指示であり、職務の一部に過ぎない。
一通のメールが、誰かの人生を揺さぶるほどの重みを持つことなど、知る由もない事務的な手続きでしかない。
「依頼メールを送信するだけだし。」
心の中で、軽く強がる。この強がりは、罪悪感から目を逸らし、自分の精神の平衡を保つための、唯一の防衛本能だった。
吉田は、再び眼鏡を押し上げ、ミカンの甘酸っぱい香りとストーブの灯油の匂いが混ざり合った事務所の空気を深く吸い込んだ。
彼は、自分がこの巨大な社会の矛盾に組み込まれた、取るに足らない存在であること、そしてその矛盾から逃れられないことを知っている。
彼には、他に選択肢がない。
生きていくために、この事務所の椅子に座り、国の業務を遂行しなければならない。
■決断と年末の風景
井田橋が、温かいお茶の入った湯呑を持って、吉田のデスクに近づいてくる。
「吉田さん、まだそのメールですか?年末で気が重いでしょうけど、これが終わったら、もう今年の大きな山は越えますよ。さ、ミカン食べますか?」
井田橋の穏やかな声と、彼が差し出した剥きたてのミカンの黄色が、冷たいディスプレイの光と対照的だ。
吉田は、井田橋からミカンを受け取り、それを口に運んだ。
舌の上に広がる、強烈な酸味と、その後に続く、暖かく濃密な甘さ。
その一瞬の味覚の爆発が、彼の意識を現実へと引き戻した。
感情の波は、今はもう鎮まっていた。残っているのは、ただの職務の意識だけだ。
彼は、ミカンの皮を机の隅にそっと置き、震えを止めた指で、マウスを動かした。カーソルが、「送信」ボタンの上で停止する。
送信。
カチリ、という軽いクリック音と共に、吉田の心の中で何かが沈黙した。
メールは、光の速さで、何百、何千という人々の生活を揺るがす、冷たい業務の連鎖へと投げ込まれた。
送信済みアイテムのフォルダを確認し、彼は椅子にもたれかかる。
窓の外は、もう薄暮だ。年の瀬の慌ただしい街の灯りが、事務所のガラスに反射している。
吉田は、これから待ち受ける徴収率の報告や、滞納者からの苦情の電話の応対を想像しながら、残りのミカンをゆっくりと味わった。
年の瀬の催促 不思議乃九 @chill_mana
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