英雄も余計なこと考えるよ
最近、ヒーローがおかしい。
最初に怪物が出た時のことはまだ覚えている。
休日の冬の朝、ベッドで目が覚めて、もう一度寝ようか起きようかと少し考えていると、遠くにサイレンが聴こえた。結局そのサイレンが気になって眠れず、起きることにする。
ぼーっとした頭でコーヒーを淹れ、ソファに座りテレビをつけると、緊急速報という文字が画面の右上に浮かんでいた。そのテレビの映像は、ヘリコプターで上空から、トカゲを二足歩行にして太らせたような巨大な生き物がビル群を壊している様子を中継しているというものだったから、一体なんの映画かと思った。
しかし、どの局でもそのことを報道していて、どうやらこれは実際に起きていることらしいぞ、と気づく。
頭が冴えてくる。
そしてそのトカゲっぽい巨大な怪物が壊している都市が、ここから自転車で20分もかからない場所だと気づいた時には、もうコーヒーを飲む必要はないぐらいに目が醒めた。
心拍数が上がり、不安が身を包む。
避難すべきなのか、報道を見るべきなのか、色々な思考が高速で頭をよぎったが、その思考は一旦、テレビで『彼』が現れた時に止まった。
いや、それが『彼』だというのもその時はわかっていなかった。なにせ、怪物の周りを飛ぶ『彼』は、上空からの映像ではただの点のようなものにしか見えなかった。
「怪物の周りに何か飛んでいるのが見えます、鳥でしょうか」ヘリコプターにいるリポーターが言う。
「何も見えないぞ、目にゴミが入ったんじゃないか」後に分かるのだが、ヘリの操縦士が言った。
『彼』にカメラが向けられ、段々と映像が拡大される。
「いや」これも後で分かるのだが、カメラマンが喋った。驚きのあまりテレビで中継していることを忘れ、独り言が漏れたような声だった。
「人だ」
ただの点が、『彼』になった。
テレビには、青色のタイツのようなものと赤いマントを着て、宙を浮いている男が映っていた。
自分の目を疑った。疑いが消える前に、破裂音がした。彼が画面にいない。動いた。
彼を追うため、映像が急ぐように縮小する。
見えた光景に、また目を疑った。体の部品で疑われる回数が多いのは目と耳が同率一位で、次点は神経ぐらいだろうなという支離滅裂なことも、混乱しているので思いつく。
怪物が、倒れていた。恐ろしいほどの生命力の塊だったあの生き物が、一瞬で、ビル群の間の道を独占するようにして仰向けに倒れている。
「あ、えーっと、ですね」リポーターも状況をあまり飲み込めていない様子で、何を言えばいいのか決めかねていた。「人型の、いや、人なのかな、とりあえず彼が、倒しました、怪物」
これが初めてだった。
そこからは何度も怪物が現れた。大きいのから小さいの、形も種類も色々。二日連続で出てきたこともあれば、半年何もなかったり。
ただ、その度に彼が現れ、怪物を倒した。苦戦することもあったが、最終的にはいつも勝った。
彼は徐々に人々から信頼されていって、『彼』は『ヒーロー』になった。
僕を含め、ここに住む多くの市民がこの街から出て行っていない訳は、ヒーローがいるからだ。
ヒーローが守ってくれる、という固い気持ちを、この街の市民はみんな持っている。
実際、街の人口はほとんど減っていないらしい。
ただ最近、ヒーローがおかしい。
前までなら、怪物が出てくればすぐに駆けつけた。軍が対応するまでもなかった。
最近は、かなり遅れてくる。全く来ないこともあった。
来たとしても、前の自信満々な、いかにも正義の象徴と言ったような振る舞いがなく、心なしか無理をしているように見えた。いや、流石にこれは僕の思い込みか。
怪物は軍が対処して、本当に奇跡的に大きな被害は出ていないが、いつ壊滅的な状況になってもおかしくない。これは大多数の市民が思っていることだろう。
僕もこの街にあるアパートの4階に住んでいるが、近々引っ越すことを考えている。この街は気に入っているが、命には変えられない。
部屋のインターフォンが鳴った。ドアを開ける、彼だ。
「おはよう、すまないね。また来てしまって」
「いや、構わないよ。どうぞ」
彼を家にいれる。彼とは大学で知り合い、仲が良く、社会人になったあとでも交流があったのだが、最近特に会う回数が増えている。
なんとも彼が悩みを相談したいということで、毎週、休日の朝10時に僕の家に来るのだ。
最初は一回きりのものだと思っていたのが「また来ていいか」と言われ、どんどん周期が短くなり週一になっていた。
廊下を先に歩く彼の背中が見える。
彼のおとなしく、「はい、趣味は謙遜することです」、とでも言いそうな控えめな性格のせい忘れそうになるのだが、彼はかなり体格が良い。スポーツはしていなかったはずなので、ジムにでも通っているのだろうか。
彼がリビングのソファに姿勢よく座った。
彼の顔を改めて見ると、自分が記憶している彼の顔よりかなりやつれていることに驚く。筋肉質な男のやつれ姿というのは少し可笑しいが、相当参っているのは確かだ。
僕は手を頭の後ろで組むようにして、ソファの背にもたれた。
「で、今日は何を話したいんだい。また職場の話?」
「ああ、うん。そう、職場の話」
「悪い上司がいる?」
「そうなんだよ」
最早お馴染みの話題だ。
「悪い、すごく悪い上司がいて、社内の環境を乱すというか、めちゃくちゃにするんだ。で、僕はその上司を」
「成敗していた」
「そう」
もう何度も話した。
「物理的に?」
「いや、まあ、うん」
「物騒だねえ」
「いや、これが、本当に悪い上司なんだよ」彼は誤解されることを焦った。
「それなら仕方がないな」僕はわざとらしく肩をすくめた。
彼が譬(たと)えを使って悩みを話しているのはなんとなく勘づいている。悪い上司、社内環境、成敗と、おそらく全部何かに置き換えて話している。そんな事をする彼なりの事情があるはずなので、そこはいちいち追及しない。
「で、悪い上司を成敗しても、異動でまた悪い上司がやってくるんだ」
「すごい会社だな」彼の言葉の不自然さが可笑しく、僕は少し笑ってしまう。
「うん。でも、悪い上司を成敗して、また他の悪い上司が異動してくるまでの間は、社内は確かに平和なんだよ」
「じゃあ、その悪い上司の成敗を続ければいいんじゃないか?」
「僕もそう思ってたんだ。上司をやっつけることで社内のみんなから褒められるし、僕も自分が正しいことをしてると信じてた。その頃は充実してたよ。目的があったし、それを達成できる力が僕にはあった。
でも最近は、その悪い上司も彼の事情が合ってこの世に生まれてきて行動しているはずで、僕が邪魔するのは合っているのかなと、思い始めたんだ」
彼の言っていることを咀嚼し、譬えのフィルターを通して答える。
「会社の社員が健康的な社内環境を保つために行動するのは、義務を果たしていると言えるんじゃないか」
彼は、違うのだ、と言いたげに眉間に皺を寄せた。
「なんで言えばいいかな」彼は前屈みになり、左手の肘を太ももに乗せ、そのまま頬杖をつくようにする。どう譬えようか考えているのだろう。
「その、僕は、派遣社員なんだよ。その会社の正社員ではないんだ。
だから部外者の僕がその会社のルールを勝手に邪魔していいのかなって」
僕の記憶では、彼は新聞会社の正社員だったが、そこは指摘しない。
「じゃあ、君がその会社の正社員になればいいんじゃないか」
「それはかなり難しいというか、無理なんだ」
「じゃあ、社員さんが悪い上司に乱暴されるのを見過ごす?」
彼の顔が暗くなるのが分かった。
「それが正しい事とは思えないんだけど、悪い上司をやっつけるのも正しいと思えなくなってきてる」
「なるほどね」
僕たちはお互い何を言えばいいのか分からなくなり、沈黙した。
毎週こんな感じだ。ある所まで話して、行き止まりに辿り着く。
変わった点と言えば、毎週話しているからどっちも喋ることに慣れて、行き止まりに着くスピードがどんどん早くなっている事ぐらいだ。
僕は彼の悩みに「ずばりこうだ」というふうに答えられるとは思っていないし、実際そんな答えなんかないのだろう。人の悩みは幾何学ではない。それでも僕は彼の悩みを聞く。それが僕にできることだからだ。
「ちょっと休憩しよう。コーヒーを淹れようか」
「ああ、頼むよ」
コーヒーを二杯分淹れてカップに注ぎ、ソファの前にある机に置いた。
「ありがとう」
「ああ」
彼はカップの取っ手を掴み、コーヒーを一口飲むと、目を丸くする。
「君の作るコーヒーは本当に美味しいな。会計士なんかやめて店を開くべきだよ」
「そりゃどうも」
彼が笑った。悩みは解決できなくても、こんな風に話して、コーヒーを飲んで、彼の気分が少しでも落ち着けばいいな、と思っているのだが。
僕がテレビをつけると、特殊能力を持ったヒーローが怪物を倒すという、子供向けのカートゥーンが放送されていた。彼の表情が曇る。気持ちは分かる。テレビの中の世界だと、ヒーローは必ず来るが、こちらはそうではない。
僕は咄嗟にチャンネルを変えた。トーク番組だ。よりによって、最近のヒーローはどうしてしまったのか、と話し合っている。いや、連日この話題で持ちきりなのだから必然か。
僕はテレビを消そうとした。彼が自分の悩みに加えて、ヒーローが来ないためにこの街がめちゃくちゃになってしまう可能性など考えたい筈がない。彼の不安を増長させることは避けたかった。
「いや、このままでいいよ。君が見たくなければ消してもいいけど」彼が僕を止めた。
「そう?じゃあこのままにしておくよ」
「うん、ありがとう」
「ああ、そうだ。トランプでもするか」
「そうしよう」
僕は引き出しからトランプの入ったを取り出し、カードを出した。
その時だ。
テレビの画面が変わった。反射的に右上を見る、緊急速報だ。
なぜいつも右上なのだ、と一瞬思ったが、今はそれを考える時間では絶対にない。
屋上にいるリポーターが中継していて、その先に、遠くではあるが確かに怪物が見えた。
怪物がいる場所の情報などを色々伝えている。
すぐにサイレンが聴こえてきた。
「まずいな、かなり近くじゃないか。早く逃げよう」僕は財布をポケットに入れ、玄関に向かった。すると、彼がついてきていないことに気付く。
後ろを向くと、彼が危機感のない顔で、ソファに座ったままでいた。
「なにしてるんだ、早く行こう」僕の中で焦りが募る。
「ああ、うん」彼はゆっくりと立ち上がり、僕の方を見た。怪物が近くにいるというのに、妙に落ち着いている。「僕たちが初めて会った時のこと、覚えてる?」彼が微笑んだ。
「え、なんで」
「大学の講義で知り合って、そのまま食堂で一緒に昼食を食べる約束をした。
でも僕は昼食を一口食べるなり、『急用を思い出した』と言って立ち去った。
君は僕のことを変な奴だと思ったに違いない」
「今思ってるよ」
「そうだな」彼が笑った。
どういう意図で彼はこんなことを言っているのだろうか。頭が混乱する。いや、とにかく今は、早く逃げるべきだ。
「君に死んでほしくない」
「え」あまりに予想していなかった言葉を言われて、面食らってしまう。
「どうしたんだよ」
「あ、さっきの話なんだけど。ただその会社に守りたい社員がいるから、悪い上司をやっつけるっていう、かなり自分勝手な理由でもいいのかな」
「その社員というのは僕か?」
「えっ」彼が目に見えて驚いた。図星だろう。
「おいおい、流石に分かるぞ。今のは指摘しない方が不自然だ」
「ああ、そうかな」
「一体どういう状況なんだ?」
「いや、それは、その」
「まあ言いたくないなら言わなくていいけどさ」
彼が気まずそうに頷いた。
「とりあえず避難しよう、本当に時間がない」
「うん。そうだね」
彼と外に出る。遠くからではあるが人々の叫び声が聞こえてきて、緊迫感を煽られた。
普段ならエレベーターを使うのだが、恐ろしく遅いため階段を使って一階まで降りることにする。
忙しく階段を下っていると、後ろから彼が話しかけてきた。
「そういえば、君は近々この街から引っ越すと言ってただろ」
「ああ」こんな状況で呑気に喋る彼に少し苛立ち、声が荒くなる。
「君はこの街が好きなのに」
「しょうがないだろ。怪物に踏みつけられない方が好きなんだよ」
「それはそうだろう。でも」
彼の足音が止まった。思わず僕も止まり、後ろを振り返る。
「もう大丈夫」
どういう意味だ、と彼の表情が明るくなったことも含めて問いたかったが、避難に集中した。視線を前に戻し階段を下る、一階に着き地上に出た。
警官が市民の誘導をしている。みんな、必死の形相だ。
人々が逃げている方向の逆側に目をやると、高層ビルの間に異様なものが見えた。怪物だ。
心拍数が更に上がる。自分の本能が「逃げろ」と言っている。警官の誘導に従い避難しようとした、その時に気付く。
彼がいない。
頭が心配と苛立ちで満たされ、思考が次々と高速で浮かんでくる。
何をしてるんだ。もう逃げたのかもしれない。逃げてなかったら?探すべきだろうか。見つけたところで僕がどうにかできる話か?
彼を頭の中で罵ってやりたくなったが、それを振り払う。
とりあえず避難だ。
破裂音がした。
僕が右足を踏み出して、それが地面に着くのと同じタイミングで聞こえたので、自分の足と地面を見たが、すぐにそこから音がきたのではないと分かった。
怪物の方に目を向けた。
街全体が安堵したのを感じる。市民、警官、犬や猫や建物までも。
僕たちは、怪物の周りに浮かぶ、点のようなものにしか見えないあれが、鳥でも飛行機でも目に入ったゴミでもなく、希望の塊であることを知っている。
ヒーローが来た。
あれ、待てよ。
いや、まさか。
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