シルバーバレットなんてなかった
Kinderkrankheit
シルバーバレットなんてなかった
「何か、言い残すことは」
旧式の銃器を突き付け、淡々と問いかける。
「ら、来世。来世は、こんな最下層じゃなくて、上層の、エリートに産まれて……」
墓地の静寂。震える後頭部と声。無根拠な“次”への希望。その全てが、女にとっては見慣れた光景であった。
「息子を、大学に入れてやりたかったなあ……! あの時俺に金があれば、俺が、俺の、」
「大丈夫です。あなたの過ちではありませんから」
諭すような、突き放すような口調。男はそれに答えることなく、ただ涙を流す。恐怖、懺悔、安堵、あるいはその全て。そろそろ良いだろうと、女は思った。
「……お別れにしましょう」
「ああ。嬢ちゃんのおかげで終われる。ありがとう」
「お代を頂いていますので。……こちらこそ、ご利用ありがとうございました」
発砲音はほとんどしなかった。頭と胸に、それぞれ一発。男は一瞬で命を落とした。彼の魂はこの世を去り、そしていつか帰ってくるだろう。
女もまた、遺体を丁寧に埋葬し、帰路に着いた。
◆
ララエリシア。主流宗教の聖典に登場する天使であり女神、ララエルを重要な信仰対象とする一派が建国した、比較的歴史の長い宗教国家である。平等を謳う中央教会が政府を兼ねているにも関わらず、格差は大きく、“上層”と呼ばれる都市圏と、“下層”であるそれ以外の地域とでは、経済的にも文化的にも分断されている。
ララエルは人の魂を司る女神であり、「人の運命や価値はララエルによって、生まれる前から魂に刻まれている」という聖典解釈を盾に、格差を是としている人間も中央教会には多い。下層に多くの拠点を構える地方教会はこれに反発しているが、政争においては不利な立場にあると言わざるを得ない。
そして、ここモンドコートは、ララエリシアの中でも下層も下層。国と時代によってはスラムと定義されるような地域も多い、そういった街である――
女は、食堂で二人の男がそんな話をするのを聞いていた。その内容に異論はないし、あったとして文句を言うほどモンドコートに思い入れはない。ララエリシアなどもってのほかだ。夕飯時だが店は空いていて、男二人と女のほかに客はいない。
というのも、この食堂はモンドコートにおいてはややお高い価格帯に分類される。値段を気にせずに利用できるのは、彼らのような旅行者か、この街の住人であれば、危険な仕事と引き換えに多くの収入を得ている人間か。女は、そんな店の常連だった。
「エリー、今日は遅かったじゃない。こちら、“いつもの”」
「どうも」
「しっかし、よくもまあ毎日飽きずに同じものを……根菜のトマト煮込み、好きなの?」
「いえ、一応教会の人間としては、質素な食事を心がけようかと」
「ただの雇われ清掃員が敬虔なこって。まあいいや、ごゆっくり」
原価が安いからこっちは大歓迎、と厨房に戻っていく店主。その背中を見ながら、女はマメやニンジンが浮かぶ皿に目を落とす。具の量は、彼女がこの店に通うたびに増えているような気がする。
「………………好きと言えば良かったかな」
彼女の名は、エレノア・ベントナー。通称“墓守りエリー”は、口下手な女であった。
エリーの仕事は、教会墓地の清掃である。下層の人々は決して女神に対して信心深いとは言えないが、地方教会は公共インフラや地方行政機関としての役割も担っているため、教会の地域における影響力はどこも大きい。
特にその教義から、教会は死人の葬儀から埋葬を全てその管轄下に置いている。ララエルによる魂の転生は、信仰を超えて風習と言えるレベルでララエリシアの国民に根付いた価値観である。
そういった事情から、ほぼ全国民の墓は教会が管理しており、その規模は上層下層問わずかなり大きい。そのため、墓地の清掃はそれだけで一稼業として成立している。文字通りの地方公務員と言ってよく、スキルやコネを必要としないため、下層の中でも安定志向の人々からは比較的人気の職でもある。
ただし、決して稼ぎは良くない。地方教会の人間はそもそも多くが薄給であるが、清掃員はその中でも更に低賃金の部類にあると言える。下層の物価ならば最低限の衣食住に困るほどではないが――本来、エリーはこの食堂を気軽に利用できるような人間ではない。
彼女が何らかの『副業』をしているのは客観的に見て明らかだった。
「これサービス。おいしそうな顔で食べて」
難しい顔で煮込み料理を口に運ぶエリーのもとに店主が再びやってきて、テーブルの上に果実を使ったゼリーを置く。
「え……そんな、頂けません」
「珍しくよその客が来てるの。ちょっとした宣伝になるつもりで、いいでしょ」
そう言われてみると、陰気な女が安いメニューで粘っている姿は、店にとってよくないのかもしれない。過度な反省と共に、エリーは渋々デザートを受け取る。店主は気をよくして言葉を続けた。
「最近顔色悪いわよ、ちゃんと休めてる?」
「……大丈夫ですよ。最近は流行り病も飢饉も無いですし、ルーチンワークばかりで忙しくはありません」
「だったら栄養不足ね。ちゃんと肉や魚も食べなさい」
「教会の人間なので……」
「それはさっきも聞いたけど、下層の墓掃除で肉食禁なんて聞いたことがないわ」
「上層の司祭も裏ではやることやってますよ、晩餐とっても豪華らしいです」
「だったらあなたが節制する意味はもっと無いじゃない」
「いや……その、ニンジンやゴボウ、おいしいじゃないですか。ほんとに」
ならいいけど、と店主はため息をつく。実のところはエリーの体調に異常はなく、この押し問答は単なる店主の節介であった。しかしエリーは不器用で、その節介を素直に受け取ることが出来ずにいる。
そして彼女は結局、店主の反発を押し切ってデザート代までキチンと支払い、店を後にした。
エリーが店を出た時、モンドコートには雨が降っていた。傘を持ち合わせていなかった彼女は渋い顔をする。食堂に戻るのもなんとなく恥ずかしいし、早いうちに止むとは限らない。多少治安は悪いが、近道を使う必要があるかもしれない。
上着のボタンを首元まで掛け、足早に家を目指す。普段使いの大通りなら家まで三十分ほど。路地裏を通れば二十分で済む。雨はだんだん強くなってきている……十分の差は大きそうだ。
いくつか角を曲がり、狭い道から狭い道へ。露店も雨で引っ込んだようで、道幅の割には歩きやすい。エリーは極めて順調に歩を進めていた。一方で雨足もじわじわと強くなっていく。
彼女が呼び止められたのは、遠くで落雷の音が聞こえた時だった。
「そこのお姉さん! 雨宿りに女の子はいかが?」
「今なら雨天割り引きで一時間四千クレジット、一晩で四万クレジットよ! とってもお得なのだけど、どうかしら?」
通ってきた中で一番狭く、一番暗い道。そこに面した窓から若い声がした。エリーは無視しようかと思ったものの、珍しく思い足を止める。
モンドコートの風俗宿は、教会の目が行き届かない路地にひっそりと店を構えている。客引き自体はそう珍しいことではない。女性向けの風俗宿もニッチな需要はある。珍しいのは、「商品」が客引きのために表に出ていること、そしてその「商品」自体だった。
エリーに声をかけたのは、にこやかに笑う黒髪の少女だった。窓越しでわかりにくいが、背丈はエリーの肩程度までしか無さそうだ。笑顔の奥から滲み出る艶やかさと、仕事着であろうシースルーのネグリジェが、まだ幼い風貌に対してあまりにミスマッチに映る。
もし少女が見た目通りの年齢であるなら……この店は明らかに違法。食堂で聖職者の矜持を語った身としては通報や説教をするべきなのかもしれない。しかしエリーのそれは会話の流れで出てきた理由付けであり、決して信念ではなかった。
エリーは少女にいらないよ、とジェスチャーを送っただけでまた歩き出そうとした。しかし、少女は表情一つ変えずにセールストークを続ける。
「じゃあ傘はいかがかしら? 返してくれるなら一日で五十クレジット、買い取りなら二百クレジット!」
傘を売ってくる客引きなど初めてだったが、家までの距離がまだまだあることを考えれば、案外悪い選択肢では無いのかもしれない。エリーは少し考えたあと、周りに気を付けながら財布を取り出す。この道を頻繁に使うわけではないし、これ以上関わり合いになりたくはない。買い取りが妥当だろう。
……しかし、硬貨は八十クレジットしかなかった。原因は明らかで、彼女がつい先ほど善意を金銭で押し返した分である。少女がお釣りまで用意してくれるとは考えにくい。エリーは文字通り天を仰ぎ、雨粒に頬を叩かれた。
「……明日返します」
エリーが少女に対して初めて言葉を発した。ため息とともに手渡された五十クレジットに、少女の方は目を輝かせる。
「明日! わたしは明日も夜から出勤なの! 是非その時は一緒に――」
「日中に来ます。傘どうも。さようなら」
エリーは受け取った傘を少女からの視線を遮るように開き、やはり足早に去ることにした。これ以上濡れることは無くなったが、これ以上ここに用も無い。
「わたしモモって言うの。ご指名、お待ちしてますわ~」
少女は最初から最後まで笑顔を崩さずに、ひらひらと手を振りエリーを見送った。女性にしては高いその背中が見えなくなってからしばらくして、ゆっくりと路地に面した窓を閉める。
「……ぜったいに来てくださいね、エレノアさん」
少女の呟きは、モンドコート中を覆う雨音に消えた。
◆
「一昨日は葬儀がありませんでしたから、本日は第三・第四墓地の定例清掃だけお願いしますね、エリー」
「承知しました、シスター・フラン。月末も近いですから、午前中は死因集計に手を付けておきます」
翌日、モンドコート地方教会。どんよりとした雲こそ消えないものの、雨は夜のうちに降りやんだようだった。エリーはいつも通り朝礼拝が済んだ時間帯に出勤し、今日の仕事内容を、直属の上司であるシスター・フランに確認していた。
定例清掃とは、文字通り日々の墓掃除。午後になってから陽が沈むまでに、モンドコート全住民のものである墓地を清掃する。一般的な掃除はもちろん、手向けられた花の手入れや、古くなった墓石のチェックまで清掃員の管轄であり、モンドコートにある五つの墓地を何人かで分担している。
死者が出て葬儀が行われた場合、埋葬の補助も清掃員が担当することになる。人が亡くなった後墓地に埋葬されるまでには、教会での祈祷や防腐処理など、いくつかの段階を踏む必要がある。実際に墓地清掃員の仕事が増えるのは、教会での葬儀の二日後だ。
死因の集計は必須の業務ではない。エリーの先任者が趣味で始めたものだったが、教会の医務部にとって有益であったため、モンドコートや周辺地域の教会で正式に業務に組み込まれた。それを彼女が引き継いだ形である。月末は統計上の区切りにあたった。
これらの確認を済ませ、事務室に向かおうとするエリーだったが、フランが呼び止めた。
「そういえばエリー、見慣れない傘が裏口に掛かっていましたが、どなたかお越しになったのですか?」
「いえ、私の借り物です。昨晩傘を持ってない時に降られまして…………露店商から、一日五十クレジットで」
エリーは冷や汗を流す。風俗宿で年端も行かない少女から買い損ねたなど、色々な意味でシスターに知られてはいけない。
「それは災難でしたねえ。返却は夜でも間に合うのですか?」
「返してから出勤しようと思ったのですが……不在だったもので」
言葉の通り、エリーは今朝あの路地を訪れていた。しかし、少女はおろか店員まで不在の営業時間外、無駄足に終わっていたのである。冷静に考えれば、夜の店とも呼ばれる風俗宿が日中から店を開けている可能性は低い。よしんば知識が薄くとも、立ち去ろうとした時に平気で自己紹介を始めた少女の反応から察するべきであったかもしれない。
少女の笑顔と交わした言葉を思い返して、またあれをいなすのは骨が折れそうだと嘆息する。口下手が災いして、穏便に断ることが苦手なのだ。少女を買うことに興味があるわけでは、決してない。本当に。
いくら悩めども、傘を持ち逃げしたり、店の前に置いていったりする発想に決して至らない辺りが、不器用な彼女らしいと言えた。
エリーはシスターと別れ、仕事に取り掛かった。やることは教会が記録している書類で物故者の情報を得て、適切に分類すること。今月――天秤の月のモンドコートは“比較的”平和で、死者自体が少ない傾向にあった。
そうした背景もあって、エリーは大した時間をかけずに、昨日までの死因をまとめ終わってしまった。詳細を付すのは明日以降で良いだろうと判断し、数字に目を落とす。最大の死因は病死だが、流行り病の類ではない。次に不慮の事故。老衰。先月に比べて殺人が減っているのは良い傾向だ。
そして、自殺。八ヶ月連続、0件。その行を指でなぞり、エリーは小さく息を吐く。
これは決して珍しいことではなく、モンドコートに限った話でもない。宗教国家ララエリシアの下層地域において、自殺はめったに発生しない。
聖典におけるララエルの役割は、死した人間の魂を集め、浄化し、ある意味ランダムな祝福を与えて、新たに生を受ける人間に吹き込むことだ。その魂の輪廻の器として、全く違う運命を辿る人間が生まれ続ける。そういった解釈が主流であり、中央教会の一部における「人の運命は貧富すらもララエル様に定められている」という格差正当化の思想もここから生まれていると言える。
そして聖典の中のある一篇、自ら服毒した人間の魂がララエルの祝福を受けなかったというエピソードが、ララエリシアにおける自殺の忌避と強く結びついている。この一遍について、自死した者は転生してもまた同じ運命を辿る、という解釈が一般的なのだ。
もちろん、神学の世界においてはこの一遍に限らず多角的な解釈が日々議論されている。この一解釈が不偏的な真実であるという根拠はない。しかし一般大衆にとっては無縁の世界であるし、何よりこの国において、葬儀を管理する地方教会は不可欠なインフラであり、女神と密接に結びついた死生観はもはや風習となっている。
希死念慮の多くは今生の苦しみから生まれるものだ。しかし自ら命を絶つと同じ運命を辿るとなれば、自然とそこで自死を選ぶ人間は少なくなる。下層のリアルな生活苦が原因であればなおさらだ。その結果として聖典解釈はより大きく文化としての広がりを続けていく。
こういった背景から、信心深い富裕層の一部が死の際に服毒し同じ運命を望む願掛け、あるいは重度の精神錯乱者によるものくらいしか、ララエリシアで自殺は起きなくなっているのである。
エリーは書類をそれぞれ元の場所に戻すと、椅子にもたれかかり目を閉じる。もう午後までにやるべきことは済んだ。薄給に見合った緩さを持つこの仕事が、エリーはそれなりに気に入っていた。
◆
定例清掃をさっさと切り上げたエリーは、傘を持って路地裏に急ぐ。夕食を済ませてからだと昨日と同じ時間になる。そうなれば間違いなく少女が待ち構えているはずだ。運が良ければ少女の“仕事中”に訪れることも出来ようが、エリーにそのタイミングを知るすべはない。時間を前にずらすことが、出来る中で最も確率の高い方法に思えた。
「いらっしゃいませ! 日が暮れる前だから早割で一時間四千クレジット、今から朝までなら五万クレジットよ!」
「………………傘。返しに来ただけです」
不発。思い切って宿の扉を開いた先では、昨日の少女がカウンターでエリーのことを待っていた。そもそも娼婦が受付もするものなのだろうか。疑問に思いつつも、目線を合わせないようにしながら傘を手渡す。問題はここからだ。
「確かに受け取ったわ! お姉さんみたいなキレイな人が風邪でも引いたら大変だから、とっさに押し売りしちゃったの。そんなサービスほんとは無いのよ? この店」
「そうですか、物は返したので私はこれで……」
「おいおい姉ちゃん冷やかしか~? そういうのちょっと困るんだよねえ」
少女は冗談めいた口調で風俗宿の男店員を真似ると、エリーの服の袖を掴む。その力は決して強くないが、エリーもまた、それを無視できるほど強くなかった。
「あなたね……」
「モモって呼んで♡」
「私は教会の人間なんです。聖職者が娼婦を買うなんてもってのほかだし、この店やあなたを教会に通報することだって出来るんですよ」
「興味がないとは言わないのね。えっち」
「興味もありません」
「実はまだ、お店は開店前なんだけどね。わたしがオーナーから鍵借りてお姉さんを待ってただけだから、お風呂もベッドも使えないの。ごめんね」
笑顔がにやにやとしたものに変わった少女の発言に、エリーはめまいを覚える。かけられているのは営業ではなく、ちょっかいだったのだ。そう気付き、軽い怒りと共に少女の手を振り払う。本当にシスターに密告してしまおう。そんなことを思って店を出ようとした。
「ああ待って! 怒らせたならごめんなさい、最後に一つだけ!」
少女はそれでもエリーを呼び止める。今度こそ無視して背を向けたエリーだったが……急いで加えられた言葉に、立ち止まらざるを得なかった。
「私を買ってくれないなら、あなたを買いたいわ。五十万クレジットらしいわね、エレノア・ベントナーさん?」
深呼吸しながら、ゆっくりと振り返る。エリーはその時初めて、笑顔を浮かべていない少女を見た。静かでまっすぐな視線に射抜かれ、店に入る前とは全く別種の緊張が走る。買いたいという意思。値段。名前。少女はエリーの『仕事』を知っている。
「どこで、それを」
「しばらく前にお相手したおじさま。なんでもお友達があなたのお世話になったそうよ」
「そう。……なぜ私だと?」
「ざっくり容姿と本業を知ってただけよ。そしたら自分から聖職者だって言ってくれたから、答え合わせ」
「………………」
「否定しないなら、私だってエリーを教会に通報できるのよ。これでイーブンね!」
指でV字を作りながら明るい声を出す少女。しかし表情は変わらず真剣なままだ。ごまかしは効かないとエリーは考える。
「……何故知っているかはわかった。それで、買いたいってのは」
「そのまま。わたしがお客。こんなお仕事してるから、お金もちゃんとあるのよ」
「私がやるのは単なる殺しとは違う。本当に理解して言っているの?」
「ええ。わたしの身体、もうだめらしいの。…………わたしに買わせてくれるかしら、“他殺屋”の仕事を」
一万クレジット紙幣の束をカウンターの上に置き、少女は目を伏せる。
エリーもまた、少女が死を望んでいる事実から目を背けるように、紙幣に描かれたララエルに視線を落とすしかなかった。
◆
「エリーの部屋のシャワールーム、とっても狭かったわ!お店の半分の半分もないんじゃないかしら……」
「地方教会の独身者が借りられる小部屋なんてそんなものです」
ここはエリーの自宅。集合住宅の二階、最も端に位置する部屋。彼女らが口にするように、かなり手狭な一室にエリーは少女を連れてきていた。
エリーが“顧客”を全員招待するわけでは決してない。いずれ他の娼婦やスタッフがやってくる風俗宿で話を続けるわけにもいかず、少女の家はモンドコートの外にあると言うので、消去法的に連れてこざるを得なかったのである。彼女を連れ出すのに必要なクレジットは、少女が依頼費とは別に出していた。
「改めて確認しますが、あなたが――」
「モモって呼んでって言ってるのに。カタい話し方も出来ればやめてほしいかな」
「……それは風俗宿での仮名でしょ」
「わたし、捨て子だったの。最初にオーナーに貰った“モモ”だけが名前よ、嘘なんてないわ」
「……モモ、あなたが買おうとしているのはどういうものなのか、本当に理解しているの?」
「自殺したいけど同じ運命が嫌な人を代わりに殺してあげる、不愛想な天使サマ!」
モモは笑顔で言い放つ。そこにはからかいの要素は無く、“不愛想な天使サマ”の部分も含めて、彼女が客から伝え聞いたそのままだった。エリーはため息をつく。
「最終的にそうなる場合もあるけれど、お金をもらって、はいわかりましたと全員殺してしまうわけにはいかない。どうして依頼料を五十万も取ってるか、わかる?」
「安いと……いっぱい依頼が来て証拠を隠しきれないから、とか」
「それは副次的な効果。主目的はね、金が無いから死にたいって人の依頼がなくなるから」
エリーはモモが不思議な顔をするのを見て、説明を続ける。
「今まさに困窮して死にたい人は、金さえあればもっと視野を広く持てて、死ぬ必要は無い人かもしれない。それを達成するのは難しいだろうし、私が分けてあげるわけでも無いけれど……一過性の問題であることが大半。私はそんな希死念慮まで昇華させてられない」
「……人の死にたさを、値踏みするのね」
「キリがないの。そして何より、本当は殺さずに済ませたい。福祉の助けがあれば死なずに済む人は、密かに教会に取り次ぐ。大きな障壁を抱える人には、私が出来る限り力になる。私は人殺しだけど、それでも聖職者だから」
「でもエリー、ただの清掃員だって話じゃない」
「よく言われる」
詭弁であることはエリー自身理解している。結局は高額の金と引き換えに銃弾を贈るのが彼女の仕事。聖職者であることは理由付けではないし、モモが耳に挟んだような「ララエルの尻拭い」をしているつもりも一切ない。出来る限り殺さずに済むよう動くのは、自己満足の贖罪でしかない。それでも、エリーはそれを続けていた。
「……おじさまは、エリーのこと、残酷でクールで慈悲深い天使だって言ってた。結構人間臭いところがあるのね」
「そう。……だから、モモ、あなたについてしっかり話してもらう必要がある。あなたが死ななくて済む道があるなら、この仕事は受けられない」
「納得してもらえれば、ちゃんと殺してくれるのよね?」
「本当に、それ以外に一つたりとも道は無いと、私が思うなら」
「わかったわ。けど……そうね……」
モモは言葉を濁し、ちらりとエリーに目をやった。その視線が帯びる湿度に、エリーはぞくりとする。
「五万クレジット、お店に払ってきているの、覚えてるかしら」
「……もちろん覚えてるけど、」
「五十万クレジットはまだ正式に受け取ってくれないのよね」
「それはもちろん、」
「つまり今晩はまだわたしが売り手で、あなたが買ったのよね」
「モモ、」
食い気味に言葉を重ねながら、“顧客”にモモがにじり寄る。狭い部屋に逃げ場などあるはずもない。ついにその距離はゼロとなり、少女が、耳元でささやいた。
「……話すわ。全部話す。けどエリー、身の上なんて恥ずかしい話をするのは、私たちの世界では“
◆
これは本当に必要なことなのだろうか。
拗れに拗れた今を正当化するべく、エリーはぐるぐると自問する。モモは依頼者で、依頼者の背景は知る必要があって、モモは売春宿の少女で、仕事が話すために必要なルーティンなら、私はそれも含めて受け止めるべきなのか。仕方ないのか。本当に? 傘を返しに行った時から、これを期待していたんじゃないか? いや、そんなはずは。
一方のモモは、顔を真っ赤にして目を回すエリーを見ながら、両手の指を絡める。噂に聞いた天使サマがこんなに初心だとは思わなかった。かわいい。なんだか嬉しくなって、いつもの営業トークを数段飛ばしで駆け上がる。
「エリーの手、ちょっとごつごつしてるのね。普段何かやってるのかしら」
「……掃除。竹箒」
「えへへ。知ってた。……エリーは女の人とシたこと、ある?」
「…………ない。というか、男とも」
「あら聞いてないとこまで。想像はついていたけど」
「馬鹿にしないで」
「んーん。エリーのはじめてがわたしで、わたしの最後がエリーで、嬉しいなって」
少女はふにゃりと笑った。路地裏で見たそれとは少し違う、柔らかで、幼い笑顔。その持ち主が娼婦であることも、死にたがっていることも、受け止めきれていない。エリーが直視できずに視線を外すと、モモはその先に身体ごと回り込んでくる。
「目、逸らしちゃダメだよ。はじめてえっちなことする人の顔、しっかり見るの。……目閉じたりしたら、キスしちゃうからね」
お互いの呼吸を肌で感じる。こんな距離で見つめ合うことなんて、恋人同士でも滅多にないだろうに。エリーは思う。モモの瞳が、吸い込まれそうなほどに深い色が、自分を観察しているのがわかる。自分の視線と少女の視線の境界が曖昧になっていく――――
「ちゅ」
接吻。
錯覚程度の、ほんの一瞬のふれあいすら、エリーをかき乱すには十分すぎた。
「モモ、いきなり――」
「だってエリー、今まばたきしたもの。……ダメだったかしら?」
良いわけがない。ダメなわけも思いつかない。空回る頭に響く脈拍の速度が、限界を迎えてはちきれそうだ。
「次はもっと、やらしいのしてあげようね」
モモは興奮を煽ろうと耳打ちするが、エリーの頭はそれを理解出来ていただろうか。
固い結び目をほどくように、モモの舌先が唇に触れ、中に入り込んでいく。エリーの身体は、拒み方すら知らなかった。
さほど大きくないはずの水音が、エリーの脳をゆったりと揺らす。過剰なまでに五感を支配する少女と、堂々巡りする自意識への言い訳。思考に余裕などあるはずもない中で、何故か少し冷静に、ぼんやりと感じてしまう。
年齢に似つかぬ、この淫靡なキスこそが、彼女がこのララエリシアで生きていくために必要だったものだ。彼女にとって。口づけとはそういうものなのだ――
そんなことを思いながら、エリーはモモの全てを受け入れていた。
◆
「ご満足いただけたかしら?」
一仕事終えた、という風にモモが問いかける。実際彼女にとって仕事ではあるのだが、一方肩で息をしているのはエリーの方だ。顔を真っ赤にして、とっくに全貌が明かされた裸体を毛布で覆い隠している。
「経験ないって言ったのに、無茶苦茶しすぎ」
「でもいっぱい感じてくれたじゃない」
「はいはい、参りました。プロって凄いのね、って感じ」
「チェリーやバージンのお相手したことはあるけど、こんなになっちゃう人初めてよ。エリーがすごいんじゃないかしら」
にやにやとした笑みを浮かべる少女に、真偽を問いただしても無駄だと溜息を吐く。たった一度肌を重ねただけで、モモとのパワーバランスは明確なものとなってしまった。
少し落ち着こうと、エリーはベッドに倒れこむ。それを見たモモは至極当然のように、同衾すべく近寄った。
「ちょっと待って、これ以上はむり」
「ピロートークよ。聞いてくれるんでしょ? わたしの話」
べつに二回戦でもいいけど、とくすくす笑うモモ。完全に手玉に取られていることを自覚したエリーは、毛布を頭まで被って形だけの抵抗を示すほかなかった。
「わたしがどんなお仕事をしてるか、身体で味わってもらったわけだけど。どうだった?」
「……誤魔化してもからかわれるだけだから言うけど、良かった」
「うふふ、ありがと。エリーもすっごくかわいかったわよ」
「うるさい。……やっぱり慣れてたけど、女も普段から相手するの?」
「あら、もしかして嫉妬?」
「そういうつもりじゃ無い」
「冗談。そうね、私を買うお客さまは……男の人と女の人なら、9:1くらいかしら。ウチの客層自体も大体それくらいだと思うわ」
「……そうなんだ」
「ところで、同じえっちをするにしても、男の人は明確な終わりがあるわよね。エリーは知ってるかしら?」
「馬鹿にしないで」
「あはは。そうね、それで、それでも、出来ちゃったらわたしたち売春婦は仕事にならないわけ。こっちはまじめなクイズ。ララエリシアの教会は堕胎を認めているかしら?」
「文句無しの違法。……モンドコートはロクでもない街だけど、大っぴらに教会法に触れるような闇医者は無い」
「百点満点の補足までありがと。まあつまり、わたしたちは避妊をしなきゃいけないわけだけど、品質のいい避妊具は高いし。何より、”使わなくていいこと”はお客さんを増やせる。だからウチは使ってないの」
「…………」
「というわけで、わたしたちは薬を飲んでるのよね。すっごいにがいの。で、挙句あんまり体には良くないわけ。特にわたしは、孤児の頃の栄養失調のせいで、特段相性が悪かったみたいで」
「…………」
「酷いときはおなかが痛かったり、血を吐いたりしたから、ウチの店と懇意のお医者様に見てもらったら、もう、長くはもたないって言われちゃった。鎮痛剤が効いているうちは、今でもあまり気にならないのだけれど。…………さっきまで抱かれる側だったのに、今度は抱きしめてくれるのね」
「モモ」
「なんでエリーの方が涙ぐんでるの。わたし以外にも、死にたがりの悲惨な境遇をいっぱい聞いてきたんじゃないのかしら」
「話してくれてありがとう、モモ」
「……どういたしまして。お陰であたたかいわエリー。とっても」
◆
増え続ける卓上の品数に、エリーはそれだけで胃もたれを起こしそうになっていた。
ここはモンドコート路地裏、それも奥まったエリアに店を構える大衆酒場。深夜にも関わらず客は入っていて、住民たちによる安酒の注文が飛び交う。そんな中、モモはひたすらに肉料理をオーダーし続けている。
「よくもまあそんなに……」
「わたしから言わせれば、スープ一杯で満足げなエリーがわからないわ!」
彼女たちはあの後、他愛無い与太やお互いの仕事について言葉を交わしていた。その中で、エリーが傘のせいで夕食を食べ損ねたと肩を落としたので、モモの行きつけだという店に連れ立ってやってきていたのだ。
「こんな時間までやってる飲食店があるなんて知らなかった」
「この辺は夜職の人多いもの。わたしもお店の先輩に教えてもらったのよ」
選択肢が少ないからお客さんと鉢合わせたこともあるわ!と笑うモモに、エリーはやれやれと肩をすくめる。治安の良くないこの辺りで、少女が笑い話とするにはやや重い。
エリーは所在なさげに目の前の器を見つめる。とっくに食べきってしまったトマト煮込みは、大通りの食堂の半額以下だった。そんなエリーを見かねて、モモがフォークで分厚いハムを差し出す。そのまま食べて、という意だったが、たった一晩でそこまで気を許したつもりはない。フォークごと受け取り、黙って咀嚼する。モモが軽やかに笑う。喧噪の中で、嘘のように穏やかな時間が流れていた。
「それで、受けてくれるのかしら。お仕事」
数にして実に九皿を平らげたモモが、何の前触れもなく切り出す。エリーは慌てて周囲を見回す。幸い酔客が騒いでいたのもあって、二人のテーブルに注意を払う人はいない。とはいえ、公共の空間で出来る話なわけはないと頭を抱えた。
「…………あなたは、危機意識が低い」
「それを言うならここのお客さんはみんなそう。壁の薄そうなエリーの家よりよほど安心して話せると思うのだけれど」
「普段は墓地を使ってる。夜間は人通りがほぼ無いし、区画を選べば音も響かないから」
「あら素敵。それで清掃員をやってるの?」
「それは……またちょっと違う」
エリーはいくらか考えた末に、直接的な表現さえ避ければ大丈夫だろうと、半ば諦めと共に仕事の話を進めることに決めた。
「症状について、ちょっと調べたいことがある。どれくらい深刻なのか、信用できる医者にも確認したい。短く見積もって、判断まで二日。……だから、一番早くても三日後の夜になる」
「丁度いいかもしれないわ。私もお店をやめる手続きしなきゃいけないもの」
「どれくらいかかる?」
「どうせ長くないのは向こうも知ってるし、キチンとした契約があったとも思わないし……話はすぐ通るんじゃないかしら。どこかのタイミングで一回お店に行けばいいだけよ」
「わかった。出来るなら早めに済ませて欲しい。直前だと……結構“仕事”にも影響がある」
「早め? 万一治るってわかった時に仕事は辞めちゃってたら、わたしその後どうしたらいいのかしら。もしかして、エリーが養ってくれるの?」
「薬が必要な仕事は、どの道続けられないでしょう」
「……それもそうね。それに、エリーを最後のお客様にするって言っちゃったもの」
「そこは、別にどうでもいいけど」
「喜んでもらえると思ったのに」
「そこは、別に」
退職の手続きには一度家に帰る必要があるとモモが言い出し、この日はそこで別れることになった。この時間にモンドコート外へ一人で帰ると聞いたエリーはひどく心配したが、モモの務める風俗宿にはある程度自由に使える車と運転手がいるらしい。
ララエリシアの技術レベルとモンドコートの経済レベルを踏まえると、自家用車はそれなりに珍しい。エリーはそれなら、とある程度安心して、一人帰路に着いた。
◆
探せ。必ず何かヒントがあるはずだ。
翌日、地方教会。エリーは集計済みの死因を総当たりで調べていた。病死、中毒死、衰弱死。どれに分類されていてもおかしくはない。とにかく、女性の死因は全てチェックしながら記録を遡っていったが、中々目当ての情報は見つからなかった。今日は埋葬補助もあるし、もちろん清掃は欠かせない。優先度の低い業務を盾に時間を私的に浪費するのも限度がある。
どうしてだろう。モモの話を聞く限り、避妊薬の副作用に苦しむ娼婦は少なくないはずだ。モンドコートの風俗宿は一個や二個ではない。致死性の症状は稀なのだろうか。別地域に問い合わせるか。いや、正当な動機がでっち上げられない行動は自分の身を危うくする――
結局エリーは、午前中にモモの症状について手掛かりを得ることは出来なかった。
モンドコート最大の広さを誇る第二墓地を掃除しながら、エリーは思案する。考えられるパターンはいくつかある。調査中に思い当たった、致死レベルの症状は稀で前例がないというケース。モモの話、あるいは医者の診断に何らかの誤認や嘘があるケース。いずれにしても、改めて医者に診てもらう必要があるのは変わらない。自分に出来ることは少ない。
他には? 自分の見落としは無いか。そもそも、服用していた薬の影響で死に至った場合、私は、教会は、どういう分類をしていた……?
その時、エリーの視界に離れた区画の墓石が入った。
全ての死者を見守るように造られたララエル像の、唯一の裏側。モンドコート、いや、ララエリシアで非常に稀な死を迎えた人間だけが葬られる、事実上の隔離区画――
そうか。自ら飲んだ薬で命を失うモモは、自死として扱われる。
聖典に記された、まさに文字通りの結末。自殺志願者としてはあまりに軽やかなモモの言動。何重もの気付きが刹那的に訪れ、エリーは少しの間、墓地の中で立ち尽くしていた。
教会に戻り、新たに自殺者の記録を調べてエリーが辿り着いた情報は、芳しいものではなかった。避妊薬の常用で亡くなったと思われる事例は、直近で一年半前。それなりに貯蓄のあった当該女性は、この国最先端の医療技術を持つ中央教会の診療所を訪れた記録もあったが、闘病むなしく息を引き取っていた。
◆
「エリー、ただいま!」
「ここはモモの家ではないのだけれど」
その日の夜。当たり前のようにモモはエリーの部屋の前までやってきていた。それなりの量の荷物を抱えてもいる。
「辞めるって伝えたら、結構な額のお金を貰えたの。手切れ金ってやつかしら」
懐から紙幣を何枚も取り出しヒラヒラと振って見せるモモを、慌てて諫めるエリー。何故この少女がモンドコートで重大な犯罪に巻き込まれないのか、不思議でならない。
「それに、どっちの家でも一緒じゃない。これからわたしたち、おうちデートするんだから」
「……デート?」
「あら、嫌だったかしら」
「理由を聞いてるの」
「エリーと遊ぶのに理由なんていらないわ! ……と言いたいところだけれど、わたしの住んでた家、寮みたいなものだから。お仕事辞めたら出ていかなきゃいけないんですって」
結局モモを招き入れたエリーだったが、頭の片隅には日中のことが残り続けていた。モモを救うヒントは、この日見つからなかったに等しい。
「明日には一緒に医者のところに行ってもらうから、よろしく」
荷物を下ろして一息ついたモモに対して、努めて冷静に声を掛けるエリー。少女は前髪の隙間から、ちらりとエリーの表情を窺ったように見えた。
「わかったわ。そのお医者様は、聖職者が次の日殺す娼婦を連れて行っても大丈夫なところなのかしら」
「……言い方。まあでも、私の身内。『仕事』についても知っているから、そこは心配いらない」
「なら良かった。連絡事項はそれだけ? そろそろデートを始めたいのだけど」
家でのデートというものに想像が及ばず、昨日のことを思い出して身を固くするエリー。モモは一通りからかって笑ったあと、二人でやりたいことを決めてからエリーの家にやってきたのだと告げる。
「今日はもうお客さんじゃないもの。プラトニックにいきましょ!」
「料理しようって誘うぐらいだから、心得があるものだと思っていたけど」
「わたしこそ、一人暮らしのエリーは日常的に料理してるものだと思っていたわ」
食材を買った帰り道、無責任に掛け合う。モモは二人での料理を提案したが、買い物の途中でようやく、お互い自炊経験に乏しいことが発覚したのだった。
「エリーのかよわい食生活なら全部外食で済ませてもお財布が痛まないってことかしら……」
「逆に言えば、モモの財布は毎日大ピンチってことになるけど」
「だってわたし、お金に困ってないもの!」
「そういうことを大きな声で言わない」
既に夜は更けていて、街灯のある大通りといえども薄暗い。加えて、モンドコートで遅くまで開いている商店は多くなく、それなりの距離の外出になった。エリーはある程度警戒しながら歩いているが、モモはそれを知ってか知らずか、「デート」としてこの状況を楽しんでいた。エリーが少し呆れながら口を開く。
「モモは……率直に言って、この国の下層に一人で生きてる女性と思えないことがある。危機感が無いけど、焦燥感も無いし。それに、言葉遣いはまるで上層の金持ちの娘みたい」
「デートなんだから、みたいで可愛いよとか、みたいで好きだよとか、そこまで言ってくれればいいのに」
全く答えになっていない文句を返されたエリーは、やれやれと肩を落とす。それを見てモモは微笑み、言葉を続けた。
「わたしのこれは、商売道具だから。オーナーに孤児院から買い上げられたあと、数ヶ月かけて叩きこまれたの」
「オーナー」
「そう。わたしにとっては、名付け親でもあるし、先生でもある。人身売買、風俗宿経営。当然ろくな人じゃないけれど、直接ひどいことはされなかった。不思議な人だったわ」
「下層の裏仕事でプロ意識、か」
「あら、エリーも似たようなところあるんじゃないかしら?」
「だからこそ、思うところもある」
「デートなんだから、全部口にしちゃってもいいのに」
「…………言えないというよりは、言葉がまとまらない」
こういう話題に限らず、エリーは上手く言葉が出てこないことがある。相手にどう伝わるかを意識しすぎて、形の整え方がわからなくなってしまう。自分の中でははっきりしているのかと言われれば、そういうわけでもない。
エリーの口下手は生来のものもあるが、なにより彼女は、あまりにも人と別れすぎていた。死者の抱く印象は二度と変わらない。表で、裏で、人生で。数えきれないほどの死別を見届けてきた彼女の心に刻まれた、残酷な真実。その意識が、彼女の言葉を縛り付ける。
そして困ったことにエリーは、無言が度々失言を下回る結果になることも、良くわかっていた。
帰宅まで会話が途絶えなかったのは、ひとえにモモの娼婦としての技量に尽きた。少女にとって、言い淀む年上をフォローし、手を変え品を変え場を繋ぐ行為は、茶飯事に等しい。
そして二人は今、どうにか切り揃えた食材を鍋に全て放り込み、トマトの中で煮えるのを眺めていた。
「こんなに牛肉が入っているトマト煮込み、初めて見たかも」
「共同作業だもの。お互いの好きな物じゃないと駄目でしょう?」
好き、なのだろうか。エリーにとってこの料理は、好物というよりは主食に近い。安くて、身体に良く、多少思い入れがあって、口に合う。それだけ。モモなら、それは好きってことよと笑いそうだ。
「モモ」
「なにかしら、エリー」
「私の、親の話なんだけど」
日中のことを引きずっているエリーの内心は、いつも以上に複雑に絡まっていた。しかし少女との交流は常に新鮮な体験であり、結び目は無理やりにほだされていく。
「私は……元々上層の生まれだった。父が中央の上級司祭で」
「あら。そんな人に言葉遣いを褒められてたのね。光栄だわ!」
「母は、私が物心つかない頃から国外にいる。彼女も中央教会の人だけれど、神学出身。留学だとかで飛び回ってて、たまたまララエリシアに戻ってきた時期に産まれたのが私」
孤児だったという少女にするような話だろうか、これは。エリーは自問するも、それでもモモに聞いてもらいたいと思った。
「それで二人で暮らしていたけど、父の帰りは遅くて。朝のうちに父が夕飯まで用意しておいてくれてるんだけど……父には複雑な料理をする時間も器用さも無かった。それに、子供でも温めやすいように、って。それが大体トマトスープだった。……郷愁の味、っていうのかな」
「つまり、エリーとしては一言に好きとは言えない色んな事があったのね」
「当時は嫌いだった。肝心の父は夜な夜な晩餐に呼ばれて良い物食べてるのに、って」
それも仕事のうちだと思えるようになったのは、最近になってから。エリーは苦笑いする。目の前の鍋は、あの時とは量も中身も違う。煮立つまではまだまだかかりそうだ。
「そんなお嬢様のエレノアちゃんが、どうしてこんな街で掃除なんか……ってのは聞いてもいいことなのかしら」
「ああ…………話しても良いし、聞いても良いけど。明日会う医者の説明にもなる。でも、あまり面白くはないし、結論も出てない」
「聞かせて欲しいわ」
モモはいつも、素直に欲望を口に出す。少女の背景を思えば、羨ましいとは口が裂けても言えないのだけれど。それでも、自分にはない輝きを直視するのは難しい。エリーは、鍋をぼんやりと見つめながら、昔話を続けることにした。
「十年くらい前に、父が突然、病で亡くなった。私が十七の時。母にも便りで伝わったはずだけど……帰国したって話は今でも聞かない」
母をよく知らないエリーは、その理由を想像することすら出来ない。だから特別、怒りや恨みも無い。淡々と口を開く。
「それで、その時唯一の血縁だった叔父に引き取られることになって、この街に越してきた。当時のモンドコートは……今よりひどかったかな」
想像もつかないわ、とモモが小さく笑い、エリーは教会が頑張ったってことにしておいて、と応じる。
「叔父は医者で、当時は父と同じくらい忙しい人だった。面倒を見てもらったのは私が成人するまでだから、一緒に住んでいたのは数ヶ月だけど。それから、地方教会に雇ってもらうことが決まって、いざ独立するって時……初めて、父の死に際について聞いた」
一度息を吸う。トマトの香りが鼻腔を通り抜けた。
「……父は、一人の青年の苦しみと懺悔を聞いて、手にかけたことがあった。それを、悩んで、後悔しながら息を引き取った。叔父は私にそれを伝えて、淡々と尋ねてきた。エリーはどう思うか、って」
「それって」
「最初は、意味が分からなかった。あなたのお父さんは人を殺したことがありましたよと伝えて、どうして無表情で私に評を問うのか。良くないことに決まっている、それ以外の答えがあると期待していた目だった。……それから、母の蔵書や仕事先で勉強をする日々だった。聖典。ララエル。自死と転生。下層の人々の死」
少しの迷いと共に、モモを横目で見やる。少女は未だ真っすぐに、エリーを見つめていた。
「……結局、父の行為は愚かだと思った。教会やその教会法がロクでもなかったとしても、そこを超えて個人の裁量で救済が出来るなんてのは、ただの驕り」
娼婦の少女は、これほどの明らかな自己矛盾に言葉を挟むことなく、エリーの次の言葉を待つ。
「でも、愚かであることを、過ちと等価とは思いたくなかった。私は、上層ではしない匂いがするこの街で、ビジネスとして、同じことをやれると思った。父よりもずっと利口で、ずっと愚かな聖職者であることが、証明になると思った」
理由になっているとは、エリー自身も思っていない。それ程に不明瞭な、閃きと決意。あくまで動機を、あえて露悪的に吐き出す。
「親より人間らしい聖職者になれるような気がした。上層の生活しか知らない私にとって、いい収入源になるとも思った。それで、人殺しなんかやってるってわけ」
これで話は終わり。そう言わんばかりに、エリーは、鍋の火を止めた。
◆
全てを打ち明けたつもりで、モモには言わなかったことがある。
今のエリーには、モモを殺す覚悟がなかった。
たった一夜。傘を借りたあの日から数えても、三日でしかない。そんな僅かな触れあいで、モモという少女は、エリーをどうしようもないほどに変えてしまった。さっき食べたトマト煮込みですら、不可逆な、初めての味だったのだ。
肩入れしすぎたのだろうか。いや、されすぎた、と言うべきか。今やもう、シャワーを浴びる少女の鼻歌が、心地よく、故に苦しい。
個人的な感情を抜きにしたって、モモほどの若さの人物がエリーを訪ねてきたことなどなかった。本当に少女の現世に、道は残されていないのか。
いや、まだ終わったわけじゃない。明日の診断に、全てを託そう――
エリーは無軌道な思索をやめ、テーブルに置かれた札束に目をやった。五十万クレジット。モモの一晩の値段はいくらだったか。人を殺す程度の仕事が、少女の春より高いわけがなかろうに、と思う。
紙幣に描かれたララエルに祈る。どうかモモの現世に祝福あれ。来世の事は、まだいい。
「あらエリー。お祈り?」
「モモ、出てたの」
「ついさっき、ね」
エリーは声を掛けられ、自分が思っていたより長い時間祈りを捧げていたことに気付く。時間感覚が薄くなるほど真剣だったのは、それこそ上層にいた時以来かもしれなかった。
「それにしても、噂されてる他殺請負人が、教会一家の出身でとっても敬虔だなんて思わなかったわ」
「……ある意味、当たり前でしょ。もし私が背信者なら、『ララエルなんていないから、安心して勝手に死ね』で済む話」
「それもそうだわ! どうして気付かなかったのかしら」
モモは腑に落ちたようで機嫌を良くしている。エリーとしては“敬虔”という部分には訂正を入れておくべきかと思ったが、そのままにしておいた。
「明日は午前に休みを取ったから。寝て起きたら、一緒に診療所に行こう」
「それが叔父様のところなのね」
「そう。患者への配慮とかはまるで無いけど、腕は確か」
「今さら内心のケアは要らないから、そっちの方が良いわ」
さらりと言ってのけたモモに、エリーは改めて驚く。
エリーが見てきた客とモモには、年齢以外にも決定的な違いがあるように思えた。死を穏やかに受け入れているのもそうだし、何より、エリーの今までの客は、現世の運命を繰り返すことを死んででも避けたい人々だった。当たり前だ。そういう商売なのだから。
しかしモモは、まるで運命を憎んでいるように見えない。もちろん、文字に起こせば、孤児として育ち、身柄を売られ、若くして病に斃れようとしているのだから、エリーを頼って当然の境遇だ。
娼婦として生きてきた経験は、それほどまでに、愛嬌のある少女という仮面を強固にしうるのだろうか。モモの内面をもっと知りたい。知るべきだ。いや駄目だ、これ以上踏み込めば、引き金を引く指は、ますます重くなってしまう。
信仰、信念、エゴ、ビジネス、そして、未だ自認出来ないモモへの感情。その全ての間で、エリーは板挟みになってしまっていた。
「じゃあエリー、一緒に寝ましょうか」
「狭いでしょ、ベッド。私は床で良い」
「あら、昨日は一緒に入れたじゃない。何がご不満?」
「それは、密接していたからというか、重なっていたからというか……」
結局、言い合いのような形になればエリーに勝ち目はない。顔が熱くなるのを感じて、気付かれる前に明かりを消す。そして少し時間を置いてから、モモの横に身を滑り込ませる。背中合わせになっても、シャワー上がりの少女の体温は無視できそうになかった。
「デート、楽しかったかしら?」
「それなりに。……今日やったことをデートと呼んでいいかは、知らないけど」
「好きな人と一緒に過ごしたら、何でもデートでいいの」
そしてモモは、よかった、と呟いた。エリーの返答に対する簡潔な安堵は、この少女にしては珍しくしおらしい声色だった。そして、そのいつもとは違う調子で続ける。
「ねえエリー、あなたのこと、初めて好きって言ったの。気付いたかしら」
「…………そうなの? なんだかもっと、隙あらばアピールされてたような気もするけど」
「そうなの。ほんとよ」
本当、とはどちらの意味なのだろうか。エリーは考えあぐね沈黙してしまう。モモが寝返りを打つ音がやけに大きく聞こえた。
「エリーとは、会ったばかりだけれど。それに、ほら……娼婦だから。好きじゃない人ともえっちするし、生きるためなら愛だって嘯くの。そして、明後日には死んでしまう」
まだ死ぬと決まったわけじゃない。そう思ったが、唇がうまく動かない。
「……こんなわたしの好きを、信じてくれる?」
背中に触れる、小さな手。
エリーは握り返すことも出来ずに、暗闇を見つめていた。
◆
「長くて半年。あと半月もすれば痛み止めも効きづらくなってくる。逆に、今までよく頑張ったね君」
禿頭の医師、ウィリアム・ベントナーは至極端的に告げた。彼が教会とは仕事を出来ず、小さな診療所を営んでいる理由は、こういった部分にある。
ウィルの宣告に、壁にもたれたエリーは小さく天を仰いだ。ウィルと向かい合って座るモモの表情は、窺い知ることは出来ない。
「素人向けに言えば、身体に避妊薬の有毒成分が蓄積されている。初期症状のうちに綺麗にできればどうにでもなるが、使ってた痛み止めも言っちゃ悪いが粗悪品だ。最後の手段は丸ごと取っ替えることだが――」
「ララエリシアで臓器移植は認められていませんものね」
「正解。単に禁じているだけならやりようがあるが、有史以来の聖典的禁忌とあっては、この国にはそもそもノウハウもパーツも無いわけだ」
ウィルは“お手上げ”のジェスチャーをした後看護師を呼ぶと、痛み止めだけでも良いやつにしてやる、と言ってモモと調剤室に向かわせた。診察室に、叔父と姪だけが残される。
「まあ聞いての通りだ、エリー。あの子が望んでるなら殺してやってもいい状態には見える」
「…………そう」
「相当肩入れしているな」
ウィルは問診票に目を通しながら、あれだけ幼ければ同情して当然か、と呟いた。エリーは曖昧に頷く。
「あの子、あのまま亡くなると自死になるの。知ってた?」
「知らなかったが、言われてみれば、そうなるだろうな」
猶更、お前が救済するしかないんじゃないのか。そう付け加えると、初めてウィルはエリーに視線を向けた。姪の曇った表情を、一瞥する。
「他の国なら。臓器移植は出来るってこと?」
「……母親を頼る気か?」
「必要なら」
「確かに、あれが行った国の一つくらい、移植が文化的も技術的にも可能なところがあっても不思議じゃあない。……旦那が死んでも便り一つ返さない女が、娘の買った娼婦に手を貸すかは分からないが」
「……叔父さん、私買ったなんて一言も」
「お前の“仕事”を知らない他人には、そう見えるって話だ」
「…………」
「そもそも、この国は外に出るにもそれなりの面倒がある。下層生まれの未成年、挙句戸籍はカネが絡んではっきりしない。そんな娘が出国資格を得られるか?」
「……でも」
「まあ諸々、可能性は限りなくゼロに近い。殺すと決める条件が、完璧なゼロと同値である必要があるのか。そこも含めて、改めて考えた方が良いだろうな」
ウィルが言い終え、モモが薬袋を持って戻ってくるまで、エリーは黙り込んだままだった。
次の患者がやってこなかったウィルは、二人を路地まで見送りに来た。
「お大事に、ってのが医者の決まりの挨拶なんだが、エリーの客には適切じゃない」
「あら。それじゃあ、ウィリアム先生はいつもなんておっしゃってるのかしら」
「特には。お幸せに、なんてどうだ」
「まあ! まるで結婚式みたい」
軽口を叩く二人を傍目に、エリーは考え込む。モモを国外に連れ出し、臓器移植手術を受けさせる。何が必要で、何が障壁になる? そうして、しばらくしてから、モモの呼びかけでようやく我に返ることになる。
「エリー?」
「…………」
「エリーってば!」
「……っ、ごめん。聞いてなかった」
「もう。午後からは仕事に戻るんでしょう。心配だわ」
「ちょっと考え事してて。大丈夫。それで、何だっけ」
「今夜は最後だから、お外でデートしましょうって話!」
最後。その一単語だけがエリーの鼓膜に届き、頭を埋め尽くす。最後であっていいはずがないのだ。モモの肩を掴む。
「まだ、最後じゃない。国外なら臓器移植は出来るかもしれないし――」
「ねえエリー、わたしの身体は、それまでもつの?」
エリーは、急に血の気が引くのを感じた。初めて見る表情。いつもの笑顔を失い、涙を浮かべているモモ。それが、空回りしていたエリーの内心を、急激に締め上げる。
「……エリー、ウィリアム先生とのお話、あとの方は聞いてたわ」
「それなら、」
「先生のおっしゃる通り。国を見つけて、お母様を見つけて、わたしの問題もなんとかして……そんなの、できっこないじゃない!」
少女の語気は強くなっていく。エリーが初めて見る、モモの「年相応」。
「どうしてそんな風に必死で生かそうとするの! 私がおじさまから聞いた"エリー"はそんな人じゃなかった!」
「どう、して、って……」
「私はあなたを買ったの。お金の分きっちりと仕事をする、そうやって生きてきたのよ! あなたも! 私も!」
「モモ…………」
「……おねがい。これ以上、死ぬのを怖くさせないで…………」
嗚咽の中の、絞り出すような懇願。全ての笑顔は、少女の克己によって成り立っていたという告白。
今のエリーに、返す言葉などあるはずもなかった。
◆
第一墓地。これ以上拡張が出来ず、清掃と墓参以外で人が訪れることはなくなった、モンドコート最古の墓地。二重の意味での仕事場で、エリーはひとり、夕焼けをぼんやりと眺めていた。
出勤直後のエリーの仕事ぶりは、茫然自失と言うほかなかった。シスター・フランがその様子を見かねて、午前休と言わず丸一日休むことを提案するほどに。
とはいえ、あの後モモを小部屋に帰らせた手前、エリーは墓掃除をしている方がまだ気楽だった。そうして、今に至る。
自分でもわかってはいる。モモを生かそうという努力は、今までの客に対するそれとは、熱量が違う。
モモはあの時、「どうして」と問うた。死の覚悟を乗り越えた少女に、あるかもわからない希望をちらつかせたのは、私だ。
――その「どうして」が、謗りではなく、単純な疑問詞だったとして。
自分は今、その答えを持っているはずだ。なのに、言えなかった。
彼女が不憫だから? 違う。
彼女が幼いから? 違う。
彼女が苦しんでいるから? 違う。
自分が聖職者だから? 違う違う違う違う。
モモに生きていてほしい。それは、エリー、おまえの純然たる内心のエゴだ。
もう一歩だ。何故生きていてほしい?
わかっているはずだ。知っているはずだ。それでも、言葉にするのが怖い。死にゆく少女にそれを埋め込んで、残された者はどう生きればいい。去る者はどう死ねばいい。不要な悲しみを抱えて、何になる?
心に染み付いた理屈に怯えて、喉がきゅうと細くなる。でも、今の私は。
モモに好きだと言えないことの方が、もっと怖いんじゃないのか。
エリーは大きく息を吸い、夕暮れ時の空気の冷たさに驚いて大きく咳込んだ。とっくに知っていたことに、今気付いたみたいに。口角がほんの少し上がる。
モモが昨夜、不安そうにしていたのを思い出す。彼女が、彼女自身の言葉を信じられないのだと。
ならば、聞かせてあげなくてはいけない。わかりきっていた答えの周りをグルグル遠回りして、今更言葉を信じるしかなくなった女の告白を。
きっと口にしてしまうことで、変わってしまうこともある。変えられなくなってしまうこともある。モモを、あるいは、自分を苦しめる呪いになるのかもしれない。勝手だ。単純だ。居直りだ。でもそれは、言わない今だって一緒だ。
それでも、モモが何故かと問うのなら。
「……モモのことが好きだからに決まってる」
エリーの決意は、墓地の静謐をほんの少し揺らして、確かに残った。
◆
「……エリー、何かしらこれ」
「私の行きつけの、一番高いメニュー。……上層でも珍しいくらい良い牛肉の、シンプルにステーキ」
内心との決着はついたはずだったのに、それでもエリーは、不器用で、口下手で、慎重な女だった。モモの機嫌を取るのに、帰宅してすぐ土産から入るくらいには。
一方のモモも、自分が癇癪を起した側であると認識できないほど、幼くはなかった。結果として、謝ろうとして謝り損ねた女が二人。ぎこちない空気が漂う。
しかしエリーは、意外な次の一手を用意していた。
「……これなんだけど、二人分あって」
「え?」
「いやその、私も食べようかな、なんて」
汗を流しながら、ナイフとフォークを動かすエリー。美味しくないわけではない。単純な量と脂に、彼女の内臓が圧倒されているだけ。一方でモモはとっくに完食し、悪戦苦闘するエリーを眺めて楽しんでいた。
「エリーちゃん、ちゃんと全部食べられるかしら?」
「そんな、幼児みたいな」
「でも本当に、それくらいの食の細さじゃないかしら。一体どういう心変わり?」
「モモと一緒のものを、食べてみたいなって」
「それなら私の方をエリーに揃えたらよかったじゃない! もう、エリーってば……」
ひとしきり笑い合う。そして最後の一切れをエリーが飲み込んだあと、再び訪れそうになる静寂。
「……モモ、ちょっと付き合ってくれる?」
それを破ったのは、不安を満腹感で無理やり塗りつぶしたエリーの方だった。
「エリー、どこに向かっているの?」
「特には。ただの散歩、かな」
目的もなく夜のモンドコートを歩く。それは、エリーにとっては極めて珍しいことだった。路地裏であればなおさらだ。散歩慣れしていない彼女の脚は、言葉とは裏腹に歩き慣れた道を選んでいく。
教会や大通りとは反対側。標高の低いこの辺りでは珍しい、小高い丘の上。モンドコートで最も新しい集団墓地、第五墓地へ。
坂や階段を上るにつれて、上層地域の光が遠くで輝くのが見えた。一方の下層は薄暗く、それでも所々に、夜に生きる人々の生活がちらつく。そして空で輝く星々が、それらを平等に照らしていた。――ララエリシアに夜景という言葉が生まれるのは、もう少し後のことになる。
「ここは、モンドコートで初めて、景観を気にして作られた墓地。……夜に来たのは初めてだけど、夜の方が綺麗だ」
エリーはほとんど独り言のようにモモに話しかける。モモもまた、消え入りそうなほど小さな声で相槌を打った。エリーは続ける。
「お墓って、誰のためにあると思う?」
「……教会は、遺された人のためって教えてるんじゃなかったかしら」
「正解。だからここは、景色の良い丘の上に作られた。誰かの愛した誰かが、静かに、穏やかに眠ることができたと信じたいから」
長寝しないで転生するはずなんだけど、と付け加える。この墓場は、あまり信心深くない下層地域だからこそ生まれた、穏やかな祈りの結実なのかもしれない。エリーは続けて口を開く。
「モモ、昼は本当にごめん」
「……わたしも大人げなかったから、謝ってもらうほどのことじゃないけれど。お肉や景色に頼らず、帰ってきて最初に言ってくれても良かったんじゃないかしら」
「…………重ねてごめん」
心理的な駆け引きでモモに勝てるはずがない。そんなことはエリーもわかりきっている。でもそれは、あくまでエリー自身のための助走だった。もう、後戻りは出来ない。
「どうして生かそうとするか、って聞いたよね」
「ええ」
「私なりにちゃんと考えた。……実際、一人の客にここまで頑張ったことはなかったから」
中空に向けていた双眸で、改めて少女を見据える。モモとしっかり目を合わせるのは、肌を重ねたあの夜以来かもしれない。エリーはそんなことを思いながら、言葉を紡ぐ。
「私も好きだよ、モモ。必死になってるのは、私が、モモとまだ一緒にいたいから。それだけ」
口にした瞬間、自分と少女の全てが根底からひっくり返ってしまうような、エリーは、そんな覚悟もしていた。けれど、そもそも二人の関係は絶え間ない流転の最中にあって。きっとこうなるだろうという微かな予感を持っていたモモは、言葉で返すことなく、ただ静かにエリーを抱きしめていた。
日中の言い合いを鑑みれば、エリーは更なる悪手を打ったはずなのだ。死への覚悟を乗り越えたはずの少女の影に、楔を打ち立てるような告白。それでも、理屈を上回るほどに、伝えたかっただけの感情。
エリーにとっては、初めてだった。モモにとっては、呆れるほど慣れていた。それなのに、その温度を共有できたことが嬉しくて、娼婦の少女は、エリーにくっついていた。
夜が明けるまで、笑ったり泣いたりしながら、ずっとそうしていた。
時間は流れ続ける。遥かなる星々のひそやかな光が薄れて、恒星が大空を朝焼けに染め始めた。
エリーは泣き出しそうな顔で、夜に第一墓地でと告げる。モモはそれには答えず、エリーをしゃがませると、とても軽い口づけで返した。刹那のあと、二人は短く言葉を交わして、その場から別々に歩き出した。
教会の清掃員は、仕事場へ。娼婦の少女は、下層のどこかへ。
どこか。そう。
この日を最後に、エリーが少女と会うことはなかった。
◆
◆
エリーの銃弾が、モモを貫くことはなかった。
エリーはモモを捜した。風俗宿、娼婦の住処、酒場、墓場、教会、彼女の残した札束――
そのいずれにも、モモの僅かな痕跡すらありはしなかった。
別れへの喪心、殺さずに済んだ安堵、救うことが出来なかった懺悔、少女が今何をしているかへの思慕と不安。この数日で、多くの感情がエリーの胸に去来したが、愛を伝えたこと自体を悔やんだりはしなかった。それだけは、しないと決めていた。
それらがほんの少しずつ掠れて、少女の残り香が、思い出に変わり始めたころ。エリーの小部屋に、字の汚い手紙が届いた。
読み終えた彼女は、涙を流して、ただ願っていた。祈りではない。ただひたすら、モモの旅路に幸あれ、と。
◆
愛しいエリーへ
本当はすぐにこの手紙を送りたかったのだけれど、わたしってちゃんと読み書きを習ったことがなかったの。遅くなってしまって、本当にごめんなさいね。
突然いなくなったことについても、ごめんなさい。
それがエリーを傷つけて、心配させることはわかっていたけれど、わたしにはそうすることしかできなかった。
急に、怖くなってしまったの。死ぬことじゃなくて、エリーに殺してもらうことが。
だってあの夜、とってもうれしかった。エリーが好きって言ってくれたから、はじめて、わたしの好きが本物になれたの。
痛いことや、苦しいことが、いっぱいあった。
誰かに殺してもらいたいと思うような、人生だった。
でもね、そうじゃなきゃ、不器用で、口下手で、とってもかわいい、わたしの天使サマを知ることもできなかったって気付いてしまった。
ねえエリー。わたし、いつかあなたに出会える運命なら、何回繰りかえしたって怖くないわ!
だからどうか、来世のわたしのことも、優しく抱きしめてちょうだいね。
モモ(・ベントナーになれたらよかったのに!) より、愛を込めて
追伸。お金はエリーにあげてもいいけど、きっともらってくれないでしょうね。モンドコートの教会に寄付ってことにするわ!
◆
「あらエリー、久しぶりじゃない」
「ああどうも……テイクアウト以来ですかね?」
「ええ。あのエリーの口からステーキ二枚なんて注文が出た時は、明日は槍でも降るのかと思った」
「ちょっと親戚が遊びに来てたもので。喜んでました」
「そりゃ何より。今日は一人ってことは“いつもの”かい?」
「お願いします。ああ、でも――」
これでもかというほど牛肉が盛られたトマト煮込みを持ってきた店主が、どういう心変わりかと機嫌よく尋ねる。
エリーは静かに、そして端的に。好きになったんです、と笑った。
シルバーバレットなんてなかった Kinderkrankheit @63ryy
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