最低な彼氏と別れる方法/最愛の彼女と復縁する方法

緑ノ暇

最低な彼氏と別れる方法/最愛の彼女と復縁する方法

「ねえ。彼女の家に入り浸っておいてお金も払わず家事されるままってどう思う?」

「は?あり得ないでしょ」

「だよね!家来る癖に何もしないとか最低、別れる」


そんな軽い雰囲気で別れようと言う価値観に、少し驚く。自分から別れるという選択肢もあるのか、と。

私こと倉林一花は、黙って聞いてしまう。

1年半ほど付き合っている彼氏は、まさに愚痴の内容そのものに当てはまっていたから。

今まではそれが普通だと思っていたから、全く気が付かなかったけれど。



*


「いちかー、これ冷蔵庫に入れてくれる?」

『うん』

「今日晩ごはんて作った?」

「うん。味噌汁と野菜炒めくらいしかないけど」

「ん、ありがと」



彼氏である佐倉史也は、家に来るときは決まってコンビニやスーパーで割引されている、賞味期限の近いスイーツを買ってきていた。

袋を受け取り、冷蔵庫に入れる。どうせまた史也は自分では食べないのに。


ご飯を私が作り、家事を私がやり、後片付けを私がやるとしても、この関係に不満を持ったことはない。

そういえば付き合いたての時には色々家事をしてくれようとした時もあったかな?いつからしなくなったのかは、今はもう覚えていないけど。


『あ、今日生理来たから』

「え?あ、あー…うん」


毎回家に来るたびに行為をするわけではないけれど、毎月これを言うたびに史也は少し微妙な顔をする。

行為できないのが残念なのだろう。生理中は家にも来なくなるけれど私としてはそのほうがありがたい。

TVを見ているときに視界に前髪が入ってくることに気づいた。ああ、また前髪切らないと。後ろの髪も短くしたいな。


『髪、伸びてきたから短くしようと思うんだけど。良いかな』

「良いんじゃない?確かにちょっと伸びてきたよね」


さら、と私の髪を撫でる。ここのところ繁忙期で美容室に行っていなかったことを思い出す。

史也も良いって言っているから今週末に予約して行こうかな。


「いちか」


夕食を食べ終わった史也が後ろから緩く抱きついてくる。


『生理中だから出来ないよ』

「分かってる」

『肩とか揉んでほしい?』

「別にいらない」


私が食べていても変わらず抱きついてくる。

史也は特別優しいわけではないけど、それでもこの交際に不満はない。良い彼氏だと思う。

食べ終わった二人分の食器を下げて洗い物を終わらせる。


"家来る癖に何もしないとか最低、別れる"


今日のお昼に聞いた言葉が、頭を通り過ぎた。


『昨日買ってたプリン、今日が賞味期限だから食べちゃうからね』

「うん」


史也はあまり甘いものを食べないのに何故かいつも買ってくる。

ただ下っ端の事務員の給料はあまり高くはなく、一人暮らしも節約してやっとなわけで。そんな中では賞味期限が当日のスイーツもありがたい。

それに昨日買っていたのは私の好きな焼きプリン。

綺麗な状態のプリンにスプーンが滑らかに入り、形が崩れる瞬間がちょっと好き。



*


「実は半期のMVP投票、いっちゃんに投票したんだよね」

『えっ…?』


いつものランチでそんなことを言われ、思わず手が止まる。


「実は私も。明日のMVP表彰、楽しみだよね。絶対いっちゃんが受賞してるよ」

「営業さんも皆、いっちゃんに投票したって言っていたよ」


仕事ぶりを褒められたのは初めてで、どう反応したら良いのか分からない。

ただ、自分のここ半年の努力を認めてもらえたようで、報われた気がした。

やったことといえばWEB商談の際にAIで自動文字起こしをするなど、とにかく手作業を減らすためにAIを導入。

結果的にこの半期での成果はざっと年間500万円ほどの経費削減効果が出た。

これには流石にいつも嫌味を言う部長も褒めていたっけ。


『そう、ですかね…』

「わ、照れてる。珍しい」


揶揄われながらも、好意によるものだったから嬉しく思う。

いつも皆に助けてもらってばかりなのに、投票してもらっていたなんて。

もし受賞できたら、その分何かで皆に返そう。







けれどそうは言っても、現実は厳しいもので。


「上半期の部署MVPは、営業三課の三村だ!」

「お、俺?あれ、倉林さんは?」

「こっちに来てコメントを」


会議室がざわつく。

部長曰く、彼は目標を達成した上で半期で200万円ほど余分に営業成績を上げたそう。それが受賞の要因だったようだ。


受賞コメントを聞くと売上を上げられたことの一つに、私の導入したAIが活躍したらしい。

そんなコメントをもらっただけでも、ありがたいと思わないと。

会議室を出ようとした際、部長に小声ながらも食ってかかる同じ営業事務の明美さんの声が聞こえた。

どうして受賞者が私じゃないのかと、投票数は一番多いのではないのかと。


返ってきた部長の言葉は端的だった。


「どれだけ投票数が多かろうが、たかが事務がMVPを受賞できるわけないだろう」


ただその一言だった。









生理が明けて、また史也が家に来た。


「いちか、久しぶり。これ買ってきたからさ、また冷蔵庫に…」

『もう割引のスイーツは買ってきて欲しくないの』

「あ、れ?そっか、じゃあ別なやつ…」

『別れよう』


"家来る癖に何もしないとか最低、別れる"

いつか聞いた言葉がまた頭をよぎる。


私のために怒ってくれた明美さんたちのために、私は私を大事にしようと思った。

だからもう、これまでの環境は全て捨てる。そのためにまず私は、彼氏を捨てた。






*-*


違和感を覚えたのは、付き合って三度目のデートの時だった。

映画館を出て予約している飲食店へと歩いている道中、いちかがふらついて倒れそうになり慌てて引き寄せたことがある。


「すみません…ちょっと寝不足が続いていたせいかもしれないです」

『え、具合悪かった?ごめん、今日は解散しようか』

「でも予約してるんですよね。行きますよ」

『体調不良ならこのまま帰ろう』

「そうですけど、なぜ?」


キョトンとした顔で、そんな疑問をぶつけられた。

自分の体調が悪いから解散する、という意味がわかっていないようだった。


付き合って3ヶ月後、すっかりいちかの敬語も無くなり俺の家に遊びに来るようになったけど、来るたびにいちかは何かと掃除や洗濯等の家事をやるようになって。

残業明けで顔色が悪い中でもそれは変わらなかった。疲れているんだから家事しなくていい、と言えばまたあのキョトンとした顔で


「なぜ?」


と言う。翌日、いちかは風邪を引いたので今日は行けそうにない、と連絡を入れてきた。

無理をさせて申し訳ない気持ちがあり、お見舞いの品を持っていちかの家に行ったけれど俺が来た途端熱が出ているのもお構いなしに料理を作ろうとする。

そんなことせず寝ててほしい、そう言ってもいちかはずっと「なぜ?」と本当に不思議そうに聞いてきた。

それからいちかを自宅に呼ぶことや、具合が悪い時にいちかに会いに行くのはやめた。行けばいちかは絶対に無理をする。

いちかは何故かは分からないが、自分が嫌なことでも何でも受け入れてしまう。

唯一いちかが何の対価も差し出すことなく抱きしめられてくれるのは、生理の初日だけ。


あまり笑わない彼女がいつも決まって少しだけ笑うのは、家の中で甘いものを食べている時だった。

けれど、俺が買ってきたものだと笑わないことに気がついた。

ある時買ってきたものを食べるのを忘れて賞味期限が過ぎてしまい、いちかが俺に「賞味期限切れちゃったやつ、食べていい?」と聞いてきたことがある。代わりのやつ買ってくるよ、と言っても勿体無いと言うので、良いよと言った。

でもそれを食べた時、少しだけ笑ったんだ。それからは、わざと賞味期限が近いスイーツを買ってくるようになった。

ほんのり嬉しそうに笑う、その顔がすごく好きだった。


こんな日々がずっと続くんだと信じていた。

だから本当にあの日の発言は青天の霹靂としか言いようがない。


「別れよう」


いちかからの衝撃的な一言。

なんで?俺が何かした?何かしたなら謝るから、そう言ってもいちかは首を振るだけ。

やっぱり普通の彼女のように毎週出かけたり、何かプレゼントしたり、そういうことをして欲しかったんだろうか?


「じゃあそういうことだから…、ごめん。もう会いたくない」

『い、嫌だ。いちか、俺は』


いちかが好きなんだ。そう言い切る前に玄関の扉は閉じられた。

10分ほど扉の前に立っていただろうか。もう開く気配のない目の前のドアを認識し、一旦自宅へと帰った。

どう反省したら良いのかも分からない。いちかは俺に不満はないと言っていたから。


次の日から、連絡が取れなくなった。

本当は毎日いちかの家に行ってインターホンを鳴らしたかったけれど、なんとか自分を思いとどめた。


連絡がつかなくなってから3週間が過ぎ、どうしても我慢できなくなっていちかの家に行った。インターホンを鳴らして出てこなかったらそれで諦めよう、とも思いながら。

けれどアパートのエントランスのポストを見て愕然とする。

いちかの部屋のポストにはテープが貼られていた。それはつまり、既に家主は引っ越した後だということ。もういちかはこの家に住んでいない。

そんなに俺と話したくないんだろうか?これまで喧嘩もせず、うまくやってきたんじゃないのか?



いちかの会社とは取引先関係だ。出会った経緯も取引先として知り合いになったため、同期に頭を下げ新商品紹介と年末前の挨拶まわりに行く役を代わってもらった。

相手方の営業部部長のアポイントは簡単に取れた。


*


いちかの上司である部長との商談は難なく進み、来客用会議室の前で部長とは別れた。

フロアにいるはずのいちかの姿を探すが、どうにも見当たらない。前から事務服の女性が歩いてきたため、思わず話しかける。


『ああ、すみません。前に営業事務の倉林さんにお世話になりまして、ついでにご挨拶をしたいのですが』

「いっちゃん…、倉林さんですか?彼女は先月末で退職しました」

『え』

「まあ、あんなことがあったのなら良かったのかもしれませんが…」


彼女からいちかがパワハラを受けていたこと、仕事で莫大な成果を上げたものの一切評価されなかったこと、たかが事務の仕事と切り捨てられたこと、色々聞いた。

たかが事務の仕事、と言われた時、いちかはその場で"退職します"と宣言したらしい。

あのいちかが啖呵を切るとは思えない。本気で言った言葉だろう。

それに対して部長は怒り、今月末には辞めろと言ったようだ。

急に言われたものの、いちかは必死に今の職員が困らないように引き継ぎをし、辞めていったらしい。

最後まで義理を通す姿勢は間違いなくいちかそのもので。事情を話してくれた彼女にお礼を言って、会社を後にした。


会社にも居ないのなら、もう最終手段しかない。

年末にいちかの実家に行ってみよう。いちかはあまり家族の話をしなかったけれど、県の名前と小学校の名前は覚えている。

小学校の校門の前になぜかどぎついピンク色の"交通安全"と書かれている看板があり、面白かったと言っていた。自分の実家はその小学校の裏だった、と。

年末には帰らないと言っていたけど、もしかしたら居るかもしれない。ストーカーでごめん、でもせめて最後に別れるきっかけくらいは知りたいんだ。

いちかに会いたい。その思いで年末の新幹線を予約する。





*


『本当にあった…』


ピンク色の看板がある小学校の裏手、その一軒家には[倉林]という表札がポストの上に貼られている。

どうかここに居てくれ、と思いながらインターホンを押す。


[はい、何か?]


ドアホンから聞こえてきた声は、いちかの母親だろうか。


『あの、急な訪問で大変申し訳ございません。僕は…いちかの彼氏で佐倉史也という者なんですが。いちかさんはご在宅ですか』


他に言い訳も思いつかず、彼氏と名乗ってしまった。彼氏なら急に来るのもおかしいし連絡がつかなくなるのもおかしいので、不審者だと追い出されたらその時まで、と覚悟した。


[え、"いっか"の?あら、お待ちください]


実家では"いっか"と呼ばれていたんだろうか。

玄関の扉が開けられ、そこには小柄な50代ほどの女性が顔を見せた。


「あら、いっかの彼氏さん!でもごめんなさいねえ、いっかったら社会人になってからうちに帰ってこないのよ」

『あ…そうなんですか』

「でもほらせっかくだからお茶でもどうかしら、さあどうぞ」

『すみません、お邪魔します。あ、こちら手土産です』

「まあまあご丁寧にどうもね!全くあの子ときたら、実家にも帰らないで…」


かなりおしゃべりな母親のようだ。けれど、連絡先くらいは教えてくれるかもしれない。そう思い家の中へと足を踏み入れる。

暖かいリビングに通されると、そこには若い男性がいた。


「この子はいっかの弟の信幸。この方はいっかの彼氏さんらしいわよ」

『初めまして』

「どーも。つってもいっかのやつ、帰ってこないけどな」

「ほんっと、親孝行くらいしてほしいわね」


いちかは社会人になってから一切帰ってきていないらしい。

けどいちかからは実家の話や小さい頃の話は聞いたことがないため、それだけでも少し知りたい。好きな人の幼少期はどんな感じだったんだろう。

食器棚には子供の写真が飾られており、実家っぽいなあ、俺の実家にもこういうのあるな、なんて思う。


「てか彼氏さん、いっかの名前の由来とか知ってる?」

『名前の由来は教えてもらったことがないですね』

「生まれるまで医者からは男だって言われてたらしくて。生まれて女だって知った時に両親が名前考える時に、<まあ女だしどうでも"いっか">、って言ったのが由来!」

「そうなのよー、お医者さんからはずっと男の子って言われてたから男の子の名前しか考えてなくてね」

「めちゃめちゃ面白いよね。俺いつもこれ聞いて笑ってるもん」

「まさか女の子とは思わないわよねえ」


あははは、と笑いだす二人を見て、思考が止まる。

ここは一体誰の実家だったか。


「あそうだ!アルバム見る?いっかの小さい頃の写真あるわよ、ほら」

「懐かし。これ俺の誕生日の写真だ」


めくられていくアルバムには、満面の笑みでケーキの前にいる小さい男の子。写真の上にペンで"信幸の3歳の誕生日"と書いてある。

更にめくられた先には"いっかの4歳の誕生日"と書かれた写真があったが、どう見ても泣いているいちかの写真だった。


『あの、このいちかは何で泣いているんでしょうか』

「あら?なんでだったかしら…覚えてないわね。なんとなくじゃない?」

『でも誕生日に泣くって……、あれ。この写真に写っているのって生クリームのホールケーキですか?』


少し色褪せているが、泣いているいちかの横にはイチゴの乗っている白いホールケーキが置いてある。

けどおかしい。いちかは生クリームが嫌いで食べられないはずだ。

食べると具合が悪くなる、とまで言っていた。


『いちかって生クリーム食べられないですよね。これとは別にもう一つケーキを用意していたんですか?』

「まさか!…ああ、思い出した。そういえばケーキが嫌いって泣いてたかもしれない」

『え……じゃあなぜ生クリームのケーキを買ってきたんですか、いちかが嫌いなのに』

「でも、信幸は喜んでいたし」


どうしてそんな質問をするのか分からない、という表情だった。

次にめくられたページの翌年のいちかも、翌々年のいちかも、イチゴのホールケーキの横で泣いていた。7歳以降は写真すらなかった。

その瞬間、身の毛がよだつ。いちかが実家に帰らない理由が、過去を話したがらない理由がようやく分かった。ここはいちかが居ていい場所じゃない。

実家は、年に一度か二度帰るたびに食べきれない量の料理を母親が作り、食べ終わってもすぐにお腹空いていない?って聞いてきたり、

社会人になって働いているのに父親がお年玉はいるか?って言ってきたり、小さい頃の失敗を思い出して一緒に笑ったり、

そういう場所が実家なんじゃないのか。


『いちかさんとは連絡は取ってますか』

「あの子ったら全然連絡取れないようにしてるの。可愛くない子よねえ」

『そうですか。…長居してしまってすみません。そろそろお暇します』

「あら、ご飯くらい食べていったらいいのに」


引き留めようとするいちかの母を丁重に断り、玄関を出た。

気分が悪い。今までの人生で、これほど悪意に満ちた…いや。本人たちに悪意という自覚はきっとない。悪意のない悪行が、こんなにも悍ましく気分が悪いものであるのを、生まれて初めて知る。


もう、ダメだ。いちか、俺は今まで君を無意識に傷つけていたのかもしれない。だから別れようと言ったんだろう。

ごめん、今はもう直接謝ることすらできないけど。


その時、初めてのいちかの誕生日に欲しい物を聞いた時のことを思い出した。


「誕生日にほしいものはないから、いらない」

『でもプレゼントくらいさせてほしいんだけど…』

「……いちかって呼んで」

『え?今までと全然変わらないけどいいの?』

「うん、いちかって呼び続けて。いちかがいい」


そう言って、嬉しそうに笑った。

"いちか"と呼ばれるたびに実家で受けてきた"どうでもいっか"という、どうでもいい存在ではない事を実感できていたのかもしれない。

どうしていちかが何でも受け入れてしまうのか分かった。いちかは大切にされたことがないんだ。

だから大切にされる方法が分からないんだ。自分を大切にする方法も…。

自分の居場所を持つためにどんな時にでも相手に応えようとしてしまう。応えないと必要とはされないだろうから。

そんな見返りはいらなかったのに。俺にとっては隣に居てくれるだけで良かったのに。

付き合っているから好きだっていうのは伝わっていると思っていた。どうして付き合っている時にそうやって言葉で伝えなかったんだろう。どれだけ大切にできていなかったんだろう。


「……あの!」


家を出てすぐ。声をかけられたのは、その時だった。





















*-*





「あ、こっちこっち!」

『うわー、久しぶり!ごめんね遅れちゃって…』

「大丈夫!ちょっと駅で迷ったけど」

『広いからね。私も2年東京いてやっと覚えたよ』


営業事務だった頃ももう2年も前になる。

衝動的に発した退職宣言はもちろん部長を激怒させてしまったけど、あの時の業務成果を職務経歴書に記載し転職サイトに登録したところ、東京の会社からオファーが来た。それも、できれば翌月からすぐ働いてほしいと。

その縁があって今こうして、営業職として前線に立っている。


「いちか、物凄く顔色良くなったね」

『え、そうかな』

「やばい。表情明るすぎて。えぐい可愛くなってる」

『言い過ぎじゃない?』

「ほら!そんなふうに今まで笑ってなかったし」

『そうかなー』


唯一と言っていいほどの仲の良い幼馴染である千波は、つい半年前に知り合い経由で偶然連絡を取った。

それからは思い出話に花が咲き、今学生時代以来初めて会って話をすることに。

千波は今も地元におり結婚したらしい。旦那さんと幸せそうでこちらも嬉しくなる。


「いちかは結婚とかは?」

『全っ然考えてない』

「えー、社会人になってから彼氏はできたでしょう?今はいないの?」

『……うん、居たことはある。私が急に振っちゃったけど』


2年ぶりに史也を思い出す。決して何か酷いことをされたわけじゃない。けれど、今までの自分を全部捨てたかった。誰かに迎合して何をされても受け入れるだけの環境を全て、壊したかった。

きっと史也は優しいから、もしかしたら性格が変わった私のことも受け入れてくれたのかもしれない。でも、性格が変わった私を見て別れようと言われるのが怖かった。

本当は怖かったのに、あの時は"史也も最低な彼氏なのかも"と勘違いして別れてしまった。

最低なのは自分の方だ。彼に何の言い訳もさせずに別れだけ告げていなくなったんだから。


「最低な彼氏だったの?」


最低なんかじゃない。当時は気付けなかった彼の優しさを、今になって実感する。

具合が悪かろうが靴擦れしようが史也に合わせて歩き続ける私に気付くたび、自宅に送ろうとしたり。

体力のない私のためにデートは毎回映画館やプラネタリウムを選んでくれたり。

料理を作るたびにありがとう、美味しい、って言ったり。


『最低なのは私の方。…私には勿体無いくらい、優しい彼氏だったよ』


千波はそれを聞いて、少し迷った表情を浮かべた。何かを言いたいけれど、言いづらそうなそんな顔だった。

今気づいたけど、目の前に置かれている千波のアイスコーヒーは一切手がつけられておらず、ただ中に入っている氷が溶けて小さくなっている。

もしかして千波は、私に会うためだけにここに来たんじゃないんだろうか。


「あのね。選ぶのはいちかだから、これは無理強いするものじゃないから少し聞いてほしい」

『多分…私に会うためだけにここに来たんじゃないんだよね』

「あは…人の顔色に鋭いところは相変わらずだね…これ」


差し出されたのは、携帯番号と思(おぼ)しき数字の書かれたメモだ。

この電話番号は誰のものだろう。


「私、佐倉史也さんを知ってるの。それは佐倉さんの電話番号」

『…史也?なんで…』


まさか地元の知り合いである千波からその名前を聞くとは思わず、動揺する。地元と史也が働いている場所は、100km以上離れている。

たまたま二人が知り合うはずもない。


「佐倉さん、いちかに振られてからいちかの実家に行ったんだよ。そこで色々知って……、最初はいちかに謝りたいって言ってた。でも、少ししてからは幸せになっててほしいって。復縁したいわけじゃない、幸せかどうか知りたいって」

『そう…だったんだ』

「だから昔の伝手を頼りまくっていちかに連絡取ろうと頑張ったんだけど、いちかったら地元の人たち全員と縁切ってるからなかなか難しくて……。けど、1年少し経ってからたまたま旦那の兄が東京本社に異動になってね、倉林って名前の名刺をもらったことがある気がする、って」

『ああー…営業になってから名刺は尋常じゃないくらいばら撒いてるからなあ…』

「超やり手の営業だって言ってたよ。旦那の兄、大手の会社なんだけど商談持ち込んで2ヶ月半で導入完了させたって」

『あはは…まあ、成績は上げてるかな…』

「佐倉さんからはね、幸せかどうかだけ見てきてほしいって言われた。だから電話番号を渡したのは私の勝手な判断。…本当に、今もいちかの幸せだけ祈ってるよ」


史也は今もどうしようもないくらい、私のことを考えてくれている。

胸が暖かくなるのは烏滸がましいんだろうか。

きっと当時の私はさぞ可愛くない彼女だったろう。史也の前で可愛く笑った記憶もない。無愛想でぶっきらぼうで、元彼に"愛想がなくて可愛くない"と言われた頃のまま変われなかったあの頃と同じで。

けれど私の姿や言動や行動に、何も言わずただありのままの私を受け止めてくれたのは史也だけだった。


「ぜひ佐倉さんに、今のいちかを直接見てほしいなって思った。誰よりもいちかのことをずっとずっと想い続けてるあの人に、いちかの可愛さを見せたくなっちゃった」


眉を下げて笑いながら、千波は初めてアイスコーヒーを一口飲んだ。

ようやく伝えられて安心したみたいに、少しだけ泣きそうな顔で笑いながら。


史也以外にもこんなに私を大切に想ってくれた人がいたのに、今まで気付けなかった。

それに気付けたのも史也のおかげで。

私はどれだけあの人に助けられてきたんだろう。


「だから、決心がついた時でいいから…電話してくれないかな」

『うん。今すぐは…多分できない。でも、そうなったら電話する』

「…………っさ!しんみりした話はこれでおしまい!今度は私の姑の愚痴を聞いてもらうからね。お酒飲みに行こう、お酒!」

『っはは!うん、ぜひ聞かせて。この近くだとよく行く居酒屋があってーーー』


史也のおかげでもう一度繋げられた縁を大事にしようと思う。














*-*


4ヶ月後、春。







[……もしもし?東口ってとこにいるんだけど。えーっと、東口(北)かな…?]



スマホを耳に当て通話しながら、私は駅の中を歩いていく。

思い出よりも大人になった彼を目線で探す。

身長の高い彼のことだ、頭ひとつ他の人より抜けているから分かりやすいだろう。

そう思っていれば、予想通りの彼の姿が目に入る。


[え、あ……!]


スマホを耳から離し、向かい合う。






『久しぶり』「久しぶり」







第一声が被ってしまい、思わずお互い笑い出した。

過去とは違う今の、ありのままの私を君に見せようと思う。

今なら一緒に笑いながら値引きされていないケーキをきっと食べられるから。

たとえそれが君に受け入れられなくても。

それが私というものだから。

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