幕間の物語 藤本元洋
2050年。日本。
その時期にこの国が沈んでいったのと同様に、当時、俺の心は地の底で蹲っていた――マントルの激しい熱源帯へと、その身を溶かしていた。
36年後。歌舞伎町。とあるラブホテル。
そうして、ついに訪れた今際の際。その時を持ってして俺が思い出すのは、あの時の熱を帯びた後悔だった。
懺悔かもしれない。悔恨かもしれない。ただ、悔悛でないのは確実と言える。
正直、自分でも驚いた。
捨てた筈の自我が、今になって、帰還するとは――全く、思いもよらなかった。
今日だって、性欲に負けて美人の尻にのこのこと着いて言った結果が今で。何も考えず、視床下部のホルモン運動に従って下半身の向いた方に歩いて行っただけだ。自分なんてものはもう既に灰になっていたと、そう思っていた。
捨て去り、消え失せた筈の過去が――妻や娘の笑顔が、懐旧の念となって、今更――。
もしくは、左耳と右手の痺れが、そうさせたのかもしれない。血の気の引くような痛みはいつの間にか無くなり、あったかどうかも分からない記憶を無理やり捏造し、思い返させているだけなのかも知れない。
走馬燈――走馬灯。
字の如く、燃え盛るが如く、長い追憶の旅路の果てに、ようやく、今、目の前にいる、冷血漢の名前を思い出した。
しおんと、俺の前でそう呼ばれた男の子は――見た目でパッと男と判別出来ない彼は――憎き仇敵であるアイツの――あの時代に名を残した名医『朧夜』紐解の最後の御落胤であり、未来を奪われた被害者であり、犠牲者でもあり――俺の娘の残照を、この世で唯一理解者し、共感し得る人物だ。
それは、俺にとってでもある。
運は天にあり。父は偉大で――卓越した存在だ。そしてその権威は不可抗力なものだ。我々子供は、気が付いた時には自我は殺され、行先の未来は定められてしまっている。まるで、まな板の上の鯉の様に、そこに居てしまった時点で、じっと、その時を待つしかないのだ。
――脇腹に鈍い痛みが走る。何度も、何度も――。
その度に体が震え、快感が脳を支配するのが分かった。何度も、何度も――枯れるまで。
ようやく死ねると、彼女らに会えると、そう思ったのだが。
ややあってそれは止み、五感を取り戻した際、こんな声が聞こえてきた。
「......お前には、家族がいるんだろう。今の状況を写真で見たら、どう思うかな」
「そんな事――」
反射的に出かかった言葉を、残っていた理性をもって押さえ付ける。
こんな事、今のこの子達に言ったって無駄だ。
大切なのは引導を渡す事――いや、より、真実をもって、苦しめる事だ。それが、解決へと向かう手立てとなる。
……こんな格好で、言えた話ではないだろうが――
「教えてやるよ。彼の要る処を」
そう無理に引き出した啖呵を切り、死へと駒を進めた。
――――――。
ここは、36年前の山口県。
地形が象の鼻のようになっている特異な場所に、俺は住んでいた。
その中でも。
広い枯山水、整えられた松の木、白壁の瓦屋根からは燈籠堂が覗き、隣に道があるとはいえ、車通りは少なく、人も度々見かける程度の静かな場所。
そんな古民家の縁側に座り、俺は、庭でじゃれ合う妻と娘を見ていた。
そこには幸せが満ちていた。
そう。大きな幸福だ。
白色の太陽に照らされて上がる体温も、耳触りの良い蝉の音も、雨上がりの土草の匂いも、そこに存在した全てが、何もかも――。
崩れ去るのは一瞬の事だった。
「お茶を淹れて参ります。お義父さま」
「や、いいんだ。私も朧夜君も要を済ませて早急に帰らねばならんからね――」
縁側の傍の和室で、俺たち夫婦と父は向かい合って座る。娘は、奴の膝の上で楽しそうに見上げている。
……和かに笑いかける父の顔を見たのは、何時ぶりだろうか。しばらくにない間に、人が変わった様だ。
これは、あんな平和な時間から僅か10分後の事。
数多くの黒服を引き連れて、和服の父は俺の家の敷居を容赦なく跨ぎ、呼び寄せてきた。
隣には、朧夜紐解(ほどき)と呼ばれた白衣の変人が立っている。目に生気はなく、ロボットの様な抑揚の無い声で言葉を引き受ける。
「元洋さん。貴方の奥さんと娘さんを借りたい」
「……は?」
「お父様の許可は得ている」
「だからって――」
「そしてお前には、私の代わりとして現政権の後援者として立ち回ってもらう」
俺の意見など聞いていないと告げるような早口で、このような重要な、肝要で肝心な物事を進めようと父が続けた。
「今年、時代は動くぞ――元洋」
気付けば肩に置かれていた手。硬く、重い――思いの乗せられた掌の感触。
それを振り払うことは叶わず。
紐解と呼ばれた男に抱えられ泣きじゃくる娘と拘束され助けを乞う妻の悲鳴を――伸ばされた手を、俺は、ついに掴む事叶わず――追いかけることすら出来ず、じっと、正座したまま、見送った。
以来、一生残る癌のような疼きを俺は忘れない筈だった。
だからこそ、仕事に専念し力を入れてきたからこそ、いつかの俺は、そんな黒色の記憶を奥底へと葬り去っていた。
激熱へと身を投げた俺は、政治という――父の後継という歪な型に嵌められて何もかもが再形成されてしまっていた。
そりゃ、一時は行方を追ったりした、調べたりもした。当然だ。大切な人が奪われたのは、俺自身の事なのだから。
だが、真相に近付き、ケツを掴んだその時に、俺は――いや、確たる事実として、最悪の未来が見えてきた。
それは、俺の推し進めてきた政策の犠牲となっていたという事実。
見て見ぬフリをしつつ、気付かないフリをして、俺は……俺は――間違った事をしていないと、信じて突き進んだ。
前なんて見えていなかった。
盲目に、父に言われた事だけをし続けてきた。
残された物に望まれた通りにやってきたつもりだ。
数々の血も見てきた。その中に、妻や娘にも似た影もあったろう。
怪しい手術を、俺自身が受けたこともあった。
何度も、何度もだ。
その中で特質していたのは、心臓への手術だった。
父の威厳だけに目を向けるようになってしまっていた俺は、素直に、なんの疑問も持たずに、それらを続けてきた。36年間も、だ。
アイツの――彼の姉が――俺達の様な歪な鋳造品を粉々に砕くまで、だ。
そんな彼女もまた、歳を経て、手術の後遺症に悩まされているのも知っていた。
それでも一体、何人が謝罪に出向いただろうか。
数億の犠牲者を前に、どの面下げて、謝罪なんてできようか。
俺もまた、その1人だった。
どのツケが、今。
心臓に埋め込まれたマイクロチップは、『朧夜』という言葉をきっかけに小爆破する事を、俺は知っている。
勿論、直接聞かされたなんて事、ある筈がない。
調べていくうちに、そういうものだと知ってしまっただけ。
この子達には申し訳ないが、最後に、最低の者を見せてしまったが――そうなる事になるが、その全てを受け入れて、真実を――最低の事実を、掴んで欲しい。
子供には受け入れ難いだろう。
そんなものに、どうして命を賭け、大切なものを手放すきっかけになり得るのかも、分からないだろう。
だが、それで間違いは無い。
というより、そうでないといけない。
若い世代は、間違いを次の世代に残せない。
所謂、責任を押し付けられる立場にある。
そんな状況を受け入れられないだろうことも承知している。文句があるのも分かっている。
でも、申し訳ないとは思いつつも、そんな、俺たちが生み出した負債を、どうにか、どうにか――。
「後の事は、君に託すよ。『朧夜』、しおん君」
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