第2話
「雅兎、キミはいけない事をしたよ」
それは、雅兎がまだ幼い頃の話だ。
浜脇千代(はまわきちよ)に叱られた時の、最初で最後の記憶。
千代があんなに険しい顔をしたのは、あの時だけだ。
それ以来、一度としてあんな表情を見ていない。
記憶の底にあるその光景は、いつだってセピア色ではなく、鮮烈な色彩を伴って蘇る。
◇ ◇ ◇
当時、雅兎は小学校に通っていた。
教室の窓からは、春の穏やかな陽光が差し込んでいる。給食の匂いと、チョークの粉っぽい匂いが混ざった、どこにでもある放課後の教室。
事の発端は、ほんの些細な好奇心だった。
「ねえ、柴石くん」
ランドセルを背負いながら、クラスメイトの男子が話しかけてきた。
彼に悪気はなかった。雅兎を傷つけようとか、誹ろうとか、そんな陰湿な考えは微塵もなかったはずだ。
「柴石くんってさ、なんでお父さんとお母さんがいないの?」
心臓が、ドクリと跳ねた。
雅兎の手が止まる。
同級生たちの視線が、なんとなくこちらに向いたのが分かった。
雅兎の保護者として、運動会や授業参観に来るのは決まって若い女性だ。女子高生の制服を着た、綺麗で、少し不思議な雰囲気の人。
雅兎は彼女を「お母さん」とも「お姉ちゃん」とも呼ばず、頑なに「千代さん」と呼んでいた。
子供心にも、それが「普通」ではないことは察せられてしまう。
「……いないわけじゃないよ」
「じゃあ、なんで来ないの? あの女子高生の人、誰なの?」
無邪気な質問は、時としてナイフよりも鋭く心を抉る。
悪意のない言葉は、投げられた当人にとっては、毒が塗られた矢のように感じられることさえあるのだ。
雅兎は唇を噛み締め、不本意ながらも説明しようとした。
自分と千代の関係。血は繋がっていないけれど、家族よりも大切な人なのだと。
けれど、子供の語彙力ではうまく伝わらない。
「ふーん」
男子生徒は、小首をかしげて、つまらなそうに言った。
「なんか、変なの」
プツン、と。
雅兎の中で、何かが切れる音がした。
自分を馬鹿にされるのは我慢できた。
親がいないと言われるのも、慣れていた。
けれど。
千代さんを「変」だと言われることだけは。
それだけは、絶対に許せなかった。
「――変じゃ、ないッ!!」
叫んだ時にはもう、身体ごとぶつかっていた。
ドンッ、と鈍い音がして、相手の男子が尻餅をつく。驚いた顔。周りの悲鳴。
当時の雅兎は、今よりもずっと子供で、感情の制御なんて出来なかった。
普段は温厚でおとなしい雅兎が、顔を真っ赤にして掴みかかっている。
「千代さんは変じゃない! 謝れ! 取り消せよ!!」
「な、なんだよ急に! 痛いってば!」
どつきあいの喧嘩は、すぐに駆けつけた担任によって止められた。
双方に大きな怪我はなかったものの、教室は騒然となり、雅兎はその日のうちに早退を命じられた。
◇ ◇ ◇
いつもより随分と早い時間の帰宅だった。
通学路の景色が、涙で滲んで歪んで見える。
怒られるだろうか。
失望されるだろうか。
もう、あのアパートには置いておけないと言われるだろうか。
重たい足取りで階段を上がり、玄関のドアノブに手をかける。
鍵を開け、恐る恐るドアを開いた。
「……ただいま」
蚊の鳴くような声で呟く。
すると、そこには。
高校の制服に身を包んだ千代が、立っていた。
その姿を見た瞬間、雅兎は息を呑んだ。
千代は、酷く乱れた格好をしていたのだ。
いつもなら涼しげに整えられている黒髪は乱れ、額には玉のような汗が浮かんでいる。
白いブラウスは背中に張り付き、呼吸をするたびに肩が大きく上下していた。
ハァ、ハァ、と荒い息遣いが聞こえる。
頬は蒸気したように赤い。
幼い雅兎にも、すぐに分かった。
彼女は、学校から走って帰ってきたのだ。
雅兎が早退させられたという連絡を受けて、授業も何もかも放り出して、全速力で駆けてきたのだ。
普段は雅兎よりずっと大人びていて、何があっても動じない千代。
そんな彼女が、なりふり構わず焦っている。
それは、雅兎の知らない千代の姿だった。
「雅兎、キミはいけない事をしたよ」
呼吸を整えながら、千代が静かに言った。
その声に怒気はなかったが、強い悲しみが滲んでいた。
張り詰めていた糸が切れ、雅兎の目からポロポロと涙が溢れ出した。
「だって……僕……ッ」
しゃくりあげながら、必死に言葉を紡ぐ。
「千代さんのこと……馬鹿にされたから……ッ! 変だって、言われたから……!」
握りしめた小さな拳が震えている。
自分のことなら我慢した。でも、大好きな千代のことを悪く言うのだけは許せなかった。
それを伝えたくて、雅兎は俯いたまま泣きじゃくった。
千代は、一瞬だけ驚いたように目を見開き、それからふわりと笑った。
「馬鹿ね」
「……千代さんも、僕を馬鹿にするの?」
雅兎が涙目で問いかけると、千代はその場に膝をつき、彼を真正面から抱きしめた。
ぎゅっ、と。
強い力で。
制服越しに伝わる体温。
少し汗の匂いと、いつもの優しい石鹸の香り。
トクン、トクンと早い鼓動が、雅兎の胸にも伝わってくる。
彼女は、雅兎の頭に手を添え、ぽんぽんと優しく叩いた。
「言われた言葉、やられた事に本物の悪意があったとしても、どれだけ腹を立てたとしても」
千代の声が、耳元で響く。
「悪意で対抗してはいけない。暴力なんて、もってのほかだ」
「……でも」
「でも、じゃない」
千代は体を離し、雅兎の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、涙がいっぱいに溜まっていた。
「わたしはね、雅兎」
彼女は震える声で、けれどはっきりと告げた。
「わたしは、キミが傍に居てくれるだけで、元気でいてくれるだけで幸せなんだ」
「え……?」
「例え世界中の人間がわたしを指さして笑ったとしても、キミが笑ってくれたら、それだけで嬉しいんだよ。誰になんと言われようと構わない。わたしにとって一番辛いのは、キミが傷つくことだ。キミが、誰かを傷つける人間になってしまうことなんだ」
千代の熱い手が、雅兎の頬を包み込む。
「だから、わたしの事を想ってくれるのなら――どうか、わたしを悲しませるような事をしないでおくれ」
その言葉は、幼い雅兎の胸に深く、深く刻み込まれた。
正義感だと思っていた暴力が、一番大切な人を泣かせてしまったという事実。
彼女の幸せは、誰かに勝つことでも、名誉を守ることでもなく、ただ雅兎が健やかであることだという真実。
僕はあの時、なんて言い返したんだっけ?
夢の中で、雅兎は自問自答する。
そうだ。
千代が涙をいっぱいに溜めて、「ありがとう」と口にした光景まで思い出したところで――。
◇ ◇ ◇
ゆっくりと、意識が浮上していく。
覚めつつある夢が記憶に蓋をして、現実の光がまぶたを叩く。
――ああ、思い出した。
あの時、雅兎はただ頷いて、泣きながらこう言ったのだ。
「ずっと一緒に居てよ」と。
今の自分が思い出せば、恥ずかしさで顔から火が出そうな台詞だ。枕に顔をうずめて、足をバタつかせたくなるほどの黒歴史かもしれない。
けれど。
その一件が、間違いなく今の雅兎の根幹を作っている。
天井を見上げながら、雅兎は小さく息を吐いた。
胸の奥には、夢の名残である温かい痛みが残っている。
悪意に悪意で返さないこと。
大切な人の笑顔を、何よりも優先すること。
(……なりたいんだよな、結局)
雅兎はベッドから身を起こし、カーテンを開けた。
差し込む朝陽が眩しい。
雅兎は、自分も誰かにとっての「千代」になりたいと、そう思ったのだ。
あの時、彼女が自分に注いでくれた無償の愛を、今度は自分が誰かに渡せるように。
それが、今の雅兎が生きる理由そのものだった。
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