2.放課後5時の「検閲」という名の密会


 それからというもの、あたしの放課後はカオスなことになった。

 場所は、カビ臭い第2資料室から、空調の効いた快適な生徒会室へランクアップ。

 埃の匂いは、高級な紅茶(アールグレイ)の香りへ。

「相坂さん、ページめくるの早すぎます」

「いや、会長が遅いんですよ。そこ、セリフない風景だけのコマじゃん」

「コマの間(ま)を読んでいるんです。……この時の主人公の葛藤、分かりますか? 空に浮かぶ雲の形が、彼女の不安定な心象風景を暗喩している……実に興味深い演出です」

「めんどくさいオタクみたいな読み方すんね……」

 放課後の生徒会室は、私たちだけの密室だった。

 鍵のかかる重厚なマホガニーのドア。遮光カーテンで少し薄暗くなった室内。

 窓から差し込む夕日が、長い影を落とす。

 長机に二人並んで座り、一冊の漫画を覗き込む。

 距離、近すぎない?

 肩と肩が触れ合う距離。生徒会長の艶やかな黒髪から漂う高級なシャンプーの匂いが、あたしの鼻腔をくすぐり、理性を揺さぶってくる。

 彼女はこれを『検閲』と呼んでいる。

 あたしが持参する百合漫画を、風紀上の問題がないかチェックするという、無理ありすぎな名目だ。

 でも、その実態はただの読書会。

 いや、もっと言えば――二人だけの秘密のイチャイチャタイムだ。

 あたしは横目で会長を盗み見る。

 普段は全校生徒から「氷の女王」と恐れられ、感情なんて死滅していると思われている生徒会長。

 でも、今の彼女は違う。

 物語に没頭して、無防備に口を尖らせたり、尊いシーンで眉を寄せたり、時には顔を真っ赤にして手で仰いだりしている。

 その表情の豊かさに、あたしは見とれてしまう。

「……なんですか。人の顔をジロジロと」

 視線に気づいたのか、会長が不機嫌そうにこちらを見た。

「いや、会長って意外と表情筋動くんですね」

「失礼な。……私はいつだって感情豊かです。公務中は合理的判断のために抑制しているだけです」

「へぇー。じゃあ今は『非合理的』な時間ってこと?」

 あたしがからかうと、会長はフンと鼻を鳴らして、紅茶のカップを手に取った。

「……貴女といる時は、その……脳のリソースを節約しているだけです。別に、気を許しているわけではありません」

「はいはい、ツンデレ乙」

「ツンデレではありません!」

 ムキになって否定する姿が、年下の妹みたいで可愛い。

 全校生徒の中で、この顔を知っているのはあたしだけ。

 その事実が、あたしの胸の奥にある『独占欲』ってやつを刺激する。

 ページをめくるあたしの手に、会長の指先が触れる。

 ひやりと冷たいのに、そこから熱が伝わってくるようだ。

 会長は気づいていないのか、それともわざとなのか、手を離そうとしない。

 小指と小指が、触れるか触れないかの距離で並んでいる。

(……これ、繋いだらどうなるんだろ)

 そんな衝動を抑え込みながら、あたしは次のページをめくった。


 ある雨の日のこと。

 その日は漫画のキリが良く、早めに『検閲』が終わろうとしていた。

 あたしが帰り支度を始めると、会長の様子がおかしくなった。

「……もう、帰るんですか?」

「ええ、読み終わったし。雨も強くなってきたんで」

「……まだ17時半ですよ。定時まで30分あります」

「定時って何すか。あたし生徒会役員じゃないんですけど」

 あたしがカバンを持つと、会長は立ち上がり、窓の外を指差した。

「……見てください。雨雲レーダーによると、あと20分で豪雨になります。今帰るのは危険です」

「え、そう? 小雨になった気がするけど」

「なりません。……なります。私の予報は絶対です」

 頑として譲らない会長。

 彼女は再び椅子に座り、読み終わったはずの漫画をパラパラとめくり始めた。

「……ここのコマ、解釈が分かれますね。議論が必要です」

「さっき『最高』って言って完結したじゃん」

「……再考の余地があります。座りなさい」

 半ば命令口調で引き止められ、あたしは苦笑しながら席に戻った。

 要するに、まだ帰ってほしくないのだ。

 寂しがり屋で、素直に「もっと一緒にいたい」と言えない不器用な女王様。

「……じゃあ、議論しましょうか」

「ええ。……徹底的に」

 会長は満足げに口元を緩め、紅茶のおかわりを淹れてくれた。

 結局、雨が止むまでの1時間、私たちはどうでもいいキャラの髪型について熱く語り合った。

 帰り際、「また明日」と言った時の彼女の少し寂しそうな、でも安心したような笑顔が、雨上がりの空みたいに綺麗だった。

 そんな甘い放課後とは裏腹に、昼間の私たちは「天敵同士」を演じなければならない。

 それが、私たちの『共犯契約』のルールだ。

 昼休み。廊下で友人と歩いていたあたしは、巡回中の会長と遭遇した。

 周囲には多くの生徒がいる。

 スイッチを切り替える。

「げっ、会長だ……。マジだる~」

 あたしはわざとらしく舌打ちをし、友人の背後に隠れるフリをした。

 会長もまた、冷徹な仮面を被り、氷のような視線を向けてくる。

「……廊下は走らない。それと相坂さん、声が大きすぎます。迷惑です」

「はーい、すみませーん。……チッ、うるさいなぁ」

 完璧なプロレスだ。

 周囲の生徒たちは「うわ、相坂また目をつけられてるよ」「会長怖すぎ」と囁き合っている。

 誰も気づかない。

 すれ違いざま、会長があたしの足元に、小さなメモ用紙を落としていったことに。

 あたしは自然な動作でそれを拾い上げた。

 そこには、達筆な文字でこう書かれていた。

『今日の放課後、新作のスコーンを用意しました。遅刻厳禁』

(……餌付けかよ)

 思わず吹き出しそうになるのを堪え、あたしはメモをポケットに突っ込んだ。

 公衆の面前での、二人だけの秘密の通信。

 この背徳感が、私たちの関係をより一層密接に、そして複雑にしていく。


 ある日の放課後。

 夕日が差し込む生徒会室で、ふと会長が口を開いた。

「……ねえ、会長」

「なんですか。静かにしてください、今、主人公が告白するかどうかの瀬戸際なんです」

「あたしとこうしてんの、嫌じゃないんすか?」

 つい、口をついて出た言葉。

 普段は『陽キャの莉奈』として振る舞うあたしが、ふと漏らした本音。

 あたしなんて、ただのオタクで、騒がしくて、会長とは住む世界が違う人間だ。

 こんな高貴な人と、同じ時間を共有していいはずがない。

 会長は視線を漫画から外し、あたしを見た。

 その瞳は、射抜くように真っ直ぐで、でもどこか熱を帯びていて。

「……嫌なら、貴重な放課後の時間を割いたりしません」

「それって……」

「合理的判断です。……あなたといると、その……効率的にリラックスできるので」

 彼女はそう言って、照れ隠しのように紅茶を一口すすった。

 カップを持つ指先が、わずかに震えている。

 視線が泳いで、あたしと目を合わせようとしない。

 黒髪の間から覗く耳が、夕焼けよりも赤く染まっている。

 ああ、ずるい。

 そんなふうに言われたら、勘違いしちゃうじゃん。

 ただの「資料提供者」以上の何かに、なれているんじゃないかって。

「……会長、耳赤くなってますよ」

「う、うるさいです! ほら、次のページ!」

「はいはい」

 私たちの関係は、友達でもない、恋人でもない。

 名前をつけるなら、『共犯者』。

 でも、その言葉の響きは、どんな甘い言葉よりもあたしたちを強く縛り付けていた。

 机の下。

 ふと、会長の足先があたしの足に触れた。

 離れない。

 あたしも、離さない。

 この温もりだけが、嘘偽りのない「本物」だと信じて、あたしは今日もページをめくる。


そんな平和で甘い時間を破ったのは、あたしがカバンから取り出した一枚のプリントだった。

 先日返却された、中間テストの個票だ。

「……ん? 相坂さん、それは何ですか?」

 会長の目が鋭く光る。獲物を見つけた鷹のような目だ。

「え、あ、いや……ただのテスト結果っすよ。見ても面白くないっすよ」

 隠そうとしたが遅かった。彼女の細い指がプリントをひったくっていく。

「……数学92点、英語95点、現国88点……」

 会長は冷ややかに点数を読み上げる。

 あたしの成績は学年でも上位の方だ。決して悪い点数ではないはず。実際、クラス順位は一桁をキープしている。

 しかし、会長の眉間には深い皺が刻まれていく。

「……下がっていますね」

「え?」

「前回のテストより、総合順位が3位下がっています。特に現国。……ケアレスミスが目立ちます。『接続詞の選択ミス』なんて、貴女らしくない」

 会長は赤いペンを取り出し、個票に容赦なくチェックを入れていく。まるで自分のことのように厳しい。

「いや、3位くらい誤差の範囲でしょ……。平均点以上だし、問題ないって」

「いいえ。……心当たりがあるはずです」

 会長はペンを置き、あたしを真っ直ぐに見据えた。

 その瞳に射抜かれ、あたしは思わず息を呑んだ。

「近頃、放課後の時間を私との『検閲』に費やしすぎて……予習復習がおろそかになっているのではありませんか?」

 ギクリとした。図星だ。

 会長との時間が楽しすぎて、家に帰っても漫画の続きが気になったり、彼女のことを考えてしまったりして、机に向かう時間が減っていたのは事実だ。

 特に、夜寝る前に思い出すのは、参考書の内容じゃなくて、会長の不器用な笑顔ばかり。

「……生徒会に出入りする者が成績を落とすなど、私の管理能力が問われます」

「うっ、それは……ご迷惑おかけします……」

「放置できませんね。……私が責任を持って指導します」

「え? 指導って、ここで?」

「いいえ。ここには資料(漫画)という誘惑が多すぎますし、閉門時間もあります」

 会長は少し考え込み、やがて何かを決意したようにあたしを見た。

 その視線が、少しだけ泳いでいる。

 指先が、落ち着きなく机をトントンと叩いている。

「……今週末、私の家に来なさい」

「は?」

 あまりの唐突な提案に、あたしは素っ頓狂な声を上げた。

「私の家なら、静かで、誘惑もありません。……集中できる環境で、徹底的に叩き込みます」

「い、いえいえ! そんな、会長のプライベートな空間にお邪魔するなんて、恐れ多いですって!」

「遠慮はいりません。……それに、週末なら時間も気にせず、その……休憩時間に漫画の続きも読めますから」

 後半の声が小さい。

 これ、勉強は建前で、本当は週末も一緒に漫画読みたいだけじゃ……?

 あたしはニヤけそうになるのを必死に堪えた。

 この人、本当に不器用すぎる。

「……えーっと、でもご家族とか、迷惑じゃないですか?」

「両親は今週末、学会と視察で海外に行っています。使用人も休暇を取らせているので……家には私一人です」

「えっ、一人?」

「……広い家に一人だと、その……防犯上も不安ですので。貴女が来てくれれば、一石二鳥です」

 会長はそう言って、プイと顔を背けた。

 耳が赤い。

 「寂しいから来てほしい」とは、意地でも言わないつもりらしい。

 なんて面倒くさくて、愛おしい人なんだろう。

「……分かりました。行きますよ、会長の『ボディーガード』兼『生徒』として」

「……ふん。遅刻したら承知しませんよ」

 こうして、私たちは『勉強合宿』という名の、初めてのお泊まり会を開催することになったのだ。

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