490点の見せ物

@Tselie_Tw15

490点の見せ物

 僕は彷徨っていた。雨の中、たったの数時間で僕は都会の雨に慣れたらしい。何の感動も起こらない。

 「君、こんな時間に何してるの? 中学生?」私服警察官に声をかけられたときはこの世の終わりに思えたけれど、東京は人が多いからうまく巻くことができた。

 東京は、全てが倍で、複雑で、適応するのが難しい街だった。

 場違いな僕は、既視感を求めて彷徨い、今、どこだか分からない路地裏にうずくまっていた。

 雨を吸ったリュックサックが背中にじっとりとくっついている。雨を浴びながら、これからどうしようか、そんな無意味なことを考える。それを何度か繰り返しているうち、泣いた後みたいに瞼が重くなってきた。

 うつら、うつら。

 パシャ パシャ パシャ

 意識の片隅で、街の喧騒に新たな音が加わったのを掴んだ。

 パシャパシャパシャ

 足音、みたいだ。

 パシャ

 近い。

 ハッと顔をあげた。

「…………」

 目が合った。

なに、この美貌。

何気に死んだのかな、とか思う。

 けど、それは、海色の傘を差した、人魚姫だった。

 近いとは言っても、五メートルくらいは離れている。

 水が跳ねるのも気にせず、人魚姫がこちらに向かってくる。

 伝説の人魚姫。笹雨夜假ささめよか

 ど田舎出身、芸能界興味無しの僕でも知っている。

 耳が聞こえない人にも歌を届けられる、無音コンサートができる、あの人魚姫。

 東京ってすげえ。

 数時間前の興奮がぶり返すようだった。

 芸能人が本当に歩いてるんだ。

「何してるの?」

 人魚姫は海色の傘を傾けた。

 雨音が遠ざかる。

「何してるの、家出?」

 もう一度、人魚姫は言う。

「…………」

 目を合わせたまま、何も言えない。

 興奮もあるけど、図星だからでもあった。

 きらきらの人魚姫を前に、僕は田舎出の、芋男であることを自覚する。

 何となく、家出なんて答えたくなくて、僕は口を閉ざし続けた。

「お……?」

 人魚姫は、しゃがんで僕を覗き込んだ。

 薄闇で、その手はあまりに白く、眩しく目に映った。

 前髪がすべて上げられ、まっすぐに目が合った。 

「……!?」

「おー……。なるほど」

 夏だけど雨に濡れ、僕はだいぶ冷たかったはずだが、人魚姫の手はもっと冷たかった。

 ひんやりとした手が離れ、人魚姫は首をかしげた。

「ね、名前は?」

「………」

 僕は答えなかった。

 いちいち人魚姫の仕草に見惚れていたというのもあるけど、やっぱり名前を名乗りたくなかった。

「むーん。ならどうしよ。……ポチとかタマは王道だしな」

 人魚姫は何やら考え出した。

「ゴンとか? あ、アメのがかわいいか?」

 そして数秒後。

「よしアメ太!!」

 ビシッと僕の前に人差し指が来た。

 爪が桜貝みたいだった。

「ね、アメ太」

 僕に向かって言ってるみたいだった。

 ということは、アメ太というのは僕の名前か?

「選んで、アメ太」

 人魚姫は言った。

「私と警察に行って保護してもらうか、」

 人差し指を立てる。

「私に保護されるか」

 ピースになった左手が揺れるのを追った。

 2つ目のひんやりとした体温に触れる。

「保護される、ね。おっけ」

 人魚姫は短くそう言って、取り出したスマホでどこかに電話をかけていた。

「あもしもーし。ねーお風呂準備しといて。よろしく」

『ぇえ!? なに、また、なんか拾ったの?!』

 スピーカーモードだから、相手の声も聞こえる。

 画面には通話相手が表示されている。

 相手は、2点。

 誰だ、2点って。

「うん、そー! だからお風呂よろ」

『わかったー。で、今度はなに、犬? 猫? モモンガとかはやめてよ? 条例違反になるから』

「うんアメ太!」

『犬なん猫なん、どっちなん』

「だから、アメ太はアメ太なの。お風呂よろしくね」

 言うが早いか、人魚姫は通話終了ボタンをタップしていた。

「じゃっ、私についてきてね」

 人魚姫はそう言うと、僕の手を引っ張って立たせた。

 手は離さないまま、歩き出す。

 数歩歩いて、傘を邪険そうにみた後、片手で器用に閉じてしまった。

 霧雨だった。

 道路で反射する色とりどりの光の中を、人魚姫の後ろからついていった。

 しっとりと髪と肌を濡らし、度々振り返る姿は、完璧に人魚姫で、繋いだ手から今に泡になって消えてまうんじゃないかと不安になる。

 僕は必死になって後についていった。

 最後は、ドアホンを押した。

 高級ホテルみたいに、絨毯みたいな廊下が広い。そして明るい。

 ピンポーン

 軽い音が鳴った。

「ハーイ。おかえ……ええ!?」

 イケメンが出てきた。

「なっ、よっ、夜假ちゃんが人間拾ってきたんだけど!?」

「もしかして夜假、拾った人間のこと飼えると思ってんの?」

 いっぺんに美形が2人も増えるのやめて欲しい。きらきらの供給過多。

「あ、これ、アメ太」

「え、あ、うん。俺、雷樹らいじゅ。……じゃなくて!どーゆーことだよ!」

「なんで夜假ちゃんまで濡れてるの? 傘あんのに」

 言われても気にせず、人魚姫はまず僕の頭に被せた。

「まず、アメ太お風呂入れちゃうから。琉樹りゅうき、案内して」

 「いやマジで、どーゆー状況??」

 琉樹さんは新しいタオルを持ってきてくれ、しきりに首をかしげながらも案内してくれた。

「あ。アメ太、着替えは?」

 さらに、人魚姫に聞かれら僕はうつむきつつ首を横に振った。

 ぽたぽた、水滴が落ちた。

「じゃ珀亜はくあに借りるか。歳近そうだし」

 何が何だかよく分からないうちに、僕はあったかい湯船に浸かっていた。

 もう完全に思考は手放している。

 そして、何よく分からないままお風呂から上がり、今はこうしてリビングに座っている。

 隣には、別な部屋でお風呂を終えて、Tシャツと短パンに着替えた人魚姫が座っている。

「で、何なんだ。ちゃんと説明しろ」

 イケメンが一人増えていた。

 たぶん、今僕が着ているシャツとハーフパンツの持ち主の珀亜さんだ。

 見渡す限りの美形。

「うん、拾ったの。この近くで。名前はアメ太」

「………」

 僕はひたすら押し黙ることしかできない。

 こんな美形責めみたいなことになってて、緊張しない人なんかいないと思う。

「……で?」

 珀亜さんは先を促す。

 先……。どう説明するんだろう。

「え。で、ってそれだけだけど?」

「はああ? じゃ誰なんだよ、それは!」

「アメ太だって」

「本名は!?」

「ええ知らないよ」

「馬鹿なの!?」

「ううん、全然賢い。少なくともあんたよりは」

「ふざけてんの!?」

 人魚姫と珀亜さんが喧嘩を始めてしまっため、雷樹さんと琉樹さんが2人を引き離した。

 そしてすぐ。

「ねえ私お腹空いた。何か作っていい? てかアメ太もお腹空いてるでしょ。」

 人魚姫はいつの間にかキッチンの冷蔵を開けていた。

 そういえばお腹が空いてることを思い出した。

 くるるる、と微かにお腹が鳴ったけど、気づかれてはいないみたいだった。

「親子丼でいいよね。異論はないことにする」

 人魚姫は既にボウルに卵を出して、召集をかけた。「手伝ってー! アメ太と珀亜以外」

 キッチンの方は一気に騒がしくなり、リビングに一気に静けさが満ちた。

 ど、どうしよ。

 超、気まずい……。

「逃げるなら今だけど」

 珀亜さんがこっちを見ていた。

「夜假はたぶん、お前を売る気だ」

 僕を、売る?

「こっちかあっちか、どっちであいつが検討してるか分かんないけどな」

 どっちが "こっち" でどっちが "あっち" なんだろう。

「あいつは、お前に、自分で稼ぐ道の手助けをするだけ。それが嫌なら今逃げとくのが一番。別に誰も止めない」

 はっと顔を上げると、真剣な目をした珀亜さんと目があった。反射的に、また俯く。

「あくまで手助けするだけ。自分の将来のために行動しておいた方がいい」

 僕は、逃げなかった。

 僕でも稼げる? それは願ったり叶ったりじゃないか。

「できたっ!! 珀亜持ってって!」

 人魚姫の声がキッチンから響き、それで珀亜さんは席を立った。



「お、はよう、ござい、ま、す」

「お。おはよー」

 昨日は余っている部屋を使わせてもらった。

 キッチンで琉樹さんがお味噌汁の鍋をかき回していたので僕も朝食の手伝いをした。焼鮭に豆腐とワカメのお味噌汁、卵焼き、白米。

 食べ終えて食器を洗っていたらガチャリと玄関が開く音がして、珀亜さんがやってきた。

 そのすぐ後、人魚姫がやってきた。

「アメ太! おっはよー!」

「ねえ俺におはようは!?」

「はいはい。おはよおはよ」

 雷樹さんに対しなげやりに言いながら、人魚姫は姿を現した。

 今日は制服姿だ。

 良く見たら珀亜さんも。

 土曜日なのに。 

「よしアメ太。一曲踊ってみてくれる?」

 ん?

 踊るって言ったの、今?

「1分もないから安心して。創作ダンスね。どっちの方向性か見るだけだし、好きなように踊って」

 人魚姫はスマホを操作しながら言った。

「はいいきまーす」

 スマホを僕に見えるように立て掛けてある。

 もうカウントダウンが始まっている。

 3、2、1

 曲が始まる。

 僕はワンテンポ遅れで踊り出した。

 今、TikTokで流行っている音源だった。

 創作ダンスだから、本家のダンスはガン無視。

 1分経たずに曲は終わった。

「あー。これ疑いの余地なくあっちだ」

 と人魚姫。

「うんこれ、間違いないなね」

「どこをどう見たってあっちだわ」

 と雷樹さんと琉樹さんも同意していた。

 何が? 何が "あっち" なんだろ。

「珀亜。あんた、どっちだと思う?」

 人魚姫は珀亜さんを振り返って聞いた。

「面倒だけど、向こうだな。こっちじゃない。それは確実」

 と珀亜さんは淡々と述べていた。

 それを受けて人魚姫は「さて、ここからが問題だ」と呟く。

「ここからもなにも、全部お前のしたこと大問題だろ」と珀亜さんは呆れていた。

「うーん。とりあえず、校長と話つけてくる。待ってて」

 人魚姫は出ていった。

 窓から。

 何で窓から?

「あーっ、危ないから玄関から出ろっていつもいつも言ってるのに!」

 雷樹さんの発言から、初犯でないことは分かる。

「あれ絶対窓から校長室入る気だよ」

 琉樹さんも呆れながらそう言った。

 え、そうなの?

 と思って覗き込むと、向かいの建物の、窓を躊躇なく開けていた。

 そして、ひょいっと窓枠を越えて入っていった。

 なんかすごい。

 僕が関心している間にも珀亜さんが何枚かパンフレットを取り出していた。

 それを、すっと、僕に差し出す。

「え、あの、僕…に?」

「そう。今からアメ太が通う学校」

 見出に大きく『星涼』の字。

「せい、りょう芸能学校…?」

「うん。知らない?」

 と雷樹さん。

「はい…。ごめんなさい…」

「星涼はね、うちら茅峰かやみねのライバル学校なの」

「才能が無いと受からない。それだけ」

「夜假は、アメ太を星涼の芸能科アイドルコースにぶっこもうとしてる」 

僕が、アイドルに?

パンフレットを見る。

世界が違うひとたち。

「でも。嫌ならまじで今逃げるか、」

「逃げません。」

言うと、みんながニヤっと笑った。

「「「いい心持」」」

「まあ、頑張ってね」

雷樹さんが太陽みたいに言った。


「なあアメ太。『ブスだね』って言われたらなんて返す?」

唐突に、珀亜さんが僕に聞いた。

まったく意図の掴めない質問……。

「え、っと。そりゃあ今ここにいる皆さんの足元には、とても及ばない田舎ブスっては、自覚ありますけど……」

ぶはっ、と雷樹さんが吹き出していた。

「ウケる。ここだけ超茅峰向きじゃん」

琉樹さんも同調している。

何の意図があったんだ?

「ごめんね、今のは、俺たちがよくやる、茅峰の生徒か星涼の生徒かの見分け方なんだ」

雷樹さんが、説明をくださる。

「ここで、『は? どこがブスだって?』ってキレ散らかすのが星涼。あいつらプライド高いしね。で、茅峰は、『だからこそ今努力してんの』って返すんだよ」

へー……なんか星涼怖い。


そんなことを聞いたので。


「……ブスですね」

「あ?」

戻ってきた人魚姫に言ってみた。

「げっ、」「うわー、やったわ」「……」

雷樹さん、琉樹さん、茨さんがしまった、って反応の中、珀亜さんだけは「さいこーww」と言い、人魚姫に睨まれていた。

「えまって、こいつ今、私にぶすって言った???」

「言ったwww」

珀亜さんが喜んで答えた。

もしや、僕、人魚姫の地雷踏んだかも……?

「おいアメ太あんたいい度胸してんじゃん。私のどこが、ブスだって?」

「……」

やっっっばい。

珀亜さん、笑ってないで助けてくださいお願いします。

「だから、性格の醜さを美貌で誤魔化してるんだろ、ってこと」

 恐ろしいことに全てが違うのですが。やめてください、さすがに死にたくはないです。

「は?なにそれ?」

「夜假ちゃんその辺にしといてあげて。たぶんアメ太試しただけだよ」

そう、そうです。雷樹さん、そうなんですよ。

「めっちゃ頷くじゃん。夜假怯えられてるよ」

琉樹さんはそう言って、経緯を説明してくれた。

「なるほど? つまり悪いのお前らじゃん」

「「ごめんて」」

素直や謝罪に紛れ、

「でもお前、性格ブスだろ」

火に油を注ぎ出す珀亜さん。

「は? お互い様だろふっざけんな」

そこで、雷樹さんがまあまあまあまあ、と止めに入る。

「ゴメンね、アメ太。この学校で、笹雨夜假ささめよか和泉珀亜わずみはくあだけはちょっと例外なんだよね」

「この二人だけはこっちにいる方がおかしいタイプなんだよね、見ての通り、プライド高めだし。気質がもうむこうなんだよねー」

へ、へえ、そうなんですね、でもそれ、もっと早く言って欲しかったというか……。

「ま、私が美しすぎるのは当たり前過ぎてどーでもいいのよ」

これは否定できない。その通りなので。

「ほらー、アメ太。行くよ」

「はっ、はいっ、」

「星涼に売りつけてきまーす」

人魚姫のそんな掛け声に押されるように、僕は前に進む。

「夜假お前絶ッ対、喧嘩買ってくんなよ」

「うっさいねー、わかってるよー。私、喧嘩売られたら買うんじゃなくて売り返す派だもん」


「...行ってきます」

 僕は小さく言ってみた。

 それでもちゃんと拾ってくれる。返してくれる。

「「「行ってらっしゃい!」」」

僕は、人魚姫に連れられて、星涼に足を踏み入れた。


僕が初めて自分で歩いた一歩は、隣の人魚姫が用意してくれた道だった。



星涼に入ってすぐ、僕がお世話になった人たちは、超大物も大物の芸能人だったことを知った。

僕たちは、あの日確かに同じ部屋で同じご飯を食べた。しかし、その距離がウソだったかのように、幻のように、芸能界では遠く遠く、手が届きそうもないくらい、上の存在だった。


星涼に入ってすぐ実感した。この世界は厳しい。それでも、僕は楽しかった。


いつの日か、人魚姫の隣に立てますように。

 叶う見込みのない願望。

 だったはずが。


僕にはどうやら、アイドルの素質があったようで。僕には、人魚姫の隣に立てる可能性があるみたいです。


人魚姫は、無音ライブができる。曲が流れてないのに、流れてるような錯覚に陥る。


僕は、人魚姫に魅了されたひとり。

 ライブは格別で、人魚姫の一挙一動すべて見逃したくない衝撃にかられ、音に身を委ね、人魚姫にしか出来ないパフォーマンスにどっぷりと浸かり、抜け出せなくなってしまう。

目が離せなかった。


僕は、無理だと分かっていても、一縷の望みに縋るように、彼女になりたいと願って、星涼で努力した。


人魚姫はきっと、恐ろしく常軌を逸し努力をしたのであろう。だから誰も、彼女に叶わなかった。

僕は、2年の歳の差など関係なく、そんな彼女にかなう人になりたいと願って。隣に立てることを祈った。


 でも僕には、まだ、手が届かなかったから。


笹雨夜假たった1人で星涼に勝てる。

僕は、特に笹雨夜假に勝てそうな人間を集めたグループに属している。

人魚姫に近づける。

その一心でした努力が功を奏したのか、僕は、転入から1年後、人魚姫に勝てそうな最有力候補に名をあげることになった。


 そして僕は、やっと、人魚姫の隣に立つ資格を獲た。


 僕は公開オーディション(審査付き)という、異例のステージでデビューをすることになる。

そこで、笹雨夜假に勝つという方針らしい。


僕は、すぐにでも人魚姫に会いたいと思っていたし、転入して落ち着たらお礼も兼ねてデビュー前でも連絡を取るつもりでいた。

しかし、僕には許されなかった。僕が、1番、笹雨夜假に近かったから。


笹雨夜假は事前対策徹底型。

 そのオーディションで勝つには、僕の情報流出は避けねばならないから特に。


僕は1年後を楽しみにして、日々練習に励んだのだ。


公開オーディション。

 他にも何十もの人が出るものの、結局残るのは僕と笹雨夜假、この二人と断定して、練習が進められた。

  一発勝負。だから対策されない。

僕は、これで人魚姫に勝たなければならない。


 両校の出場メンバーが発表されたときは大変だった。

僕はデビューしてないので認知されていない。にも関わらず王の座についている苗代嵐華なわしろらんか

ちょっとした社会現象。メディアが広く取り上げた。様々な憶測が飛び交ったが、僕たちは高みの見物をしていた。



当日。

僕の正面には、線で仕切られた反対側、人魚姫が全く隙のない表情で座っていた。

透き通ってて、まるですぐいなくなって消えそうな。

 でも、表情は「私しかいない」って主張していた。

人魚姫はオーディションが開始されても僕を見て、というか、観察していた。


 拾われた日が、また遠ざかった気がする。


「星涼芸能学校 中等部3年2組18番、苗代、嵐華、です」


気づいたときには僕の番で。

 みんなと同じ内容で、一言一句違わない台本。

 それを朗読すればいいだけ。


 それが、すごく楽しくて。

 一つひとつ省かずに追っていった。

 楽しかった、と思ったときにはもう歓声があがっていた。


 点数板を見たら、

 苗代嵐華493点


500点満点でこの点数。僕が暫定1位だ。観客席の歓喜の声に紛れ、僕は小さくガッツポーズをした。

 僕は、次の人にマイクを渡すべく、握り直して、席へ戻ろうとする。


 入れ違いで立ってこちらへ歩いてきながら、人魚姫の目はどうしてか僕に馳せられていた。


 それは初めて見る表情で、本当に、空気圧だけで脆く崩れるような。うまく合う語彙が見つからないけど、とにかくその瞳が、僕を映していた。


 マイクよりもずっと重いものを受け取ったように、人魚姫は、何事もなく僕とすれ違った。


 思えば、きっと、その表情は『希望』『自信』とはかけ離れていたのだと思う。

 

 笹雨夜假というタレントは自信を失っても、マイクを受け取れるひとだった。


何事もなくすれ違ったすぐ後、幻のように聞こえた。

余韻の歓声にかき消されながら。

「あは、死にたい♡」

さっきよりも更に小さく、囁く程度の声量だけど……聞こえた。

一瞬、ほんの一瞬だけ、笹雨夜假の隙が見えた気がした、少しだけ。

誰にも聞こえてなくて。幻かと思ったけれどそれはきちんと現実で。


 だって。

 笹雨夜假が朗読を終えたとき、点数板には、僕の名前の方が上にあったから。

 たったの3点の差で、星涼の王座に座った僕は長年ずっと芸能界の王座を守り続けてきた笹雨夜假に


勝ってしまった。


 笹雨夜假という人は、自分の実力をいちばん理解していて、自分の限界もわかる人だった。

 だから、台本朗読のオーディションなのに、ト書きの部分だけしか読まなかった。

 彼女だからこそしかできない。審査員が何十も同じ内容を聞いてるからたぶんあえて演出指示文しか伝えずに、セリフは『想像させた』。

 自分の立ち位置をよく分かっていた。



 楽屋に戻って、ドアを背に息をつくと、途端に心臓が跳ね出した。


 勝負けの余韻ではない、それとは別の、胸の高鳴りだということは分かってた。

 さっきの人魚姫のあの反応は、僕がアメ太と気づいてないのか、そもそも「アメ太」という存在を忘れたのか

判別がつかなかった。

 それに僕は希望を見出しているのも、それもまた浅はかだと、うるさい心音の熱とは対極に、冷静な頭でふと思う。


 ただ、また会いたかっただけ。


 あの日、人魚姫はいとも簡単に僕を連れて星涼に入っていったけど、それはあまりにありえないことで。


 僕たちが思っている以上に星涼と茅峰の壁は恐ろしく越え難いものだった。

 

 星涼の僕が今から笹雨夜假に会いに行こうとしているともなれば、事務所は大騒ぎするだろうけど、


 それもどうでもいい。


 今は、事務所より、心に従いたかった。




「えーやだやだ珀亜のケチ!マックがいいマックが!!」


 その声に足が止まると同時に心臓が掴まれて鼓動をやめたくらい静かな錯覚に陥った。


 もう人魚姫の声しか聞きたくなくなった。


「バカじゃねぇの、ダメだろ」

「今日だから食べたいの!」

「病んでるときにジャンクフードは良くないって何度言えば……」

「やだよ、McDonaldが食べたい」

「無駄に発音いいのやめれる?」


 と、2人分の足音が角を曲がってきて、廊下の真ん中で立ちすくむ僕を見つけるのに時間はかからなかった。


「……あ。」


 何か言わなきゃと、ひりついた喉を意識した。けど、言葉は出なくて。


 人魚姫は僕をただじっと、紅茶色の瞳に映していた。


 演じてるのか素なのか、悲しいほどにわからなかった。


 ただ、その隣、珀亜さんは、しまった、という顔をしていた。

 あまりに長い時間沈黙が落ちたので、珀亜さんは、瞬きせずに僕を見ている人魚姫を引っ張って「おつかれさまでした」と無機質に言って通り過ぎようとした。


 きっと、珀亜さんは気づいていた。


ふっと人魚姫が珀亜さんに手を引かれ、僕の横を通り過ぎた。

 きっと、もう……と考えたら、「あの!」と大きな声を出して呼び止めてしまった。こんな近いのに。


「……あの、えっと、僕、苗代嵐華です」


 恐る恐る名乗る。アメ太とは言わなかった。


「苗代嵐華、覚えないわけ、ないじゃん。」


 彼女は一瞬、眉を上げ、次に軽く笑った。

 人魚姫が泣きそうなのを誤魔化すみたいに、拍亜さんは彼女の腕を引っ張っていた。


「今さら忘れろとか、無理」


 その一言に、僕の心は一気に跳ねた。

 この透明な世界で、僕の存在を覚えてもらえた――たったそれだけで、この瞬間までの努力と待機が報われたような気がした。


 僕と人魚姫の視線は交錯する。

互いに手を動かすごとに、わずかな呼吸や視線の揺らぎを読み合う。


 僕は彼女に希望を見て、夜假はその反対の淵にいた。

 ただし、それは僕の1年間の思いと努力の結晶だった。


 人魚姫はなにか泡のように小さく呟く。

 僕はその泡を拾った瞬間、心の中で小さく誓った。

 

 今日、それは僕と人魚姫の距離を、現実のものにするための戦いだった。


 僕は全力で、彼女に向かって進むと決めて。

 そして、ついに――


 笹雨夜假の瞳と、僕の瞳が重なった。

 その瞬間、1年前の夜雨の路地裏での記憶が、今、現実の舞台で重なり合った。


それでも彼女は気づかなかった。


苗代嵐華なわしろらんか笹雨夜假ささめよか――

僕たちはまだ出会ったばかりだ。

近いのに、遠すぎて。

それなのに、もう、過去じゃなかった。

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