ネオ・出島の夜明け ~異世界団地と、銀色のパートナー~
@Houuge
第1話:暗闇の海と、最初の「スミマセン」(前編)
世界が終わってから、八十五日が過ぎた。
終わったといっても、空が割れたり、地面からゾンビが溢れ出したりしたわけではない。ただ、ほんの少し「位置」が変わっただけだ。
日本列島という名の巨大な船は、我々が知る地球の太平洋上から、物理法則の異なる未知の惑星の海へと、何の前触れもなく座礁した。
その結果、何が起きたか。
端的に言えば、日本の夜から「光」が消えた。
午後七時。
海原(うなばら)市、港湾地区に近い古びた木造アパートの一室。
柏木湊(かしわぎ・みなと)は、手回し式ラジオのノイズ混じりの音を聞きながら、冷え切った乾パンを齧っていた。
部屋を照らすのは、キャンプ用のLEDランタンひとつだけ。白い無機質な光が、狭いワンルームに長い影を落としている。窓の外は漆黒だ。かつては街灯やネオンで明るかった通りも、今は深海のように静まり返っている。
「……硬いな」
独りごちて、口の中の水分をすべて奪っていく乾パンを、少量の水で流し込む。
かつて蛇口を捻れば湯が出た生活は、もうない。
転移から一週間後、「水素緊急措置法」が施行された。海外からの資源輸入が途絶えた日本は、国内に残存するエネルギーを「病院・通信・自衛隊」へ集中させる道を選んだのだ。
一般家庭への電力供給は、一日のうち十二時間に限られる「大規模輪番停電」によって制限されている。今日の海原市は、夜間の停電当番だった。冷蔵庫の中身は空っぽ、エアコンも動かない。三月の夜気は容赦なく隙間風となって入り込み、ダウンジャケットを着込んだ湊の体温を奪っていく。
湊は悴む指を擦り合わせながら、テーブルの上に広げた分厚いファイルに目を落とした。
それは英語でもフランス語でもない。転移後、政府が配布した『アステル共通語・暫定辞書(第3版)』のコピーだ。
「ええと……この単語の語源は……」
暇つぶしだった。
スマホは圏外。ネットは「イントラネット・ジャパン」という国内限定回線が生きてはいるが、一般回線は帯域制限でテキストサイトを見るのがやっとだ。動画もゲームもSNSもできない夜、湊にできることといえば、公務員としての職務で必要になるかもしれない異世界言語の勉強くらいしかなかった。
ランタンの光の下、見慣れない綴りの単語を指で追う。
その時だった。
(……待てよ。これ、意味を調べる必要ないな)
ふと、そんな感覚がよぎった。
辞書のページをめくる指が止まる。視線の先にある単語は『Gura(グラ)』。まだ意味を暗記していない、初見の単語だ。
だが、湊の脳裏には、辞書を引くよりも早く、あるイメージが浮かんでいた。
――重いものが、地面に沈み込む感覚。
――建物を支える、見えない部分。
――あるいは、揺るがない関係性。
まさか、と思いながら解説文を読む。
[cite_start]『Gura【名詞】:礎(いしずえ)、土台。また、転じて「信頼」や「信仰」を意味することもある』
「……当たりだ」
湊は小さく息を吐いた。
最近、こういうことが増えている。
初めて見るはずの異世界の言葉なのに、その文字の並びや発音の響きから、なんとなく「意味」が匂い立つように感じられるのだ。
まるで、忘れていた記憶を思い出しているような、奇妙な既視感。あるいは、パズルのピースが勝手にハマっていくような快感。
「暇すぎて、頭が冴えてるのかな」
湊はこめかみを軽く揉んだ。
ズキリ、と軽い頭痛がする。
これも最近の傾向だった。何かに集中したり、深く考え事をしたりすると、脳の奥が熱を持ったように痛み出す。栄養不足か、あるいは長引く非日常へのストレスか。
世間では、この原因不明の感覚鋭敏化を「特異環境適応症候群(SEAS)」と名付け始めていたが、湊は単なる疲れだと思っていた。乾パンと水だけの生活で、神経が過敏になっているだけだろうと。
その時、静寂を破って玄関のドアが叩かれた。
インターホンではない。電気が来ていないからだ。拳で直接、鉄の扉を殴るような乱暴で焦燥に満ちた音。
ドン、ドン、ドン!
「柏木さん! いますね? 海原市役所・総務課の柏木湊さん!」
ドア越しに聞こえたのは、張り詰めた女性の声だった。
聞き覚えがある。内閣府から出向してきている、あの鉄面皮の管理官だ。
湊は慌てて立ち上がり、ランタンを持って玄関へ向かった。
鍵を開け、ドアを少し開く。冷たい夜風と共に、緊張した空気が流れ込んでくる。
そこに立っていたのは、防災服に身を包み、ヘルメットを小脇に抱えた氷川玲子(ひかわ・れいこ)だった。彼女の背後には、濃紺の公用車がハザードランプを点滅させて停まっている。その赤い光が、路地裏の闇を不気味に明滅させていた。
「……氷川さん? どうしたんですか、こんな時間に」
「緊急招集です。着の身着のままで構いません、乗ってください」
彼女の表情に、余裕は一切なかった。
眼鏡の奥の瞳が、ランタンの光を反射して鋭く光る。普段は冷静沈着で、どんなトラブルにも眉ひとつ動かさない彼女が、今は微かに息を弾ませていた。
「『荷物』が届きました」
「荷物?」
「ええ。……我々が待ち望んでいた希望であり、同時に、最大の頭痛の種になるかもしれない『荷物』です」
湊は一瞬、言葉の意味を測りかねたが、彼女が冗談を言う人間でないことは知っている。
嫌な予感が背筋を走った。
ただ事ではない。この国が置かれている状況下で「緊急」と言えば、それはすなわち国家存亡に関わる事態を意味する。
「……分かりました。すぐ出ます」
湊は黙って頷くと、ダウンジャケットのファスナーを上げ、靴を履いた。
辞書は開いたままテーブルに残された。『Gura(信頼)』という単語が、ランタンの光の中で白く浮き上がっていた。
2. 停滞する街と、過去の記憶
公用車は、闇に沈んだ海原市のメインストリートを疾走していた。
信号機は消えている。交差点ごとに配置された警官や誘導員が振る、赤い誘導灯の光だけが、流れるように後方へ飛び去っていく。
窓の外に広がる街並みは、死んだように静かだった。
かつてネオンが輝いていた繁華街も、今は黒い墓標のようにビル群が聳え立っているだけだ。時折、マンションの窓から蝋燭やランタンの心細い灯りが見えるのが、そこに人が生きている唯一の証拠だった。
「ひどい暗さですね……」
助手席で湊が呟くと、ハンドルを握る氷川が前を見据えたまま答えた。
「これでもマシになった方です。一ヶ月前は、月明かりだけが頼りでしたから」
彼女の言う通りだ。
転移直後の混乱、通称ブラックアウトの時期は、本当に地獄だった。
一月一日、正午。
何の前触れもなく、空の色が青から不気味な紫色に変色した。直後、全GPS信号がロストし、海外サーバーとの接続が切断された。金融市場のアルゴリズムが暴走し、東証は緊急停止。
そして何より、エネルギーだ。
日本は水素社会への移行を進めていたが、その原料となる液化天然ガス(LNG)は海外輸入に依存していた。タンカーの列が途絶えた瞬間、都市の動脈は止まった。
家庭用燃料電池(エネファーム)はお湯を作らなくなり、水素自動車(FCV)はただの鉄の塊となった。
政府は決断した。「座して死ぬか、空を焼いてでも地図を得るか」。
残存する貴重な燃料を、H3ロケット「アマテラス」に注ぎ込み、強引に打ち上げたのだ。上空を覆う未知のエネルギー障壁「魔素帯」を突破する際、衛星の寿命が縮むことも覚悟の上で。
結果、アマテラスはたった三ヶ月で燃え尽きたが、その命と引き換えに「世界地図」という遺産を残した。
「それで、行き先はどこなんです?」
湊は思考を現在に戻した。
「第三埠頭です。海上自衛隊が封鎖線を張っています」
「海自が? ……ただ事じゃないですね」
湊は居住まいを正した。
海原市は、日本海側に位置する地方都市だ。かつては大陸との貿易拠点だったが、転移後は「異世界大陸に最も近い玄関口」として、国防の最重要拠点となっていた。
そこに自衛隊が展開しているということは、外からの接触があったということだ。
「単刀直入に言います。……漂着船です」
「漂着船?」
「ええ。三時間前、沖合の哨戒艇が未確認船舶を捕捉しました。形状は、帝国製の鉱石運搬船と推定されます」
帝国。
聖グリディア帝国。
アマテラスの観測データによって存在が確認された、この大陸の覇権国家だ。
人間至上主義を掲げ、亜人を奴隷として扱う軍事国家。思想的には中世ヨーロッパの宗教国家に近いが、その軍事力と支配領域は強大だ。
日本にとっては、今のところ直接的な交戦はないものの、潜在的な敵国である。
「帝国の船が、なぜ日本に? 攻撃の予兆ですか?」
「いえ。船はボロボロで、動力反応もありませんでした。海流に乗って流されてきただけのようです。……問題は、その中身です」
氷川はハンドルを切った。
港へ続くゲートが見えてくる。赤色灯を回したパトカーと、自衛隊の深緑色のトラックが壁を作っている。物々しい検問だ。
「生命反応があります。それも、多数」
「生存者がいるんですか」
「はい。ですが……人間ではありません」
車が検問所で停まる。
自衛隊員が懐中電灯を向けてくる。氷川がIDカードを見せると、隊員は緊張した面持ちで敬礼し、バリケードを開けた。
「相手は、いわゆる『亜人』のようです。それも、かなりの数が乗っている」
「亜人……」
湊は息を呑んだ。
これまでも、ダンジョン化した鉱山から小型の魔物が現れたというニュースはあった。スライムやゴブリンといった、言葉の通じない怪物だ。
だが、知的生命体との接触は、これが初めてのケースになるかもしれない。
ファンタジー小説の中だけの存在だと思っていた「彼ら」が、現実に、この日本の土を踏もうとしている。
「現場は混乱しています。相手が敵対的なのか、対話可能なのかも分からない。……そこで、あなたを呼びました」
「僕ですか? 僕はただの総務課の職員ですよ。交渉ごとなら、もっと適任が……」
「適任はいません。本職の外交官たちは東京で『座して死ぬか、戦うか』の会議に忙殺されています。それに、あなたは先月の適性検査で、言語理解のスコアが突出して高かった」
氷川は車を停めた。
エンジンの音が消えると、潮騒の音と共に、どこか生臭い、野性的な獣の臭いが車内に侵入してきた。
それは動物園の檻の前で嗅ぐような、濃厚な「生」の気配だった。
「行きましょう、柏木さん。……歴史的瞬間の、立会人として」
3. 一触即発の埠頭
車を降りた瞬間、強烈な海風が湊の頬を叩いた。
埠頭には、工事用の投光器がいくつも設置され、人工的な昼間を作り出している。その眩しさに、湊は目を細めた。
光の先には、異様な光景が広がっていた。
岸壁に、見たこともない形状の船が係留されている。
全体が錆びついた鉄の塊のような、武骨な船だ。甲板はなく、まるで潜水艦のように密閉されたカプセル状の構造をしている。船体にはフジツボや海藻がびっしりと付着しており、長い漂流の過酷さを物語っていた。
おそらく、波の下を潜るようにして、海流に揉まれてここまで来たのだろう。
そして、その船の前に、彼らはいた。
「うわ……」
湊は思わず声を漏らした。
自衛隊員たちが小銃を構えて包囲する中心に、五十人ほどの集団が固まっている。
ボロボロの布を纏っているが、そのシルエットは人間に近い。
だが、明確な違いがあった。
頭部から生えた、感情に合わせて動く獣の耳。そして、腰から伸びる太い尻尾。
ガルーム族。
後にそう呼ばれることになる、狼の特質を持つ亜人(デミ・ヒューマン)たちだった。
「グルルゥ……!」
低い唸り声が、風に乗って聞こえてくる。
彼らは円陣を組み、内側に子供や女性たちを守るようにして、外側を屈強な男たちが固めていた。
男性のガルーム族は、腕や胸に野性的な体毛が生え、中には鬣(たてがみ)のような毛を持つ者もいる。その姿は、伝説の狼男を彷彿とさせる荒々しさがあった。
対照的に、守られている女性たちの肌は滑らかで、耳と尻尾を除けば人間と変わらない容姿をしている。
その全員の目に、明確な敵意――いや、極限の警戒色が宿っている。
手には武器らしきものは持っていないが、男たちの太い腕と鋭い爪だけで、十分に脅威であることが見て取れた。
「状況は?」
氷川が、現場指揮官らしき自衛官に駆け寄る。
指揮官は疲労困憊の様子で首を振った。
「膠着状態です。ハッチを開けて出てきたところまでは良かったんですが、こちらの呼びかけに応じない。拡声器で呼びかけても反応なし。万が一のために武装解除を求めて銃を向けたら、この有様です」
「言葉は?」
「通じません。何か喚いていますが、威嚇音にしか聞こえない」
指揮官の苛立ちはもっともだった。
この現場にいる日本人は全員、恐怖しているのだ。
相手は、人間を遥かに超える身体能力を持っていそうな「未知の生物」だ。もし暴れ出せば、隊員に被害が出るかもしれない。そんな緊張感が、引き金にかかる指に力を込めさせていた。
「どうしますか、柏木さん」
氷川が湊を見る。
湊はバリケードの隙間から、彼らの姿を凝視した。
距離にして二十メートル。
投光器の逆光で表情までは見えにくいが、彼らが殺気立っていることだけは肌で感じ取れる。
(……怖いな)
それが、湊の正直な感想だった。
ファンタジー映画ならワクワクする場面かもしれない。だが、現実は違う。
獣の臭い。
荒い鼻息。
剥き出しの牙。
生物としての圧倒的な「強さ」の違いが、本能的な恐怖を呼び起こす。自分たちが「ひ弱な猿」であることを突きつけられるようだ。
それでも、湊は一歩前に出た。
なぜなら、彼らの中に「違和感」があったからだ。
まただ。あのアパートで辞書を引いた時と同じ、頭の奥が疼くような感覚。
何かがおかしい。
目の前の光景と、湊の直感が、食い違っている。
「……もう少し、近くで見せてもらえませんか」
「危険です。彼らは興奮状態にある」
「ここからじゃ、何も分かりません。言葉を聞き取るためにも、前に出ないと。……それに、彼らはずっとあの場所から動いていない。襲ってくるなら、とっくに来ているはずです」
湊の指摘に、氷川は少し逡巡したが、すぐに頷いた。
指揮官が渋々、隊列の一部を開ける。
湊は大きく深呼吸をして、バリケードの向こう側――「こちら側」と「あちら側」の境界線へと足を踏み出した。
心臓が早鐘を打っている。
だが、その鼓動のリズムに合わせて、湊の視界は奇妙なほどクリアになっていった。
4. 銀色の戦士
湊が前に出ると、獣人たちの反応が劇的に変化した。
群れの中から、一人の個体が音もなく進み出てきたのだ。
若い女性の個体だった。
ボロボロの革鎧を纏ってはいるが、その容姿は人間とほとんど変わらない。
透き通るような白い肌。腰まで届く長い銀髪が、海風に煽られて舞う。
ただ、その頭頂部には銀色の獣耳があり、背後にはふさふさとした大きな尻尾が見え隠れしていた。
ライラ。
群れのリーダーの娘であり、戦士階級にある彼女は、湊という「代表者らしき人間」の接近に対して、自らが盾となるべく前に出たのだ。
「シャアアッ!!」
ライラは湊を睨みつけ、喉の奥から鋭い威嚇音を発した。
その双眸は、サファイアのように青く澄んでいるが、今は殺気で吊り上がっている。
彼女が半歩、足を踏み出す。
その動作はしなやかで、まるで獲物に飛びかかろうとする肉食獣そのものだった。
その距離、十五メートル。
彼女の脚力なら、一瞬で詰められそうな距離だ。
「ッ! 動きがあります! 撃つぞ!」
背後で自衛官が叫んだ。
ガチャリ、と一斉に安全装置が外れる音が響く。
乾いた金属音が、張り詰めた空気を限界まで膨張させる。
トリガーに指がかかる。
「待ってください!」
湊は叫んだ。
だが、現場の空気は止まらない。
隊員たちの目には、ライラの行動が「攻撃の予備動作」として映っている。彼らもまた、家族を守るために必死なのだ。未知の化け物が襲ってくるなら、撃つしかない。それが生物としての正常な判断だ。
銃口が火を噴くまでのカウントダウンが始まる。
(……違う)
湊の脳内で、警報が鳴り響く。
視界がスローモーションのように引き延ばされる。
恐怖で足が竦みそうなのに、思考の一部だけが、氷のように冷たく、冷静に目の前の光景を「解析」し始めていた。
――見ろ。
――恐怖に支配されるな。情報を拾え。
――彼女は本当に、襲ってくるのか?
湊の目は、ライラの美しい顔ではなく、その足元に吸い寄せられていた。
コンクリートの地面を踏みしめる、裸足の爪。
もし彼女が飛びかかるつもりなら、爪は地面を深く抉るように食い込んでいるはずだ。あるいは、後ろ足に体重を乗せ、バネを縮めるように重心を低くするはずだ。獣の狩りの姿勢とはそういうものだ。
だが、現実は違った。
彼女の爪は、コンクリートの上で所在なげに滑っていた。
膝を見ろ。
微かに、だが確実に、小刻みに震えている。
重心は高いままだ。あれでは飛びかかれない。むしろ、後ろに倒れそうになるのを、必死に爪を立てて堪えているように見える。
そして何より、彼女の呼吸。
威嚇音の合間に混じる、ヒューヒューという掠れた音。
(あれは、攻撃姿勢じゃない)
湊の中で、直感が確信へと変わる。
論理が後から追いついてくる。
なぜ震えている? 寒いからか?
彼女は人間と同じような白い肌を晒し、薄い布切れと革鎧だけで立っている。三月の夜風は冷たい。
だが、違う。相手は獣人だ。人間よりも基礎体温が高く、強靭な肉体を持っているはずだ。単なる寒さだけで、戦士と思われる彼女がここまで震えるだろうか。
なら、理由は一つしかない。
(立っているのが、やっとなんだ)
恐怖か、疲労か、あるいは空腹か。
いずれにせよ、彼女は今にも崩れ落ちそうな体を、気力だけで支えて、虚勢を張っているだけだ。
群れを守るために。自分が倒れたら、後ろの子供たちが殺されると思っているから。
その姿は、化け物なんかじゃない。
守るために必死な、ただの「人」だ。
「撃つなッ!!」
湊は反射的に体を投げ出していた。
自分でも信じられない行動だった。銃を構える隊員の射線上に割り込み、両手を広げて立ち塞がる。
「邪魔をするな! 殺されるぞ!」
「違います! よく見てください!」
湊は息を切らしながら、後ろを指差した。
その指先は、今にも飛びかかろうとしている(ように見える)ライラに向けられている。
「彼女の足を見てください! 爪が……爪が立っていません!」
湊の口から、言葉が勝手に溢れ出す。
普段の自分なら、こんな状況でこれほど流暢に喋れるはずがない。だが、今の湊には、世界の「解像度」が上がったように、伝えるべき情報が明確に見えていた。
「攻撃する気なら、もっと重心を低くして、地面を蹴る体勢をとるはずです。でも、彼女は膝が笑っている! 威嚇しているんじゃない、怖がって……いや、立っているのが限界なんです!」
湊の声が、埠頭に響き渡る。
その指摘は、あまりにも具体的で、切実だった。
隊員たちが、思わずライラの足元に視線を移す。
震える膝。定まらない足取り。
殺気だと思っていたものが、悲痛な虚勢に見え始める。
そして、それが真実であることを、ライラ自身が証明した。
「……あ……」
緊張の糸が切れたのか、あるいは湊の大声に驚いたのか。
ライラの膝が、ガクンと折れた。
彼女は受け身を取ることもできず、その場に崩れ落ちた。
「シャアッ」という威嚇の声は消え、代わりに「ハァ、ハァ」という、荒く苦しい呼吸音だけが残った。
銀色の髪が、冷たいコンクリートに広がる。
「……本当に、倒れたぞ」
隊員の一人が呟く。
銃口が下がる。
敵意という名のフィルターが外れた瞬間、彼らの目にも「真実」が見え始めた。
ライラだけではない。後ろにいる剛毛の男たちも、人間のような姿をした女や子供たちも、全員が痩せこけ、目が窪んでいる。
漂流期間は約二十日間。
彼らは水も食料も尽きた船の中で、極限の飢餓状態にあったのだ。
敵ではない。遭難者だ。
「……氷川さん」
「分かっています。医療班と給水車を、すぐに!」
氷川の指示が飛ぶ。
現場の空気は、「戦闘」から「救助」へと一瞬で切り替わった。
だが、まだ終わっていない。
湊は、倒れ込んだライラへと歩み寄った。
彼女はまだ、震える腕で上半身を起こし、湊を睨み続けている。
そのサファイア色の瞳には、まだ深い不信感があった。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます