お別れのあと 第2話
● 話すことなんて本当はない
「え、行かないんですか?」
「うん」
「行った方が良くないですか?」
「いや、来週半ばくらいにしてもらう」
「どうしてですか?」
「ちょっと……その……お腹とか痛くて……」
と言って、私は津田薬局本店の社長に電話をして時間を変えてもらい、了承を得た。
「あの、玄さん……」
「はい……」
「絶対お腹痛くないですよね?私ひとりでも大丈夫ですよ。どうしても難しかったら携帯の方に連絡しますし……」
「うん、いや、それは大丈夫だと思うんだけどね」
「……じゃあどうして」
「……朋子とこうやって話すことがさ、たぶん、今日が最後だから……」
「そんなことないと思いますよ、来週でも再来週でも話せます」
「違うって、わかるだろう」
「……それはまあそうかもね。でも何を今更、話すの?」
朋子とは2年程付き合っていて、1ヶ月前まで同棲していた。
だからって終わったことなのだから話すことなんてないと思われるかもしれない。未練があるわけでもないし、具体的な話なんて本当はなかった。
「とにかく、俺のせいだ。ごめんね……」
「それは何度も聞いてるし……」
「うん」
「それに、どう言ったらいいの?どう言って欲しいの?」
「……わからない」
私は自分の机に座ってうなだれた。何がしたいのかわからなかった。
沈黙。
けれども、気まずいような沈黙ではない。気まずい沈黙になる相手とならない相手がいる。不思議なもので、気まずく感じる人と感じない人とがいる。沈黙が苦痛に感じるだとか気まずいだとか、そんな風に思うような子とはそもそも付き合うことはない。しかし……幸せな沈黙ではない。付き合ってから半年くらいの時の、ただただ幸せに思えた沈黙とは違った。
「どこにいったんだろうね」
「……何が?」
「……幸せ」
そう言ってすぐに訂正した。
「あ……その、俺は未練があって復縁したいだとか……いや、未練がすごくあるけど……復縁。そういう話がしたいんじゃなくて」
「わかってるよ」
「あのさ、一つ聞いてもいい?」
「うん」
「俺と付き合っていて、幸せだった時はあった?」
改めてこういうことを聞くと、少し恥ずかしくなった。
「当たり前でしょ」
「いつくらい?」
「2年間」
それを聞いて心の底から嬉しかった。自分がちゃんとさえしていれば……と後悔したところで、無意味なことだ。
「良かった……けどさ、朋子にとってそれは本当に良かったのかな?」
「……どういう意味?」
「誰か他の人と付き合っていたとしたら良かったんじゃないかな?」
朋子はいきなりドン!!と机を叩いて立ち上がった。こんな風な朋子を初めて見た。
「……馬鹿じゃないの?そんなこと言わないでよ!さすがにわたしだって怒るよ?」
「……それ怒ってるじゃん」
「怒ってる!もっと怒る!」
「ごめんなさい」
「許さないよ!」
「……」
「……」
「……」
怒らせてしまったのだけど、どうして朋子が怒ったのかいまいちわからなかった。ADHDであることも理由の一つとして挙げられるだろうけど、修正し、学ぶことによってカバーすることができる。
「あのさ……なんでそんなに怒るの?」
「……それ本気で言ってるの?」
「言ってる」
朋子は椅子に座って背筋を伸ばし、腕を組んで俯いていた。考えているようだった。
「律暁は色々なことを知っているくせに、誰でもわかるようなことをわかってくれない」
「うん……そうかもしれない、ごめんね」
「謝らないで!」
「うう……はい」
「……怒ってない」
「……は?」
「怒って、ない!」
意味わっかんねぇ!
と心の中で叫んだ。
時刻はもうすぐ12時になろうとしていた。
「お昼になるね。何食べるん?」
「……いきなり何でそんな普通の会話になるの……」
と言って朋子は少し笑った。私も笑った。本当におかしくて、涙が出るくらい笑った。
「一つ聞いていい?」
「ダメ、さっき一つ答えた」
「ああ、じゃあもう一つだけ」
「じゃあ、今回だけは特別にいいよ」
「どうして怒ったのか、それだけでいいから教えてくれ」
朋子は少し考えていたようだった。
「……本当にわからないんだね……わかった、教える」
「うん」
「律暁が、もし誰か他の人と付き合っていたとしたらって言ったでしょ」
「ああ、それはだからさ、仮にもし、そうしていたとしたら朋子のために……」
話を遮られた。
「ありえない!そんな話はあっちゃいけないの!それでそれが……なにひとつとして私のためになることなんてない!」
「え?」
「怒って、ない!全然」
「……」
「……」
朋子はまた少しうつむいた。
「だから、2年間付き合っていたでしょ?その間に他の人のことなんか全く考えてなかったよ」
「……じゃあ、つまり……俺のことを考えていたということ?」
「……そう」
「……俺の……何を考えていたの?」
「律暁との生活」
「生活?一緒に住んでいたじゃん」
「えっと、馬鹿なのかな」
「……」
いくら鈍感な私でも、完全に理解出来た。どうしてそんな簡単なことがわからなかったのか。確かにそうだ。朋子が怒るのも当然だ。
「わかったよ、教えてくれてありがとう」
「うん」
「ごめんな」
「謝らないでって!」
「……」
でも、申し訳ない、ごめんなさい、という気持ちがとめどなく溢れてしまう。仕事の方法に正解はあっても、この話の先には何もない。正解も不正解も存在しない。終わった恋愛の、その先には何もない。
「俺も朋子との生活を考えていたよ」
「……うん」
「だから……」
「そうね、別れたのよね」
「そうだよ」
「……わたしも聞くけど」
「いいよ」
「わたしと結婚しようって……考えたことある?」
結婚、と言われてものすごく胸が苦しくなった。
結婚か……結婚したいとかしないとかの前に、自分にはその資格がないと思っていて、だからこそお別れしたのだ。
「俺とこのまま付き合っていても朋子は幸せにはなれない。なれないし、幸せにしてあげることもできないから、別れよう、幸せになってくれ」
と。たぶん間違ってはいないと思う。
私には深刻な薬物の問題があり、それを治さなければならなかった。治して、メンタル的に安定してからその先……その先に、結婚……結婚とかあるのか?
あるのだとしたらそれは何年先の話になるんだ?
わからないじゃないか。
「……本当に申し訳ない……言ったようにさ、薬の問題を解決して、それからだと漠然と考えていた。だから、結婚しようってのは……考えたことないんだ」
「……そう」
「……うん、結婚したいとは考えたことあるけど、やっぱさ、薬の」
「本当に?考えたことあるの?」
「いや、だから、ない……」
「そうじゃなくて結婚したいって……わたしと結婚したいって考えたことあるの?」
「あるってば」
「……」
朋子はため息をついた。
「結婚しようとは考えたことないけど、結婚したいとは考えたことがあるのね?」
「うん、本当に申し訳……」
「嬉しいよ」
「は?嬉しいの?」
「うん」
「……そうなの?」
「どんな時に考えたの?」
「何を?」
「だから、結婚したいっていつ、どんな時に考えたりしたの?」
いつ?いつかな?
「ええ……あー、例えば朝起きて会社に行く前にさ、朋子がPCの前で正座してYoutube観てる時とか……?」
「えっと、それは全然意味わからないです」
「正座してYoutube観る方が意味わからないって!フローリングじゃん?足、崩せばいいじゃんか!」
「なんで、いいでしょ、フローリングで正座してたって」
「それは自由だと思うんだけど、あの様子が可愛いと思って、それで結婚したいなって思ったり、他にも」
「うん、他にもあるの?」
「……そうだよ、他にもというか、そういったことはいくつもあるから、今いきなり思い出そうとしてもなかなか難しくて」
「いや、もういいよ、本当にそれは聞けて、嬉しいから」
「……それは良かった」
「……うん」
「じゃあ……」
「うん……なに?」
抱きしめでもしそうな雰囲気だ。でもそんなことはしない。お別れしたあとに、そんなことはしない。
「何食べようか?」
「……本当にヘンナヒトだ」
お昼になって、歩いて5分くらいの天ぷら屋に行った。この日がやはり、二人で最後に話をした日となった。そのことを思い出すと辛くなるけど、今となってはそこまで落ち込むようなことはなかった。
いきなり怒ったりして驚いたし、最初は何言ってるのかよくわからなかったけど、ちゃんと説明してくれたことが自分の中ではすごく大きい。わからずじまいだったら、今でもわからないままだったかもしれない。
今現在、2025年の今、当時よりももっとわかる。それなりにちゃんと成長しているようだ。当時から当たり前のことが当たり前にわかる人間であったのなら良かったと思うのだけど、今となっては手遅れだ。
朋子はこの土曜日出勤の時からおよそ7ヶ月後に結婚した。2012年ことだ。
今も幸せだろうか?……幸せであればいいのだけど。心からそう願ってやまない。
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