ノワレ

ピアノ室の前で、私は立ち止まっていた。


 重い扉の向こうから、かすかに音が漏れてくる。

 誰も弾いていないはずなのに、確かに“続きを待つ音”。


 そのときだった。


「……お嬢様」


 背後から、フレシアの声。

 振り返ると、彼女はいつものように微笑んでいない。

 その手は、わずかに震えていた。


「どうして、ここに?」


 私の問いに、フレシアは答えなかった。

 代わりに、静かに口を開く。


「……先ほど、私は嘘をつきました」


 胸が、きゅっと縮む。


「姫君は、役目を果たせば“消える”と。

 歴史からも、世界からも、完全にいなくなると」


 ゆっくりと、首を振った。


「正しくは、違います」


 フレシアは、私をまっすぐ見つめる。


「姫君は――

 消えるのではありません」


 一瞬、息が止まった。


「完成と同時に、

 “落ちてきた魂”は、元の世界へ戻されます」


 ……戻る?


「最初にいた場所。

 本来、生きるはずだった時間へ」


 頭の中に、ベランダの光景が浮かんだ。

 小鳥の声。

 遠くのピアノ。

 「お姫様みたい」と呟いた、あの瞬間。


「では……この世界での私は」


「歴史書に表記されないだけで、私たちの記憶には残ります。」


 フレシアは、はっきりと言った。


「記憶に。

 楽譜に。

 “存在した姫”として」


 私は、思わず笑ってしまった。


「……それ、消えるのと何が違うの?」


 声が、震える。


「私が戻った世界では、

 この世界の記憶は、夢みたいに薄れて。

 ここでは、私の“中身”はいなくなる」


 フレシアは、何も言えなかった。

 それが、答えだった。


「どうして……」


 問いかける。


「どうして、嘘を?」


 フレシアは、ようやく膝を折った。

 祈るように、床に手をつく。


「戻れると知れば……

 姫君は、戻ってしまうからです」


 胸が、強く打たれた。


「消えるのなら、この世界にいてくれる。

 でも――

 “戻れる”と知ってしまえば」


 彼女の声は、かすれていた。


「元の世界を、選びたくなってしまう」


 静寂。


 ピアノの音が、ひとつ、低く鳴った。


 ――それが、答えだ。


 この世界は、私を必要としている。

 けれど私は、ここに“属している”わけじゃない。


 セレスティア・ノワレは、役目の名前。

 本当の私は、星から落ちてきただけの魂。


 それでも。


 それでも私は、

 この城で過ごした朝を覚えている。

 フレシアの声を、温室の匂いを、

 ずれた星の夜を。


「……ひどい嘘だね」


 そう言うと、フレシアは泣いた。

 私は、扉に手をかける。

 消えるわけじゃない。

 戻れる。


 だからこそ――

 この選択は、簡単じゃない。


 最後の音を弾けば、世界は完成する。


 そして私は、“お姫様だった夢”を胸に、元の世界へ帰る。


 それでも、

 この続きを――

 誰かに託すわけには、いかなかった。

 ピアノの前に、私は座る。


 星が、静かに正しい位置へ戻り始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る