猫本禄

第1話

友人が私の住んでいる町に引っ越して来ることになり、その手伝いをした。色々と買い揃え引っ越しも無事に終わり、その祝いとして二人で町へ出かけた。風の強い日だったが、歩くのにも問題がないくらいだった。

今夜は満月らしく、風が強いのできっと雲もない。帰ったら窓越しに月見でもしようかなどと私は考えていた。


映画を観たり、ゲームセンターや、古本屋へ行った後。古びた喫茶店に入った。


天井の隅に小さな蜘蛛の巣が張っていたが、他は清潔感があった。恐らく、掃除をした後に張ってしまったのだろう。


私はザトーストとココアがを頼み、友人はナポリタンとオレンジジュースを頼んだ。


料理が来るまでの間、オカルト好きな友人は怪談を話そうと言ってきた。私もこの手の話は好きなのですぐに了承した。


すると、早速とばかりに。これはうちのおばあさんから聞いた話なんだけれども、と友人が語り出した。



昔、青森県のある山奥での話だ。そこには温泉が湧いていて、広い範囲に複数の宿が点々とあったそうだが、その中にひとつ変わった宿があった。それは旅人がよく神隠しに遭う宿。宿は老齢の婦人とその子供達で回しているが、単に主人である女将が歳のせいで宿帳を読み間違えたとか、記憶違いだとかそういうのだろうというのが皆の解釈だった。とはいえ、地元の人間達の間では聞き慣れた怪談だったそうで、そのことを尋ねれば語り慣れた口振りで話してくれるという。

「神隠しか。よくある話だね。でも宿に泊まって神隠しってのはあんまり聞かないなぁ」

「そうなの。珍しいよね」

友人はカラコロ笑いながら続きを語った。



その宿にある日、旅の僧が泊まったそうだ。彼は十和田湖を目指しているのだと、居合わせたマタギに話したという。僧侶もマタギも気があったらしく、隣室だったというのもあり僧侶が泊まる部屋で夜遅くまで一緒に語り合った。マタギの方は、この周辺で熊が多く出るので応援に来てほしいと呼ばれてきたのだと言った。珍しくもない話であった。


身の上話から最近の話まで多岐に渡る会話だったが、ある時ふとマタギが口を閉ざした。そのまま天井をじいっと眺め始めたのだ。

どうしたのかと僧侶が声をかけると、「何かいる」と天井を見たままマタギは答えた。天井の隅にいつの間にかできていた小さな蜘蛛の巣に、これまた小さな蜘蛛がゆらゆらと糸を垂らして揺れていた。鼠か、それともテンなどだろうか、いや、蛇かもしれぬと僧侶が考えていると。「こりゃ普通のもんじゃねぇ」と驚いたように目を開きながら、マタギは部屋の隅に置いていた猟銃を手にした。ただならぬ様子に僧侶も身構える。「一体、何が居るんだ?」と尋ねると、「山で偶に、よくないものを見る。それみたいだ」とマタギは青ざめた顔をした。『よくないもの』とはなんだろうか。僧侶には分からなかったが、自分より山をよく知る者の言葉を信じることにした。


今夜、この宿に止まっている者は、マタギと僧侶の二人だけだった。外では風が強く吹いていて、何かが転がる音が偶に聞こえたりしていた。

マタギ曰く、何かが天井を動いた気配がしたのだそう。しかもそれはかなり大きなものらしい。だが、そんなものが動いていたら、僧侶の耳にもその音が届くはずだがそんなものは聞こえなかった。然し、音は届いていないが、確かに気配はする。それに、視線を感じるのだ。まとわりつくような視線。それに何故だが妙に体が重くなってきている。ただ座って話しているだけなのに。


そうこうしている間に、キィキィとはっきりした家鳴りがあちこちから聞こえてきたのだが。急に女の叫ぶようなけたたましい笑い声が上から響き渡った。大の男が二人揃ってビクリと肩を震わせた直後。隣の部屋にドタン、と大きなものが落ちた音が聞こえてきた。そこはマタギの部屋だった。隣からは何かを動く音、糸を張り詰めていくような音や布を割く音、ガリガリと何かを削るような音まで聞こえ始めた。粘つくような水気のある音まで聞こえてくる。


マタギは相変わらず青ざめた顔をしながらも「お坊様、気をつけなさいよ。ムジナや熊どころか、こりゃ大変なもんが来てるかもしれん」と小声で忠告した。薄々僧侶も思ってはいたが、矢張り普通の獣とは違うものがこの宿に居るらしい。僧侶の額に嫌な汗が滲んだ。「私も未熟ではあるが、御仏に仕えるものだ。経文の覚えもある。唱えてみようか」とマタギに問うと彼は「それじゃあ一緒に唱えよう」と頷いた。


経を唱え始めてから暫くして、隣に居た何かが部屋のあちこちにどかり、どかり、とぶつかる音がし始めた。そしていよいよ、隣の部屋の何かが廊下に出る音がした。カツリ、カツリ、軽くて硬いものが床に当たっているようだ。


今夜は風が強く、空の雲が流され満ちた月がすっかり出ていた。だから、障子から部屋の中を照らす冷たい光があったのだが。


影が映った。


大きな影だ。丸いものに細長い折れた棒が左右に複数ついている。


「こ、こりゃ、『蜘蛛』か?」

「私にも……そう見える」

マタギも僧侶もごくりと生唾を飲んだ。どう考えても、異常な大きさの蜘蛛が障子を隔ててそこに居た。


マタギが銃を構えようとして、呻く。その横で僧侶は必死に法華経を唱えながら、腕を動かした。

「うわっ、なんだこりゃ、この」

いつの間にか、二人の服には小さな蜘蛛が群がっていて糸があちこちから巻きついていた。急いで、手で振り払う。この糸が普通の蜘蛛の糸とは違う。なんとも強い糸で、女子供なら無理矢理引きちぎることはできないぐらいに硬かった。


小さな蜘蛛と糸を振り払っていると、また女の笑い声が聞こえてきた。今度は、ゆっくりと左右に開いていく障子の向こうからだった。





翌日。マタギと今度の猟の打ち合わせの為迎えに来た他のマタギが、どっと疲れた顔をしたマタギと僧侶が宿の外で座り込んでいるのを発見した。二人共、体中に白くキラキラとした糸の切れ端をつけていた。


そして事情を聞いたマタギ達が揃ってその宿の様子を、暫く休んで回復した当事者の二人と共に見に行くと、なんということだろう。


出るわ出るわ。畳の下から、軒下から、多くの人骨が出てきたのだった。マタギが泊まるはずだった部屋には、彼の荷物があったが、着替えも食料の干し肉もバラバラに散らばっていたという。


宿の各部屋や廊下に残っていた小さな蜘蛛も、人が来ると、山の方へそろそろ逃げたそうだ。


「結局、その大きな蜘蛛は? てか二人共無事だったんだね」

「そうそう。二人共無事でね。詳しいことは分かんないけど、そのマタギの人が銃を撃ったら、文字通り蜘蛛の子を散らすようにみーんな逃げちゃったってさ」


そこまで聞いて、一つ気になったことを訊ねる。

「そういえば、その大きな蜘蛛を二人は見たんだよね」

「ああ、見ちゃったらしいよ」

なんでもないように、あっけらかんと彼女は言った。

「女将さんを若くしたような女の人の上半身が着いた大きな蜘蛛。障子が開いて部屋の中に入って来てさ、その蜘蛛がお坊さんの前でピタリと止まってをずうっと恨めしそうに睨んでてそこをズドン、だってよ。お経を唱えてるから近づけなかったのかなぁ」

詳しい事は分からないと言ったくせにやけに明瞭な説明だった。

「本当だったら怖い話だね」

「本当かもよ。うちのおばあさんから聞いた話だもん。だってよくある話だって言ってたし。そういや、うちもマタギやってたからかな」

そういえば、と友人が「自分の家もマタギをしていた」と話し始めた。



「それでね。色々決まりがあってさ。これをしちゃいけない。あれをしなきゃいけないとか」

「ああ、あるよね。山に入る時の人数とか、獲物の数とか」

「でも、そういうのとは違う決まりがうちにはあってさ」

友人は耳を貸して、と手招きした。


彼女は耳元でこっそり囁くように言った。

「私の家では風が強くて満ちた月が出てる晩は」


「ずうっと法華経を唱えてなきゃいけないの」

ハッとして離れると、向かいの席で彼女はまたカラコロ笑っていた。



だが、その視線は天井の隅に張っていた放射状に編まれた白い網から伸びた白い糸と繋がって いる小さな蜘蛛に向けられていた。




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