コックピット

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コックピット

 オナニーを終えると、虚脱感に襲われた。時間は二三時二〇分だったが、金曜の夜はもう終わった気がした。精液を拭いたティッシュをゴミ箱に捨てると、メインモニタに大写しになっている女の喘ぎ顔を動画プレイヤーとともに掻き消した。

 手を洗って、机に戻った。机上にはモニタが三面ある。二三インチのモニタ二面とノートPCの15.6インチのモニタである。何時間もモニタと向き合っている生活がじゅんの日常になっていた。IKEAのコーナーデスクに三面鏡のような形に置かれたモニタと、可動部分が多い高級ワークチェア。潤はそれら一式を密かにコックピットと名付けていた。

 コックピットは快適であり、また万能感を調達した。ゲーム、映画、音楽、ポルノと娯楽には事欠かなかった。一日中座っていても飽きることはなかった。

 とはいえ、たとえば今このとき、金曜の深い時間、コックピットでの満足では、決して満たされない疼きが頭を擡げてきた。それは、女性と肉体的・精神的に通じ合いたいという欲望だった。

(やっぱりオナニーだけじゃつまらん。恋愛したい。恋愛を経由してのセックスがしたい)

 そう潤は切実に願った。

(もし今恋人がいたら、どうだろう?)

 潤は想像する。自分のベッドに横たわっている凜花りんかを。実現していたら、どれほど人生が変わっただろうか?

 たとえば、どれだけ物質的に満たされていようとも、独りで一生を終えるとしたら、それは幸福な人生ではないだろう。結局、人は人を必要としている。「人を必要としている」。思わずそう呟いたが、我ながら独り言に赤面した。潤は最近、まともに人と話してないこともそうした感情を増幅させる一因であると見なし、誰かと会うことを思いついた。二人で会うことに抵抗を感じない友人は尚樹なおきだけだった。尚樹と前回会ったのはおよそ半年前で、尚樹が職場に近い練馬区のアパートに引越したときだった。

 尚樹に飲みに誘うLINEを送った。


 仕事からの帰り道、会社近くのコンビニ前に知っている人がいた。以前勤務していた会社の同僚の凜花だった。凜花は潤に気づくと、携帯を操作している手を止めて、「お疲れ様」と声をかけた。潤はいつかのように行き過ぎず、立ち止まった。長い時間が過ぎた。といっても、一、二秒だろうが。凜花はこの偶然をどちらかというと歓迎しているようだった。笑みを零したから。

 潤は食事に誘った。

「ええ。いいですよ」

 凜花はまるで待っていたかのようにすんなりとOKした。こんなことならもっと早く誘えばよかった。

 潤は一度行ったことのある近くの洋食店に行くことにした。雑踏に紛れて歩くだけで、気持ちが高揚した。ああ、もう恋人同士のようだ。

 店に着いたが、あいにくテラス席しか空いてなかった。冬だというのに。凜花は外の席でもいいと言う。店の人が暖房器具と膝掛けを出してくれた。テラス席は三席あったが、自分たち以外は空いていた。プライベート感があり店の中よりもよかったかも、と潤は思った。

 ワインで乾杯した。

「再会に」と口々に言った。

 潤は再会できて、嬉しいと言ってから、本当は会社にいた頃デートに誘いたかった、と付け加えた。

「誘われれば、OKしてましたよ。今日みたいに」

 凜花は笑窪を見せた。

「こうして再会できたということは、特別な絆があるということに思えます」と潤。

「それは思い込みにすぎないと思います。もっとも、人は思い込みで恋愛するものですが」

「覚めた恋愛観ですね」

「いえ、思い込みを肯定しているのです。わかりますか? 恋愛は盲目的なものです。分析ばかりしていては、恋愛はできません」

「ええ」

「吉田さんは、恋愛へと進むことができないでしょう。傷つくのが怖いから。今のような暮らしでは出会いもないし、一生彼女なんてできないでしょう」

「……批判しているのですか?」

「そうです。わたしと付き合いたければ、勝負をするべきでした」

 確かに風邪で声がおかしいからとか、言い訳を作って逃げていた。あのときも……。

「だけど、またこうして出会えたわけだから、過去のことは――」

「過去から何も進歩してないじゃないですか? 一度でも自分からアプローチしたことがありますか? 学生のときも。高校生のときも。今となってはもう遅いですが」

 潤はテーブルの上に置かれている凜花の手に自分の手を重ねた。想像していたとおりの感触があった。すべすべしていて、温かい。

「これでどうですか?」

 彼女は悲しそうな顔をした。

「もう遅いのです」


 目が覚めた。忌々しい思いで、目覚まし時計のアラームを止めた。しばらく失望に打ちひしがれた。窓の外は曇天だった。土曜の朝だというのに晴れやかな気分ではない。夢の中の凜花の言葉が耳にこびりついて離れない。

 二度寝して起きたのは、十時過ぎだった。土曜日だが、予定はなかった。潤は、掃除と洗濯を済ませた後、動画ストリーミングサービスで映画を見ていた。その間、尚樹からLINEがあった。

〈今夜、飲めるよ〉


 渋谷の雑踏は久しぶりだった。そこにはコックピットとは別の意味で落ち着くものがあった。コックピットの万能感はないが、匿名性の中で人は自由になれる。そこにはある種の安心感があった。五月の夜も快適で開放的な気分になった。

 尚樹は待ち合わせ時間の一九時過ぎに現れた。軍パンにグレーのパーカーというリラックス感ある休日のスタイルである。

 二人はビールのうまい店という条件から道玄坂のキリンシティに入った。キャパ三〇人以上の店内はそこそこの込み具合である。看板メニューのビールで乾杯すると、「今日は暇だったし、連絡来て嬉しかったよ」と尚樹。潤はその言葉をそっくり尚樹に返したかった。

 一通り料理を注文すると、互いの近況を語り合った。

 尚樹は相変わらず、辞書や教材の編集を主な業務とする編集プロダクションのT社で契約社員として働いていた。その立場は、会社の経営状況次第でいつでも打ち切られる不安定なものだったが、社員から指示された仕事を淡々とこなすだけでよく、責任も限られている。稼ぎは少ないが、気楽であるのは間違いなかった。いわば、ぬるま湯に浸かっているようなものである。

 当時潤も尚樹と同じ部署にいたが、その部署には、二〇代後半から三〇代前半の未婚の契約社員が数人いた。彼らは正社員に比べれば、明らかに仕事の負担は軽い。その分、経験を積む機会は乏しく、時間だけが過ぎていく。誰もがそのことを薄々感じながらも、そこからあえて抜け出そうとはしなかった。

 それは、正社員への道が一応残されていたことも影響してるだろう。しかし、潤の知る限りで、その道を実際に歩んだ者は一人しかいなかった。

「まあ、仕事は相変わらずだよ。変わったことといえば、新人が入ったことくらいだね。三〇代半ばの女性なんだけど、その人趣味でDJやってるんだ」

「DJってクラブの?」

「そうそう。俺、今年に入ってからその人がDJやるときクラブ行ったんだよね。そしたら、なかなか楽しくてさ。それで何度かクラブ行ってるんだ」

「クラブか~。昔、学生の頃一度行ったことあるけど、うるさくて楽しめなかったな」

「それは音楽が好みでなかっただけでは?」

「そうかも。とにかく耳がいかれるかと思ったよ」

「まあ、ダンスフロアは爆音だからわかるけど。クラブによっては、ラウンジという空間があって、そこはそんなに音うるさくないんだ」

「なるほど」

 T社での約一年半の勤務の中で尚樹とは一番懇意にしており、よく二人でランチを摂っていたが、話題は、映画や文学が主で、クラブの話が出たことはなかった。尚樹がクラブに興味があるとは予想だにしなかった。ところが、声の調子といい目の奥の光といい彼がクラブにハマっていることは明らかだった。

「実は今日も彼女DJやるんだ。渋谷のクラブで」

「そうなんだ」

「俺は行こうと思ってるんだけど、潤もどう?」

 潤はあまりに予想外の提案で唖然とした。二二時から朝までのイベントだが、途中で眠くなったらネカフェで過ごせばよいと言う。三〇過ぎてクラブってどうなのか、と訊くと、四〇代や五〇代の客もちらほらいるということだった。大音量とミラーボールの織りなす空間は、確かに惹かれるものがあった。そこが居心地が良いかどうかはわからなかったが、日頃潤が過ごしているコックピットとは真逆の空間である。コックピットから抜け出す絶好のチャンスなのではないか、と思えた。

「行くよ。おもしろそう」

 それは本心だった。


 二人が渋谷のホテル街の雑居ビルの地下階にあるクラブ「PULSE(パルス)」に着いたのは二三時一〇分前だった。重い鉄の扉を開けると、眼の前にバーカウンターがあった。鼻ピアスの若い女性のバーテンにエントランスフィーの千五百円を支払った。カウンターには外人のカップルが一組のみ。ダンスフロアはバーとは別の空間でバックバーの裏手にあった。薄暗いフロアに爆音で音楽が鳴り響いている。客はまばらだった。1Kのアパートのリビングくらいの狭い空間に、全部で四人しかいなかった。女性一人に自分と同世代かそれ以下の男性二人と四〇代以上の男性が一人。

 潤は、壁際の椅子に座って、ジントニックをすすりながら、この空間を観察していた。フロア中央の天井にミラーボールが備え付けられ、フロアを光線で彩っていた。踊っている人は中年の男性一人だけ。尚樹はと言えば、DJと思しき女性と話していた。今、回しているDJは金髪の中年男性だった。

 知っているジャミロクワイの曲がかかるといやが上にもテンションが上がった。フロアで踊っている男性もいっそう動きが大きくなった。潤はその行動を羨ましく思ったが、真似できそうになかった。


「紹介するよ。彼女がDJの律子りつこさん」

 尚樹にバーカウンターに連れてこられると、尚樹はそう言って、切れ長の目の整った顔立ちの女性を紹介した。女性DJといえば、前髪ぱっつんで尖った服装のイメージがあったが、そんなことはなく、ボブカットで、服装はボトムスがデニムスカートでカジュアル感が強かった。ただ、両肩を露出するトップスから女性としての色気が漂っていた。潤は尚樹がクラブにはまった理由がわかった気がした。

 潤が名前を名乗り、クラブに来たのは七、八年ぶりで二度目であることを話すと、律子は「ようこそ」と笑みを見せた。

「林さんもクラブ歴浅いですけど、気に入ったようで嬉しいです」

 潤は自分も雰囲気が好きだと話した。

「いいですよね。わたしはお酒と音楽があると幸せになれる人ですけど、吉田さんもですか?」

「そうかもしれないです」

「ぜひ楽しんでください」

 律子はそう言うと、今店に入ってきた客のもとに挨拶に行った。

「久しぶりのクラブはどう?」と尚樹。

 クラブはもっと熱気あふれる空間だと身構えていたが、そうでないことが嬉しい誤算だった、音楽も好きな感じだと話した。

「そっか、それは誘ったかいがあった。まあ、ここは小箱だからね。大箱とは違ってアットホームな感じだよ。俺はどっちも好きかな」

「すっかりクラブ愛好家になったんだね」

「『クラブ愛好家』って、『クラバー』って言ってくれ」

 潤にはその言い回しがどこか滑稽に思えて、思わず笑ってしまった。

「何だよ。別におもしろいこと言ってないぜ」

「ごめん、『クラバー』って言うんだ。知らなかったよ。なんかカッコいいな。で、クラバーになったのは、クラブという空間が気に入ったからなのか?」

「ほかに何があるっていうんだ?」

「律子さん、キレイだね」

「……潤もそう思うか? やっぱりそうだよな」

 尚樹は律子についていろいろと話してくれた。会社では異彩を放っているが親しみやすいこと、DJ歴は二年ほどでクラブ歴は十数年に及ぶこと、調布に住んでいること、埼玉出身であること。

「結婚はしてるの?」

「それは……してるが、夫婦仲についてはわからない」

「聞いてないの?」

「聞いてない。怖くて」

「気持ちはわかるが……」

 潤はそう言って、四〇がらみの男性と談笑している律子を見た。社交家で夜遊び慣れしているというのが潤の印象だった。こういう女性のことが好きになると精神的に辛いのではないだろうか。もっとも自分の意志で好きになったわけではないのだろうが。

「ともあれ、好きな女性ができて良かったな。しかも、職場で」

「ああ、だけどそれは両刃の剣だよ。職場は仕事をしにいく所だし」

「まあな。とはいえ、職場での出会いが仕事にプラスの影響を及ぼすこともあるんじゃないかな。つまり、会社に行くのが楽しくなるというような」

「確かに、でも、慎重にならざるを得ない。やっぱりそういう気持ちを抱いていることを知られるのはリスクなんだよ」

「そうだね。しかし、ひた隠しにするだけでは進展しないから難しいな」

「まあ、お前はもう部外者だからいいよな。彼女に果敢にアプローチできる」

「やめてくれよ。友達が好きな女性に行くなんて俺の趣味じゃない」

「そうか。ただ、俺には止める資格はないし、潤の自由だよ」

 確かにクラブにいると女性にアプローチしたくなる気がする。それはこの空間のマジックといえるだろう。開放的な気分になれて、人との距離が近くなるような気がする。

 二人はダンスフロアに戻った。深夜零時になった頃、DJが律子に変わった。中年の尖ったオヤジから露出気味の女性に変わったことで、視覚的にも高揚した。フロアでは数人が律子の掛ける曲に合わせて身体を揺らしている。潤も彼らを見習って初めて音楽に合わせて身体を揺らしてみた。そうすることで、初めてこの空間と一体感を持てた気がした。

(この感覚は、コックピットでは決して得られないものだ。やはりクラブに来たのは正解だった)

 潤は言葉を交わしてなくてもフロアにいる人たちとの間に何らかのコミュニケーションが成立しているように思えた。

 律子のDJはまるで移動しない旅のようなものだった。旅行で新しい風景に目を奪われるように、途切れることなく流れる音楽にずっと聴き入っていた。それだけで潤は内心驚嘆していた。

 DJの持ち時間は一時間だったが、終盤になると、よりダンサブルな曲になった。DJにも起承転結があることがわかった。真剣な面持ちでDJ機材を操作している彼女は今、フロアをジャックし、自分の色に染めている。それは愉快なことに違いない。

(これは一つの才能だな。DJが自己表現であることは間違いない。人の作った曲を掛けるだけであっても、選曲やミックスには個性が現れるはずだ)

 尚樹はDJブースの前で熱心に踊っていた。そうすることが、DJへの最高の反応であるのは間違いなかった。尚樹は彼女のDJに惹かれたのだろうか? あり得ることである。自分にはない才能のある女性に惹かれることは。そして、称賛の念が恋慕に変わることは。むしろ、称賛の念なしに女性を恋慕することは難しいのではないだろうか? 凜花にしてもそうだった。彼女のスレンダーな身体や美貌に称賛の念を抱かなかったら、彼女のことを好きになることはなかったはずだ。

 フロアは、時間が経つに連れ、スモークやらライトのレーザーやらでますます表情豊かになった。音楽がそうした変化を牽引しているかのようだった。音楽の長所は、感情や身体にダイレクトに訴えかけることだろうか。潤は芸術には親しんでいる方だと自認していたが、音楽よりも映画や文学に熱心だった。文学では、作者と感情的につながることはあっても、音楽のように特定の空間にいる人全員と一体感を感じることは通常はあり得なかった。

 律子がDJを終えると、尚樹は彼女に声をかけて二人でバーに行った。潤はフロアに残った。次のDJは潤と同世代の男性だった。黒縁眼鏡、七三分けの髪型、痩せ型という特徴からDJよりも文学青年の方が似つかわしかった。彼はそつなく曲をつないでいるようだったが、無表情だった。潤は彼に親近感を覚えつつ、身体を揺らしていたが、しばらくすると、友達らしき女性の二人組が現れて、彼に向けて手を振った。潤はその光景に嫉妬した。

 潤はトイレに行った後、フロアに戻ったが、足は止まっていた。今度はコックピットが恋しくなった。この場で独りでいるよりもコックピットで独りの時間を楽しんでいたほうがマシのように思えてきた。また、身体も休息を欲していた。幸いなことに椅子は空いていた。しかし、そこに座ることは、どこか今夜の冒険の不首尾を決定づける気がして、躊躇した。コックピットから抜け出すことが目的ではなかったのか? それなのに、このままでは何一つ変わらないのではないか?

 潤はそんな宙ぶらりんの気持ちのまま、スタンディングテーブルの前に突っ立っていたが、やがて隣に先程DJに手を振っていた女性の一人が来た。ワンピースから覗くその子の太ももやふくらはぎに惹かれていた。潤はにわかに落ち着きを失った。声を掛けるべきという思いが強まったが、不慣れなせいで何と声を掛けるべきかわからなかった。

「DJの人とはお友達ですか?」

 三秒以内に声を掛けないと、ずっと声を掛けられない気がしたが、その中で最初に思いついたセリフだった。

「ええ、友達というか知っているDJですよ。DJの方ですか?」

「まさか! ぼくはクラブ初心者です」

「へぇ~、そうなんですね。今日は目当てのDJがいるの?」

「いえ、そういうわけではないんですが、律子さんというDJが友達の知り合いで、友達に連れられてきました」

「ああ、律子さんとは何度か現場で一緒になったことありますよ。わたしもDJやってるんです」

「そうでしたか。……DJの人とは縁がないと思ってましたが、一気にDJの知り合いが二人もできて嬉しいです」

「よかったら、何か飲みますか? 奢りますよ」

「えっ、いいんですか?」

「クラブ初心者の人とはあまり知り合うことないし、わたしも嬉しいです。奢らせてください」

 ある程度の照度のバーに来ると、女性の姿形がいっそう鮮明になった。膝上丈の緑の花柄のワンピースにドクターマーチンのブーツという装いだった。潤はその出で立ちをお洒落かつエロチックだと思ったが、初対面の女性にそうしたことを口にするのは抵抗があった。

 潤はビールを一杯おごってもらった。乾杯したところで、お互いに名前を名乗った。女性は美月みつき(DJ名はMITSUKI)と言った。潤が「普段は何してるんですか?」と仕事について訊くと、

「クラブでは仕事については訊かないの」と、潤をたしなめた。美月は自分はクラブでは仕事や年齢は訊かないと語った。それは、クラブという空間にいる間は、そうした社会的属性から自由であるべきという考え方のためだった。

「なるほど、確かにクラブは非日常的空間ですからね」

「そうそう。クラブは、誰もが日常から解放されて、ハッピーになれる空間であるべきだとわたしは思ってる。DJがいる以上は、踊るのが一番いいんだろうけど、基本的に人に迷惑かけなきゃ何してもOKよ。クラブ行ったことない人で、よくクラブで何していいかわからないって人がいるけど、そんな難しく考えることないと思うよ」

「そういうもんなんだ。最高じゃないですか」

「そう思う? だったら、潤くんクラバーの素質あると思うよ」

 そう言われて、思わず笑った。自分がクラバーというのはあまりに意外だった。

「『クラバー』という単語もついさっき知ったばかりです」

「確かに日常語じゃないもんね。クラブは、好きな人は好きだけど、そうじゃない人はまったく寄り付かない場所だよ。日本では好きな人は少数派だから潤くんがそうなったら嬉しい」

 美月はそう言うとドリンクを飲み干した。

「今度はぼくがおごります」と潤。潤はカンパリソーダを奢ると、再度乾杯した。その間、尚樹と律子がフロアに移動したが、尚樹はこちらに目配せしてニヤッと笑った。潤は今、自分がイケてる男を演じられるポジションにいることを意識した。

「今日は美月さんのようなキレイな女性と出会えると思ってなかったですよ。ビギナーズラックですね」

 潤はどこかで聞いたことのあるセリフを口にした。

「……そんなこと言う人だったの。無理してない?」

 美月はこちらに目を合わせることなく言った。潤は痛いところを突かれて、うろたえた。

「い、いえ、ハハハ、そう見えますか。そうですよね」

「そんな歯の浮くようなセリフ似合わないよ」

「すいません。空回りでしたね」

 潤はそう言ってビールを煽った。

「わたしもよくクラブ行くから、ナンパされることもあるけど、不自然な感じは冷める。流れが大切だよ」

「……いろいろと教わることが多い日です」

「たぶんわたしの方が年上だからね」

「えっ、そうなんですか。ぼくは今、三一ですけど……、いえ何でもないです」

 潤は年齢を訊くのがご法度であることを思い出して口をつぐんだ。美月はフフッと笑った気がした。

「DJってやっぱりかっこいいですよね。DJになろうと思ったきっかけとかあるんですか?」

 潤は思いついた質問を口にした。

 美月は十代の頃からクラブ通いしていたが、DJになったのは当時付き合っていたDJの彼氏に勧められたのがきっかけであること、当時はスクールなどなかったので、彼氏から教わったり、見よう見まねで練習したりして、一年くらいでブースに立たせてもらったことを話した。

「なるほど、やっぱり簡単ではないんですね」

「どうだろうね。今はスクールで一定の時間――確か四八時間って言ってたかな――レッスンを受ければ誰でもDJになれるらしいよ。やってることと言えば曲をつなぐだけだから、楽器の演奏なんかと比べたら簡単なんじゃないかな。と言っても、DJも奥が深いし、ギャラがもらえるDJになるのは難しいよ。特に日本では」

 美月は日本はそもそもクラブに行く人が少ないうえ、テクノ・ハウスよりもヒップホップの方が人気があるからテクノDJで稼げる人はごく一握りしかいないと話した。

「でも、興味あるならやってみたらいいと思うよ。そこまで機材におカネかならないし」

 美月は誘うような目つきでそう言ったが、自分がDJになることは考えてもなかった。

「いえ、DJになりたいなんて思ったこともないです。……ぼくはどちらかというと映画や文学が趣味でして」

 潤は申し訳なさそうに言った。

「それじゃあ、クラバーとは違う人種なのかな」

「どうでしょうね。今日連れて来られた友達もクラブとは縁がないと思ってましたが、今やすっかりクラバーになったので。まあ、それは律子さんの影響かもしれませんけど」

「律子さんの影響?」

「つまり、彼女のことが好きになったという」

「ああ、そういうことね。律子さんキレイだからね」

「結局、男にとっては女性が最大のモチベーションになるってことですね」

「潤くんもそうなの?」

「……そうかもしれません」

 潤は凜花のことを思い出していた。会社に来るのが仕事よりも凜花が目的というのは転倒していたが、そうなったのは事実だった。それでも、その中でジレンマに陥った挙げ句、結局はアプローチすることもなかったのだが。そこから得た教訓は、チャンスはいつでもあるとは限らないというものだった。

「正直なんだね」

 美月はそう言って、笑顔を見せた。潤は手を伸ばせば触れられる距離にある美月の身体を意識した。視覚からもすべすべした肌や柔らかい胸の感触が感じられた。ワンピースの短さは、隠れている部分への欲望を喚起せずにはいられなかった。潤はその部分のスマホによる盗撮という良からぬ想像にゾッとした。

(エロ動画の見すぎで壊れたか俺は)

 潤が頭を振っていると、「どうしたの?」と訊かれて、あたふたしているときに、美月といっしょにいた女性とDJの男性がやってきて、美月はDJとハイタッチを交わした。

 美月は自分を二人に紹介した。二人は好意的な反応を見せた。潤は初対面の人に受け入れられたことが嬉しかった。

 


 始発の時間の頃、潤は尚樹と道玄坂の道端に座り、コンビニで買った酒で乾杯していた。空は白け、夜遊び帰りの若者が駅を目指して歩いていた。不思議と眠気はなかった。結局のところ、二人とも凹んでいた。潤はといえば、美月と飲みの予定を入れたかったが、「わたし最近立て込んでて」と言われて不首尾に終わった。尚樹はもっと大胆な行動――律子にキスを求めた――に出たのだが、「嫌だよ」とすげなく断られたのだった。

「なんか、今日はおかしくなったのかな俺。ムラムラしちゃって」

「気持ちはよくわかるよ。まあ、まだまだこれからだよ」

「会社で冷たくされたらどうしよう」

 尚樹はそう嘆いて言った。

「それはないと思うよ。彼女はモテる方だと思うし、それくらいよくあることなんじゃないかな。だから、そういうのでいちいち態度を硬化させることはないと思う。俺は尚樹の行動を評価するよ」

 尚樹は疑問符を貼り付けた顔で自分を見た。潤は凜花のことが好きだったが、アプローチしなかったことを後悔していると話した。

「だから、アプローチするのは間違ってない、というか、そうすべきだと思う」

「なるほど、そうだったのか。彼女、急に辞めちゃったよな。何があったのか知らないけど」

「……ああ」

 二人はしばらく無言で缶酎ハイを飲んでいた。



 潤が自宅のベッドで目覚めたのは昼過ぎだった。日曜日は洗濯や掃除というルーチンがあったが、それらを行う前に、別のルーチンをしたかった。美月に抱いた欲望がまだ蟠っていた。潤はPCを立ち上げると、またぞろエロ動画のフォルダを物色した。「谷元希美たにもとのぞみ」や「東理央あずまりお」などの女優の動画は何度も使っていた。それらは条件反射で興奮できる動画だった。しかし、美月への欲望がありながら、動画でオナニーすることに違和感を感じた。

 潤はコックピットを離れて、ベッドに仰向けになると、美月のまだ見ぬ性的姿態を想像して、すでに勃起していた陰茎をしごいた。

 射精を終えた潤は、エロ動画のフォルダを完全に削除した。(了)

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