お別れのあと
玄 律暁(げんりつあき)
お別れのあと 第1話
● 土曜日出勤
会社は週休二日制で土日休みだったのだけれども、だいたい三ヶ月に一回くらいの土曜日出勤がある。当番制となっていて、だいたい二人一組で一日仕事をする。会社としての顧客が医療関係だったので、土曜日も営業している病院や調剤薬局は多かった。であるから必要だった。
「玄さん、お電話お願いします。1番に青山調剤の木村さんからお電話です」
といった風に事務員の澤田朋子が対応できないようなっことであった場合、彼女は私に電話の取次をお願いしてきていた。それは仕方がない。事務員として採用されており、前職はメガバンク。会社の事業として行っていることとは違うことが専門だからだ。
意地悪な上司だとか先輩っていうのはこういった時に「えっ、誰?なんて?何がわからない?」だとか無意味な質問攻めにしたりする。そういう上司に私自身も当たってしまったことがあって、なんだこの阿保なおっさんは死ねばいいのになぁ、とか思っていたし、そういった無駄なやり取りをするよりも素早く電話を代わってあげたほうがお客様の時間を奪ってしまうこともないので、いつも快く電話は代わっていた。
うんうん、まさに上司の鏡であるなぁ、私は。もっとも澤田は部下ではない。というかそもそも誰の上司でもない。ただ社員20人程いるうちの役職のある社長・専務・部長二人、以外に12、3人が会社を辞めていったため、後輩がたくさんできたのだった。年上の後輩ばかり。私が若い頃に採用されたためそのようになった。会社としての採用基準は大卒以上という資格が必要だったが、私だけは高卒だった。
「玄さん、2番、津田薬局本店からです」
「マジかぁ、わかった」
● 変わり者とジャガー四代目
世の中色々な人がいるものだし、ちょっと変わった人ってのは薬剤師に多い気もするが、津田薬局本店の薬局長はぶっ飛んだ変わり者で、その一端として例えば電話をかけてきても、自分の名前どころか薬局名すら名乗らない。
「はい、エムエスシステム、玄です」
「……おう、俺だ」
ってな具合にドスの効いた低い声で話す。
津田薬局本店薬局長。この薬局及び社長の担当は私になっていた。何か正式にそうなっていたわけではなく、社長の言っていることを理解できなかった場合に憤慨し「他のに代われ!」となるからだ。もちろん私が社長の言っていることを全てきちんと理解できていたかというと全くそんなことはない。言っていることに対して必ずしも回答が必要ということではなく、また、回答を求めている訳ではないこともある。一体何を求めてこう言っているのか、ということが重要で、そのことを意識して話を考えてみると結構わかることがある。
そういう類のことができたので、私は指定・指名されるようになったのだ。
ヤクザらしいだとか実際のところヤクザだった、そんな話を聞いたことはあるが、それはその語尾に「薬剤師(ヤクザイシ)だけにね」という言葉を付けるのがルールだった。本当の本当のところはわからない。仕事でお会いしたことは何度もあった。年は六十歳過ぎらしく、しかし体格の良い人だった。当時、私は二十五歳であったが、殴りあったら負けるかもしれない。真っ白な髪の毛だったのでもっと年をとっているようにも見えた。
愛車はジャガーで「ウチの四代目がな……」とかよく言っていてそれこそヤクザかなんかかよって気もする。乗ってみるかって言われたので、一度乗せてもらったことがある。これは貴重な体験になる。
「……よし……とりあえずまあよ……403号出るっけ……そっから折り返して、100km出すわぁ」
「はい、お願いします!」
何故100km出すのかよくわからなかったけど面白そうだったので嬉々として助手席に乗った。普段は社用車のトヨタアリオンに乗っていたが、自分も高速道路を使えば140kmよりもずっとスピードを出していた。
国道403号線はよく自分も使っている道だったので馴染みがある風景だった。そして折り返し前方、およそ300mくらい先まで車がなかった。これはあれかな、楽しめるかな。
社長は何か「うぅ」みたいな声を出してアクセルを踏んだ。
聞いたことのない音を発しながらジャガー四代目は一気にレッドゾーン回り、今までに車の好きな友人やら先輩やらに乗せてもらったことのある車、その全てと比較にならない加速をした。どのくらいのスピードが出ているのか全く分からない。見たことのない景色の移り変わるスピードであり、自分の知っている何かと比較するようなことができないのだ。
社長はそれから「……おしっ」と言ってアクセルを離したようだった。
アクセルを離したようだけれどもすんごい音が鳴ってる。バボバボバボバボ……って。
私は「おお!」とも「わぁ!」とも何も言わずに無言だった。
普通に引いていた。
「……どうだぁ……?」
私は周りをキョロキョロしていたのを覚えているが、何かを探していた訳ではない。完全な挙動不審者となっていたのだ。
「えっと、そのこれは、その……あ、100km出すっておっしゃってましたけど、出したんですか?」
「おう」
「何秒くらいで100km出せるんですか?」
「……今のはかなり良くて、5秒かからなかったわ。4秒台」
「なるほど……その、私は社用車でアリオンに乗っているんですが、そういう普通の車だと何秒で100km出るんですか?」
「……ああ……だいたい、8秒くらいじゃねえのかな」
「ああー全然違いますね……ではその、いわゆる……スーパーカーではどのくらいなのですか?」
「……昔のスーパーカーだと5秒台だったんだけどまあ最近のだと……速いので3秒台から4秒台だな」
「なるほど……あっ、え、さっき4秒台で100km出したんですよね?」
「おう、そのくれぇ」
「……ってことはほぼスーパーカーと変わらないんじゃないですか?」
「いや、そこまで速くねぇよ」
と言って、低く笑った。
「スーパーカー持ってねえからわかんねぇよ」
高級車ってのはまあ、本当に羨ましい。欲しい。乗りたい。けれどもどんなにお金持ちに
なったとしてもジャガーほどの高級車を購入することは絶対にありえないだろうと思った。
「あ、社長、ジャガーのこの四代目、おいくらしました?めちゃめちゃ高そうだと思いますけど」
「……だいたい……千五百万くらいだ」
予想を遥かに上回った金額だった。たっけぇ!
「……お、お、お、わあああー、なるほど!やっぱりそのくらいはしますよね!うわぁそりゃまた……はははっ……一生買えないですねぇ、私は……」
「……まあ、普通買わねえと思うけどな」
結構昔から車好きの友人のものに乗せてもらったりしたことがあったので、わぁぁ、はっやーい、くらいかと思っていたのだけどそんな生易しいものじゃなかった。
● お問い合わせ内容
要約すると、数カ月前の法改正によって医師が一般名(商品名ではなく成分名)による処方を行った場合、調剤薬局の方で任意の先発医薬品もしくは後発医薬品に変更することができるようになったが、その際に患者にどの医薬品に変更するか尋ねる必要がありますよ、しかし生活保護受給者である患者に関しては尋ねなくて良いよ、という、にわかには信じ難いルールとなった件についてであった。
2025年現在は違うけれども、一時期マジでこうなった。
そのことに社長は憤慨しており、つまりどういうことかというと、まずこの場合、お問い合わせではない。クレームのようなものなものであり、ものすごく怒ってはいるがそれは私や会社に対してではない。
そこを間違わないようにしないといけないが、残念ながらほとんどの社員は間違う。何しろ本当にヤバいくらいブチギレてるのでその勢いに圧倒されてしまうのだ。
すんごいクレーム受けてめっちゃ何か怒られて怖い、泣きそう、と間違った解釈をしてしまうと話はどんどんおかしな方向へ行ってしまう。
であるからこの場合の正しい対応としては、その怒りを聞くことなのだ。聞いてほしいっていうのが社長の求めていることだ。
もう少し踏み込んだ対応を行うとするならば、最寄りの国保連合会もしくは協会けんぽに対して、その件でクレームがものすごく多くて困っていると伝えるくらいしか会社としてはできない。
「生活保護者だって好きでなってるわけじゃねえんだから。ひでえじゃねえか、おうおうおう、今どきでもひでぇ差別だな!厚労省のお偉いさんはろくなことしねぇ、ほんとに」
といった話だ。
30分くらいこの話を聞いていて、同意できることに関しては「そうですよねぇ」とか言ったりしていたが、最終的に「とりあえず来てくれ」という話になった。一度断ったのだけれども怒りが収まらないようで、仕方なく向かうことにした。
時刻は午前10時30分。ほとんどの医療機関は午後休診となるが、それまでにまだもう少し時間があった。
「澤田、ちょっと津田薬局本店の方に行く……行かない。やっぱ、行かない……」
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